三話 『 ミイ姉さんが願うこと 』
澄んだ空の下、ゆったりとした時間の中でルチルは昨晩の事を思い返して、自分なりに考えた結果、やっぱり『良いこと』がどんな行動や行為をさすのか分からなかった。
(ミルク姉さんは、あたしがお社を壊しちゃう大本になった、道に迷ったおばあさんを助けてあげたことが『良いこと』の一つだって言ってたけど、でもあの時、あたしがおばあさんにしたことなんて当たり前のことだしなあ。あんな事が『良いこと』だなんて、おばあちゃんに笑われちゃうよ)
昨晩から幾度も考え、それこそ寝る瞬間も、そして起きた直後もそのことを考えていた。朝の早いマルコが姿を見せたときには昨日と同じように一悶着あるかと身構えもしたが、しかしそんなことは一切なく、忙しそうに朝の仕事をしているマルコをみているうちに自然と手伝いをしていた時にも。子牛のヤクには、と言うより、人の手でなければ出来ないことをいつの間にかし終わっているという不思議がいくつか起きたけれど、そこはミイ姉さんという不思議を生まれたときから経験しているマルコ。妙だと思わずルチルの手伝いを受け入れていた――そんなときにも、ルチルは『良いこと』について考えていた。マルコがミイ姉さんの乳を絞っているときにも、車軸の曲がった荷車を後ろから押してマルコの負担が軽くなるようにしていた時にも、村のみんなにかわいい子牛ねぇと撫でられている時にも、アニールがマルコの笑顔に顔を赤くしているときにも、ずっと。もちろん、ミルクの売り歩きが終わった後の牛舎の掃除から牧場の柵の見回りの時になっても、現在牧草の上でぼうっと雲を眺めている今になるまで、考え続けている。『良いこと』って何だろう? と。それでもやっぱり、のんびり流れる雲の方が足は速い。
そんなルチルを、少し離れたところからミイ姉さんは眺めていた。年中食べても食べ尽くせない牧草を食みながら。ちょっとだけ呆れたような視線なのは、実際にその通りだからだ。
(良い子には違いないけれど、ずいぶん変わった育てられ方をしたみたいねぇ)
それは、善悪の基準点。
どこからが良いことで、どこからが悪い事なのか。その基準点が、ルチルの場合は普通の人の感覚より、より善行の方向に置かれているのだ。
それが例え善い行いだとしても、普通は二時間かけて進んだ地点から元の場所まで付き添って道案内はしない。「良いこと」をしなければ人の姿に戻れないと悩んでいるときに、誰かを手伝おうとは考えられない。手伝ってくれと願われてもいないのに。
だからミイ姉さんは、思い至った。
これはきっと逆なのね、と。
牧場主を四代のあいだ見てこられるほど長命なミイ姉さんは、良いことを率先して行おうとする人間がいることを知っている。――他人の笑顔を見たい。他人に取り入りたい。自分のことをよく見てほしい。あるいは、他人や自分に許しをもらいたい。本当に様々な理由で人は良い行いをする。自分がしていることは良い行いだと理解して、行動の決定をしている。
(でも、ルチルの場合は……)
困っている誰かに自分の手を貸すことなど、〝当たり前〟なのだ。
それこそ、朝起きて顔を洗ってご飯を食べて汗を流して働いて夜帰って眠るまでの、日常の一つに組み込まれている。意識して呼吸をしようとする人はまずいないように、自分が良いことをしている、ないしは、しようとしているという意思がルチルにはないのだ。
それは呆れていい所だろう。人によっては心配のまなざしを送る場合だってあるはずだ。
(って言っても、放っておいていいことよね、これって)
ミイ姉さんはルチルに向けていた視線を雲流れる空へとむけて、モフゥと鼻から息を抜いた。良い行いを良い行いとしてではなく行えるのなら、それほどに良い行いにあたるものはないのだから。
(一番の問題は、呪いを解くための『良いこと』が一般的なものでいいのか、それとも呪いを受けた張本人のルチルにとっての『良いこと』なのか。一般的なものでいいなら何の問題もないのよね。今日のルチルを見ているだけでも、『良いこと』を自然体で出来ているわけだし)
でも――とミイ姉さんは考える。
(あの子にとってのものでなければいけない――となった時、少しだけ大変ね)
例えば、毎朝自分の好きなパンが食卓に並ぶ家庭で育った子供が、その幸せに気づけないことと一緒。当たり前として自分の中にあるものを『それは違う』と言ったところで、理解できるのはずっと後になってからだ。あるいは、朝食を用意してくれる母親たちが死んだ後でしか気づけないかもしれない。
ミイ姉さんは、奥歯ですりつぶした牧草を飲み込んで、そっと願った。
「出来ることなら、ルチルが今のままでいられると良いわねぇ」
次回 「 マメとキノコと、カルネの姉御 」




