四話 『 アニールさん、ぷりぷりする 』
さて、ルチルがカルネに引き留められて困惑していた頃、先にその場を離れたアニールは口をとがらせていた。それは、不満というものに色があったなら、今のアニールの顔色を指しただろうと思えるほどだった。
「もう、何なのあれ。あんな言い方しなくてもいいじゃない」
「はは、まあまあ。気持ちがトゲトゲしちゃう日だってありますよ」
けれど、そのあとを追いかけてきたマルコは、至って平常運転の様子で隣に並んで言う。
「カルネさんの置かれている状況を考えれば、それも仕方ないと思いますし」
「それは! ……まあ私だって、マルコや二ペソがカルネさんの故郷と同じ状況になったら、怒りっぽくなっちゃうと思うけどね。でもカルネさん、マルコには何もできないって決めつけてるみただった」
「間違ってないですよ。僕にはカルネさんの故郷を助けられるだけの力はないですから」
「そ、それでも、何とかしたいって思ってるし、何とかするために動こうとしてる! それってあんな風に言われるようなことじゃないでしょう!」
アニールは突き出た唇を更に突き出して、歩調も強く道を歩く。
確かに、故郷が病に侵されて、自分の家族――大切な妹まで死の際にいるとなれば、苛立ちが収まらないのは分かる。自業自得としても、溺れたことで時間を失うことも、苛立ちを加速させる一因になるだろう。
けれど、アニールの言っていることだって間違っちゃいない。
さっきのカルネの対応は、転んだ時に助け起こそうとした人の手を、払いのけるようなもの。しかも、子供のあんたに何が出来るんだと馬鹿にする事まで口走ってもいる。この状況で悪いのはどちらかと問われれば、ほとんどの人はカルネに非があると口をそろえるはずだ。カルネの心の内を考えたって、マルコからの心遣いを無下にしていいことにはならないのだから。
ただ、それでも。
「そんなものですかね?」
と、マルコに何かを気にした様子はなく、実にあっけらかんとアニールの隣を歩いていた。アニールとは逆隣に追いついてきたルチルの頭など撫でて、「おかえりー」と気の抜けた声を出してもいる。
だから、アニールの頬は膨らんでしまう。
「そんなものですかね? ――じゃないよ、マルコ。マルコはさっき、馬鹿にされたんだよ。お金も持ってない子供に出来ることはない! って。別にそうするのが絶対なんて言わないけど、少しくらい怒ってもいいと思う」
「……って、言われても。アニールさんが怒ってくれてますし」
それに――と言い置いて、マルコは人差し指で頬を掻いた。
「アニールさんの気持ちも分かるんですけどね、怒るとかは違う気がするんですよ」
「ふうん……何が違うの?」
「ええっと、ほら、僕がカルネさんに何かしたいって思ったことって、僕からの一方的な好意みたいなものじゃないですか」
「こ! 好意……?」
「そうです。大変な境遇にいて、それを乗り越えようと頑張ってるカルネさんに対して、応援したい、力になりたい、って気持ちをそう言うなら、僕はカルネさんに好意を持ってます」
「ああ、そう……そういうことね!」
「あれ、僕は間違ってました?」
アニールは自分が一瞬でも邪推したことを知って少し慌てたように首を振った。
「ううん、何でもないの。それで、怒るとは違うってどういうこと?」
「えっと、ですね――僕は、好意って一方通行でいいんだと思うんですよ。それは確かに、好意を向けた相手から好意が返ってくることが一番だとは思うし、押しつけがましいのはもちろん駄目ですけど、かといって、好意を向けた側――今日で言えば僕の方が『好意を向けたんだからそれ相応の対応をしろ』って要求するのは、変だと思うんです」
「うん、まあ、そうだね……」
「ああ、だからって、アニールさんは間違ってる! なんて言いません。アニールさんはただ、僕のことを心配して優しく怒ってくれているだけなんですから。……だから、っていうのも変ですが、今の僕の気持ちとしては、そうですね――寂しい、が一番近いんじゃないかな、って」
そう言ってマルコは「ハハッ」と乾いた笑いをこぼした。もうすぐ年に一度のお祭りがある二ペソの、どこかそわそわした空気の中、平常運転のマルコの表情がどこか空々しい。その表情がアニールの胸をキュウと締め付ける。
「僕はね、アニールさん。カルネさんの故郷に助かってほしいんです。カルネさんはきっと、たくさんの悲しいことや、いっぱいの辛いことを経験してる。聞いた話じゃ、『五年掛かり』って最後の最後で一番苦しい思いをさせて人の命を奪う、それは恐ろしい病気だそうじゃないですか。そんな病気が蔓延する村にいたってことは、それだけ目にしているはずなんです」
――苦しみの中で、息を引き取っていく人々の姿を。
「それがどんなにカルネさんの重荷になっているか……。想像だってしたくないけど、それがもし僕の大切な人達だったらって思うと――ほら、こんなにも胸が痛い」
「マルコ……」
アニールは隣を歩く自分より少し背の低いマルコに視線を向けた。
それに気づいたマルコはアニールに微笑みかける。
「だからね、僕は、カルネさんに力を貸したい。もちろん、見返りなんて考えていません。今日のことだって、まあそもそも、何の経験もない子供の僕が急に出て行ったって邪魔にしかならないと思われても仕方ないことですしね。もしかしたら、カルネさんの方こそ思ったんじゃないですか? 『馬鹿にしてるのか』って。だから、カルネさんの態度に僕が怒るとかそういうのは違うんじゃないかなって……」
