二話 『 言い伝え 』
突き抜けた空と白い雲。
山の稜線から顔を出す紅い太陽。
広大と言うほど広くもない山の上の牧草地に吹き抜ける風が、爽やかな緑と土の臭いを舞い上げ、お日様より早く目覚める少年の髪と、一頭のあまりに大きな乳牛の尻尾を揺らした。
「いい天気だ。陽の光も心地いい」
作業着であるツナギ姿の少年は、牛舎の外で、朝一番に絞ったミルクが詰まった大型のブリキ缶を荷車に乗せ終ると、額を拭って牧草地で草を食む乳牛に向かって声を上げる。
「じゃあミイ姉さん、今日も行ってくるからねー」
広大と言えないまでもだだっ広い牧草地にたった一頭しかいないホルスタイン種の巨大な乳牛は、牧草から頭を上げて少年を振り返ると「モォー」と短く鳴いて見せた。ガランガランと響きの悪いベルを鳴らし、牧場から少し離れたニペソ村へとミルクを運ぶ少年の背中を眺める。
その背中を見送る巨大な乳牛は、いつも思う。
何であの坊やは牛である私に荷車を引かせないのだろう、と。
少年は中肉中背よりやや背が低く、肉付きも控えめだ。今はまだ成長期で、これからの伸び代もあるにはあるが、十代も前半が終わって半ばに差し掛かるというのに、見た目がこれではひ弱に見えてしまう。少年の中性的な顔立ちも見た目のひ弱さに拍車をかけていて、飼われている乳牛としては心配にもなるというものだった。
（まあ、先代だった両親が亡くなってから、何でも一人でやろうとするところは感心するけど、これでも私は普通の牛とは違うんだ。例え乳をブリキ缶十本も絞られたからって、荷車の一つや二つ軽く引っ張っていけるっていうのにねぇ）
大きすぎる乳牛は「もふぅ」と溜息に似た息を鼻から抜いて、見送る背中が見えなくなってから牧草をまた食み始めた。
πππ
ニペソ村には〝言い伝え〟がある。
言い伝えとは、『取り次ぐ』や『伝言する』などの意味がある言葉で、一般的には『後世に語り継がれるもの』として認識されている言葉だ。こんなふうに言うと少し仰々しく聞こえるが、言葉を変えて『息の長い噂話』と受け取って見ればそんな事も無いだろう。例えば、あっちの池には人の顔をした魚がいるだとか、こっちの山には天狗がいるだとか、そっちの川には河童が住んでいるだとか。そんな愚にもつかない噂話から、鯉が滝を昇ると龍になるなんて伝説的なものまで、そういった話を纏めて言うと〝言い伝え〟という言葉になる。それは、村や町を越えて世界的に有名な大規模な物から、地域や世代を限定した小規模なものまであるが……今回、ルチル・ハーバーグが遠路はるばる足を延ばしたニペソ村に伝わる話に限っては、後者のお話だ。
つまり。
【 ―― 伝説の牝牛〝千年牛〟の乳を飲むと、理想の胸になれる ―― 】
と言うもの。
女性限定で、それも大小問わず胸にやや自信の無い人に限られてくると、やはり規模というものは小さくまとまってしまうものだが、しかしそう言った女性には絶大な希望を抱かせる言い伝えは途切れることなく、それこそ脈々と細く長く伝えられ、ルチル・ハーバーグの様な女の子を死にもの狂いにさせてまで招きよせている。実際、彼女がその伝説目的で目指した地であるニペソ村を目の前にして力尽きていれば、その信念というのかいじらしさというのか、はたまた意地汚さというものは、この地に漂う限定的な魔力じみた引力を証明しているだろう。
さりとて。
この物語のメインヒロインであるルチル・ハーバーグが、登場早々に行き倒れてのご退場では、そもそも物語にもなってくれない。いや、そんな物語があったればこそこの世界に伝わる偉大なる四字熟語――麁枝大葉も草葉の陰からにっこりと微笑もうというものだろうが社会に蔓延る世界基準というものがそれを許すはずもなく艱難辛苦の上に成り立ってきた物語自体たちが古今東西にいやさ遍く世界に否を唱えるのはもはや必定なのかという…………閑話休題。
直球な物言いをさせてい頂ければ、メインヒロインであるルチル・ハーバーグはこの物語を早々に退場などしない事を先にお伝えしておこう。それはそうだ。メインヒロインが冒頭数ページで遺影として微笑んでいる鬱展開全開の物語など面白いはずがない。
だが。メインヒロインがメインヒロインらしいヒロインとしてヒロイン役を十全にこなせている物語かと問われたとき、この物語の顛末を知っている者達はきっとこう言うに違いない。
〝 ―― うーん、ヒロインではなかったかもしれないね ―― 〟 と。
次回 「 ミルク売りのマルコ 」
