第三章 一話 『 もやもやルチル 』
長い一日だった。と、ルチル・ハーバーグは息を吐いた。
朝早い牧場の仕事をマルコ・ストロースとこなし、少しの休憩時間を挟んでアニール・クッキーの果樹園で手伝いをして、お昼のご飯時に溺れたカルネという女性を助け出せば、マメとキノコという男たちとの話でアニールはお怒りモード。アニールが付き添いとしてマルコに声をかけ、その場にいたルチルも当然一緒に村長宅へとついて行くことになり、マメとキノコの二人から詳しい話を聞いた際には、むかし先代の村長が酔った勢いで口にしたおとぎ話のようなことから、砂金をとることが出来るかもしれないとマルコが言い出して、ならばその場所がどこにあるのかという話に広がりだし……と、ルチルが牛舎のモフモフでちょっとチクチクの干し草の上に体を投げ出せたのは、赤い西日が藍色を濃くしてからだった。
角をはやしたグラマスなナイスボディーを誇るでもなく誇るミイ姉さんは、干し草の上で横になりながら呆れたように声を出した。
「どうしたの、ルチル。そんなに疲れて。何かあったの?」
「何か……そうですね、ありました。一大事でした」
「一大事って。そんなにも大ごとがあったの?」
「大ごとも大ごとで、でも大事にはならなくて」
「大事にならないのに大ごとで、一大事だったの?」
「はい、もう、大変だったんですよぅ」
ルチルはがばっと頭を持ち上げると、その勢いのままミイ姉さんの胸に飛び込んでいった。ムッニムニでフッカフカのおっぱいに挟まれながらルチルは今日の出来事を話し、それを聞くミイ姉さんはルチルの頭を撫でながら「あらそう。へえ、偉かったわね」などと相槌を打ちつつ、子供をあやすように静かに耳を傾けた。
仕事、手伝い、事故、救出、話し合い。
それら諸々を、ルチルの気が済むまで聞き手に回ったミイ姉さんは、自分の胸に顔をうずめる女の子の顔を覗き込む。
「本当に、大変だったみたいね。お疲れ様、ルチル」
「んふー、チカレマチタ。もう、人が死んじゃうかもしれない場面にはあいたくないです」
「そうね。それは私も悲しいわ。でもこれで、人の姿に戻れる時も早くなったんじゃないかしら」
「そうですかねぇ」
「そうよ。ルチルは人を助けたんですもの。それはきっと良いことよ」
「そっか、良いことなんですね。――でも」
「……何か引っかかるの?」
ルチルはミイ姉さんの豊満なおっぱいを指でつつきながら難しい顔をする。
「あたしには分からないんです。溺れていた人を助けるって、当たり前だと思うから。その当たり前が良い事のように言われるのが、なんて言うのか、腑に落ちなくて……」
言われたミイ姉さんは困ったように微笑んだ。
「そう……そうね。確かに、ルチルの考えは間違っていないと思うわ。でも、それを当たり前だと思える人は、きっと少なくなっているんじゃないかしら」
「少なくなってる?」
「そう。人の社会も私たち動物から言わせれば、群れを成すただの動物にすぎない。そして、群れを成す動物は大なり小なり自分のコミュニティーを守るため、他の個体を助けようとするものなのよ。それこそ、当たり前のようにね」
「じゃあ、あたしが今日したことも当たり前で、良い事なんかじゃ……」
「ああ、違う。違うのよ、ルチル。あなたは今日、本当に良いことをしたの」
ミイ姉さんはルチルの額に自分の額をこつんと当てて、優しく続ける。
「……そうね、人が形成する社会は、自然との調和を忘れられるくらいに力を持ってしまったのよ。それはこの二ペソの様な小さな村の中ではまだまだ忘れられていないけれど、人は集まれば集まるほどに自然を圧倒できる力を持って、力を持てば持つほど、人同士で力のぶつけ合いをおこしてしまうの」
「喧嘩する、ってこと?」
「ん、まあ、簡単に言えばそうね。でも、喧嘩なんていつもいつもしていられないでしょう」
「喧嘩は嫌です。相手も自分も悲しいし、きっと寂しくなる」
「だから、人は他人を疑う……いえ、確認しようとするのよ。相手が悪い人じゃないか。その人間と付き合って、悪い影響が自分にないか、ってね。人はその確認が終わらないと他人に近寄れなくなってきているの。もちろん人助けをするときも、その確認がまず心の深いところで頭をもたげちゃうのよ。――この人は大丈夫かな、って」
「それって、なんだか切ないです……」
頭を撫でられながらルチルは今日の出来事を、溺れて真っ青になった顔色のカルネを思い返した。ミイ姉さんの言葉を全て疑っているわけではないが、あの状況を目の当たりにして助けない人間はいないはずと、ルチルは思いたかった。
ただそれでも、ミイ姉さんが言ったことも事実ではある。飲み屋が集まる歓楽街で倒れている人間がいても、助け起こす人間は少ないのだ。どうせいつもの酔っぱらいだ、と。助けようとして逆に絡まれたら面倒だ、と。寂しいことだが、助けようという善意を利用しようとする人間も存在するのが人の社会なのだから。
ルチルはもっとミイ姉さんの胸の間へと潜り込むように身じろぎすると、一言つぶやく。
「あたしには難しいです。良いことって……」
そして目を瞑ると静かな寝息を立て始めた。
ミイ姉さんは胸元のルチルに苦く笑んで、頭を撫で続ける。
(良いことをする。それを悩む子がいるなんて。それもこれも、ルチルのおばあ様の教育のたまものなんでしょうけど、本当に不思議な弊害を引き起こしたものね)
呆れればいいのか、それとも余計なことをと憤ればよいのか、分からなくなってくるミイ姉さん。実際には称賛されてもいいことだと理解できるが、『手助けするのは当たり前』と言い聞かせるのではなく、『良いことをするのは当たり前』と教えていれば、ルチルはこんなに悩むこともなかったろうに、とため息が出る。
しかし。『良いことをする』という一文だけを抜き出して、さて良いこととは何でしょう? と問われたとき、完全に納得いく答えがないのが『良いこと』の奇妙さだとミイ姉さんは知っている。何故って、万人に当てはまる『良いこと』が世の中を見渡してみても極端に少ない、ないしは存在しないことを理解しているのだ。
(……って言っても、こんなことを深く考えられるほど若くないのよね、私って。まあ、とは言っても、ルチルにそんなこと言ったとして納得させられる気はしないけれど)
ミイ姉さんはもう一度、ため息をふんすと鼻から抜いてルチルを抱きしめた。
そして、ルチルから聞いた砂金の話に思考を切り替えると、少し不安の混じった眼つきで、牛舎の小窓から見える月に願いを込めるように呟く。
「……マルコは良い子。とっても頑張り屋さんで、優しい子。――でも、ルールをきちんと知っているのかしら。ミルク酒に弱かった先代村長さん、ちゃんとお池の話をしてくれていればいいのだけど……」
次回 「 お見舞い――前編 」