と、この時だった――。
「それでもっ! マルコが馬鹿にされていいはずない!」
アニールは声を荒げた。動かしていた足を止め、自分の服の裾をぎゅっと握り、口をヘの字に曲げて、我慢できずに思わず、と言ったふうに。
これにはマルコもルチルも驚いた。アニールが足を止めたことで半歩ほど前に出たマルコは、まん丸に見開いた眼を隣に向ける。
「ア、アニールさん……?」
アニールはプルプルと肩を震わせてマルコを見返す。
「カルネさんが辛くて苦しいのは分かる。私だってマルコがそうなったらって思うと涙が出るよ。けど、辛いのはカルネさんだけじゃない。マルコだって! マルコだって、お父さんとお母さんを亡くしてまだ一年も経ってないじゃない」
「それは……、アニールさんも一緒じゃないですか」
「そうだよ、一緒だよ。村の多く人が、あの落石事故で大切な人を亡くしてる。悲しくて辛い思いをしてるの! それを何も知らないで……それなのに、カルネさんはマルコの事を……ッ」
強く握りしめる手のひらは今にも掴んだ裾をちぎってしまいそうだった。悲しく寄った眉は痛そうなほどで、眉間にしわを作っていた。泣き出しそうな自分を必死に堪えて、うつむくアニールはスンと鼻をすする。
「蔓延した病気から故郷を救おうだなんて、カルネさんは凄い人だと思う。……けど」
「けど?」
「マルコにとった態度はやっぱり、良くないよ」
「そうですか?」
「そうだよ」
「ですか……ね」
マルコはタハハと笑った。笑って、大きく息を吸って、うつむくアニールの前に立った。
そして、アニールの両手を解くように強く握られた服の裾から指を外すと、その手をそっと包み込んで顔を覗き込む。
「ありがとう、アニールさん。僕のために怒ってくれて。僕のために悲しんでくれて。気持ちを思いやって、考えてくれて。それはアニールさんが優しい証拠で、僕はいつもそのやさしさに助けられてる。あの事故で父さんたちが死んでしまった後、アニールさんは自分も同じ境遇なのに、今日のようにいつも僕を気遣ってくれましたね……あの時、僕がどれだけ救われたか。あれから僕がどれだけ感謝しているか。きっとアニールさんに伝えきることは、これからも出来ないんだと思います。だって今日も、こうして僕はアニールさんに心配をかけている」
でもね――と、言葉をいったん置いてから、マルコはアニールに微笑みかけた。
「僕は、僕のために悲しんでほしくない。僕のために怒ってなんてほしくない。アニールさんにはいつも、楽しい気持ちでいてほしいんです。だから、アニールさん――」
「――僕のために涙を零さないで、どうか、泣き止んでください」
覗き込んだアニールの顔はくしゃりと歪んでいた。かけた丸メガネにはうつむく格好のせいで涙がいくつも跡をつけて溜まっていた。
マルコは手を伸ばし、顔を悲しく染めるしずくをぬぐう。
「ほら、アニールさん。笑ってください。じゃないと、僕が意地悪したみたいに思われちゃいます。まあ、実際に僕が泣かせた様なものなので仕方ないかもしれませんが……ハハ……」
「ち、ちがうよ! 私が勝手に感極まったって言うか……」
「それに、この子だって心配しているみたいですよ」
そう言って自分たちの横、斜め下に目をやれば、真っ白のヤクの子牛が「モゥ……」と心配そうに二人を見上げていた。アニールは見上げてくる心配そうな視線を知って少し困ったように笑むと、ルチルの頭を撫でてから眼鏡をはずして涙をぬぐった。そして、マルコに向き直り笑顔を作る。
「ごめん、マルコ。変なとこ見せちゃったね」
「いいえ。そんなことは」
「でも、嬉しかった」
「嬉しかった?」
「うん。だって、あんなにも一生懸命に慰められたんだよ。嬉しくもなるよ」
「そう言うものですか?」
「そう言うものなの」
そう言って、今度は自分の横、見上げてくるルチルに顔を向けた。視線を合わせるようにしゃがんで首元を抱きしめる。
「君もありがとう。ごめんね、嫌なところを見せて」
『……、ううん。アニールは何も悪くないよ……』
再び立ち上がり、自分の中でひと段落つけるように息を切るアニールは、顔を上げる。
「さあて、お祭りの準備、しなくちゃね!」
それを見てマルコも笑顔を作った。
「そうですね。楽しいものにしましょう」
二人は気持ちも新たに祭りの準備をするため動き出した。歩調も軽く進んでいく。
そんな二人の背中を見ながら、ルチルは迷うように顔をしかめた。もう遠くて見えない診療所の方を振り返って、表現の難しい気持ちが靄を作っていることを改めて知る。
自分に呪いがかかっていたからこそ知れてしまったカルネの気持ちや、それでもまだ何かを隠しているような言葉の意味を考え、けれど、答えが出るはずないことも分かっているから、困り顔でため息を吐いてしまう。
『カルネさんはきっと悪い人じゃない。なのに、どうして……?』
胸にわだかまる気持ちの悪い思いを、頭を振って追い出そうとするルチル。だがそのくらいのことで靄が晴れることはなく、ルチルは気持ちの悪い思いを抱えたまま、二人の後を追うのだった。
次回 「 むにょみにゅっ、で、ずりょんぶにょん 」




