九話 『 説得と、命の責務 』
山の主たる巨猪の威容が現れた。
『数日振りか、ルチルとやら』
『山ヌシ様!』
ルチルの眼には、やたらと屈強な肉体を誇る巨漢に見えている山の主たる猪は、悠然とその体を揺すって高い位置からルチルとカルネを見下ろす。銃を持つカルネと、それを突き付けられるルチル。その瞬間――瞳に殺気が籠った。
『猟銃、か……』
状況を俯瞰した山ヌシは、短く、太い声でひと鳴きしてみせた。すると、樹々の陰からカルネを窺っていた動物たちが一斉に姿を現し、高く低く、声を張り上げて鳴き始めた。四足の獣も翼をもつものも、他の生き物も、喚く。耳をつんざき、腹を揺さぶり、樹々すらも振動させる山の咆哮の様に。
そして、動物たちはその声を張り上げたままゆっくりと、カルネとの距離を詰めていった。
一方――、
「ッ――くっ、耳が……」
カルネは堪らず耳を抑えていた。その拍子に銃口がルチルから外れるが、山の動物たちの鳴き声は収まることはなく、カルネを威圧するように続き、包囲網を狭めていく。
だから、気づいたのかもしれない。
こんな状況が初めてのルチルにも、この後の展開が不吉なものであると。
『山ヌシ様! 何を、何をするつもりですかっ!』
しかし、言葉に返答はない。
山ヌシは、屹立させる巨体はそのままにカルネを見下ろして、ただ行く末を見守っていた。
『山ヌシ様ッ!』
ルチルの胸を、ざわついた焦燥が焼く。
無数の動物たちは鳴くことをやめず、じりじりとカルネとの距離を縮めていく。
カルネはこの状況になって、耳を抑えたまま周囲に視線を巡らせた。
「ハッ……そういうことかい」
そして耳をつんざく鳴き声から自分を守るのをやめると、右手で猟銃を構え、左手に鉈を持った。
「あんたらがそういうつもりなら、こっちにだって覚悟はあるんだ。来なよ、殺し尽くしてやるからさぁっ!」
殺し合い。その火ぶたが切られる。
数の上で山の動物の方が多いが、カルネが持っているのは散弾銃。まとめて多くの獣に傷を負わせられる強力な武器だ。体の大きなものならば、弾としてばら撒かれる一発一発が小さいものだから、数発体にめり込んだところで命取りにはならないが、体躯の小さい者なら簡単に命を狩れてしまうもの。いいや、体の大きな獣であっても、当たり所が悪ければ死に至る可能性もゼロではない。
なのに、動物たちの鳴き声と行進は止まらない。
『ね、ねぇ、やめようよ、みんな! よくないよ、死んじゃうの、よくないよ!』
ルチルはカルネに迫る動物たちに制止を促す。だが、やはり止まる様子を見せることはなく、ただただ命を使って命を狩る自然界のルールにみな身を置いていた。
(どうしよう、どうすればいい? 何をすればこれを止められるの!?)
カルネ曰く不細工な表情を作るルチルは、涙ぐむ目を乱暴に腕で拭って考えた。けれど、どんなに頭をひねって考えても、上手い解決策は思い浮かばない。だから、ルチルがとった行動は、その時その場で一番頭を使った末の回答で、しかし一番単純なものになった。
『ストーップ! 終わり、もう終わりです!』
ルチルは真っ白な体毛覆う体にオーバーオールをまとった格好で両手を広げ、山の動物たちと猟銃構えるカルネの間に割って入って声を張り上げたのだ。
直後、山に響いていた動物の鳴き声がピタリと止んだ。動物たちに怪訝な雰囲気が生まれる。
山の動物からしてみれば、自分たちの仲間としか目に映らない四足の獣であるヤクの子供が、自分を銃で撃ち殺そうとした人間をまるで守るような行動をしのだから仕方ない。
鳴き声を止め、カルネに向いていた視線をルチルに移す動物たちと山ヌシ。
それを順繰り見たルチルは、震える呼吸を落ち着けるようにゆっくりと口を開く。
『へ、平気です、大丈夫ですよ、あたし。ほら、怪我とかしてないし、なによりまだ、カルネさんはやっちゃいけないことをやっちゃった訳でもないんです。だ、だからみんな落ち着きましょう、ね。殺し合いとか、そんな、一番やったらいけないこと……駄目、ですよ』
泣きはらした子供のように充血させた目を辺りにさまよわせるルチルは、最後に山ヌシへと視線を合わせる。
だが、山ヌシの目に温かみなどは生まれない。
『ルチルとやら、ぬしは勘違いしていないか』
『勘、違い……? え、じゃあ、殺すとか殺さないとか……しないって』
『いや、殺そうとした。というより、殺すことには違いない』
『だからそれをやめましょうって!』
『無理だ』
山ヌシははっきりと言い切って、カルネを睨み付ける。
『そこの人間にどんな理由があって二ペソの掟を破ろうとしているのか知らないが、二ペソの掟は、破れば二ペソが水底に沈むとまで言われる恐ろしいものだ。もし仮に、二ペソが沈めば幾つの命がなくなるのか、おぬしに想像つくか?』
『そ、それは……でも!』
『獣の数だけで優に千を超える。そしてもし二ペソが沈むとなれば、ぬし本来の姿である人間の村も、ひとたまりもあるまい。家屋は流され私財を失い、人であっても何人が生き残れるか。生き残ったとて、その状態でどれほど生き残ることができるか。人は動物であることを否定し、独自の文明を作りあげた。故にその体一つでは、山を七日と生きられなくなった種だ。であれば、村の住人は一人足りと生き続けることはできなくなるのだぞ。だが、ここでソレを殺しておけばその心配もなくなる』
『殺さなくったって掟を守ってもらえば――ッ』
『――後ろを見よ、ルチルとやら』
山ヌシの言葉が静かに響いた。
ルチルはその言葉に釣られる形で後ろを無意識に振り返り、そして――。
『どうし、て……カルネさん』
振り返った先、視界のほとんどを埋めていたのは、鈍色に光る銃口だった。
次回 「 幸不幸 」




