三話 『 ミルク売りマルコ 』
少年の名前は、マルコ・ストロース。
去年の暮に、多くの犠牲者を出した落石事故で亡くした両親の跡を継いで若き牧場主になった彼は、毎朝乳牛から絞ったミルクを牧場から少し離れた二ペソ村へと運んでいる。大型のブリキ缶に詰まったミルクは一缶でマルコの体重の三分の一以上で、それを複数本も載せれば車軸の曲がったボロの荷車で引くには少々難儀する重量になった。けれどマルコは、酷い熱や外も歩けない嵐でもない限り、一日も休むことなくミルクを売り歩いている。村の中を走る道を一つ一つ荷車を引き、額に汗を浮かばせて、今日もガランガランと響かないベルを鳴らすのだ。
さて、そうこうしながら今日のミルクが半ばほど減ったころのことだ。
老いてはいないが若くもない女性の声に、マルコの足は引き留められた。
「おはよう、マルコ」
振り返れば、リゴという赤い果実の農園を営んでいるジョゼット家の夫人が、大きめのミルク瓶を持って玄関から出てくるところだった。
マルコはにこりと笑い、
「はい、おはようございます、ジョゼットさん」
とあいさつを交わした後で、
「リーシャちゃんも、おはよう」
と、膝に手をついて腰を曲げた。
麻で織られたナフキンを頭に巻いたエプロン姿のジョゼット夫人の陰に、五歳になったばかりの娘のリーシャがトテトテとくっついてきていたからだ。
「早起きだね」
「……!」
そんなマルコの声に、けれどリーシャは、ますますジョゼット夫人の陰に隠れてしまう。自分も小さい頃は父や母の陰に隠れていたから隠れる気持ちはわからなくもないが、自分の声に反応して身を隠されると、やはり複雑な気持ちになるマルコ。
(僕、嫌われてる……?)
ぎこちなくなってしまった笑顔と姿勢を元に戻して、含みのある困り顔を作っているジョゼット夫人に向き直った。
「ええと、それで、今日はどうしますか?」
「そうだね、今日はポテトのポタージュを作るから……瓶いっぱいに貰おうかね」
「分かりました」
注文を聞いてミルク瓶を受け取ると、ブリキ缶を荷車から降ろして蓋を開ける。ミルクの甘い香りがあたりに広がるなかで、マルコは柄の長く大きいお玉をブリキ缶に突っ込んでミルクを掬った。ミルクの売値は一掬い(コップ一杯半程)で80イース。二ペソ村での一人が食べる一食の平均が700イースだから、お玉で約9杯売れれば一食分のお金になる。が、日々の消耗品やら日用品、牧場の管理費やミイ姉さんという名の乳牛の飼育費まで計算に入れれば、一日七十~百杯弱ほどは売れなければいけない計算になるというのは、一人で生きていくと決めたマルコにとって厳しい洗礼となった。
(1……2……3……)
マルコは胸の中で数を数えながら、慎重にお玉を操っていく。長い柄がミルクの入れ替えを邪魔するけれど、一人になってもう数か月。だんだんと慣れている自分を感じていた。
しかし、だからこそ思うこともあった。
(……、やっぱり父さんや母さんって、すごかったんだなあ)
ふと、死んだ両親の、アクロバティックなミルクの売り歩き方を思い出してほっぺがムズムズする。くるくるとお玉が宙を舞い、ミルクが瓶の口や器の中に自然と吸い込まれていくような不思議なパフォーマンスで、お客さんを朝から笑顔にしていたのだ。売り物という観点から見れば信じられないことかもしれないが、それでもパフォーマンスが見たいと注文があれば、全力で期待に応える二人だったとマルコは記憶している。
(僕もいつかはみんなを笑顔にさせるんだ!)
お玉で掬ったミルク7杯をミルク瓶に移して、いっぱいに入ったそれをジョゼット夫人に渡す。瓶の口に鼻を近づけて香りを楽しむジョゼット夫人は、そのまま飲みだしてしまいそうだ。
「んー、いい香り。これでおいしいポタージュが作れるよ」
「それは良かったです」
ブリキ缶のふたを閉めて、荷車に乗せなおす。それから荷車の持ち手にかけておいた手拭いで汗をぬぐって、マルコはジョゼット夫人に会釈をした。
「今朝もありがとうございました。また、お願いします」
「なに言ってんだい。マルコの顔見なきゃ一日が始まらないんだ。明日も頼むよ」
「そう言ってもらえると元気が出ます」
二言三言の言葉を交わして、最後にいまだジョゼット夫人の陰に隠れてこちらを窺っているリーシャに「またね」と小さく手を振った。とたん、ビクン肩を跳ねさせるリーシャは、家の中へ一目散に入って行ってしまう。
(……やっぱり、嫌われてるのかな)
手を振る格好のまま固まって、乾いた笑いをこぼす。
「まったく、あの子は……気にしないでやっとくれね」
「はは、大丈夫ですよ」
呆れたような、困ったようなジョゼット夫人に笑顔を向けて、マルコは荷台を引く手に力を込めた。ゆっくりと回っていく車輪に力が乗る。
「それじゃ、また」
「ああ、気を付けてね」
ジョゼット夫人の気遣いに会釈と礼を言って、残りの道程を行く。
次回 「 村長さん 」