十七話 『 月明かりの下で 』
のっそりと動く大きな影が、地を揺らすような声を出す。
「こんな夜更け……誰かと思えば、ミルク殿か」
「悪いわね、山ヌシ様。折り入って話があってね」
「構いはしないよ、ミルク殿。折り入った話なら余計に」
山ヌシはそう言うと、その巨体に見合わない軽い挙動で清水湧く岩の上に飛び乗った。
ぽっかりとあいた岩場に降る月光と、ヒカリゴケの明かり。周囲を舞う蛍たちに彩られる傷だらけの巨漢。その光景は、ルチルにある種の畏敬を与えた。野生動物たちの長を担うにふさわしいとでもいうべきか。
「で、ミルク殿。話とは?」
「そうね、まず質問なのだけど」
ミイ姉さんは言いながらルチルの背中を押して一歩、前に出した。
「この子、山ヌシ様にはどんな風に見える?」
「……、どんなふうにとは?」
「いえね、別に私は山ヌシ様の伴侶を見繕ってきたわけじゃないのよ。だから山ヌシ様の好みの話ってわけじゃなくて、そうね……山ヌシ様の目には、この子がどんな形の生き物に見えるのか、それを聞いているの」
言葉を聞いた山ヌシは僅か沈黙し、しかし何かを飲み込んだような様子で口を開いた。
「本来、ばかばかしい質問だと言って一笑に付すところだが、この夜更け、ミルク殿がわざわざ俺をからかいに来たとも思えない。故に応えよう。俺にはミルク殿のご同輩に見えている。人の手が作る着衣を身にまとってはいるが、四足の獣以外にこの目には映らない」
「うん、そうよね」
「しかし、どうにもおかしいと感じてもいる。気配、とでも言えばいいか……俺たち獣とは何かが違う。奇妙な奴だ」
でしょうね、とミイ姉さんは簡単に同意して、真実を告げるために大きく呼吸した。
「実はね」
演出なのか、ミイ姉さんは一拍開けてから、告げる。
「――この子、人間なんですって」
その瞬間、場を沈黙が支配した。山ヌシにとってそんな正解が飛び出してくるとは思いもしていなかったのだから仕方ない。だから山ヌシの口が言葉をこぼすまでには、幾ばくかの時間が必要だった。
「ほう、人間……とな」
山ヌシは岩の上からじっとルチルを見つめる。視線は鋭く、その眼に委縮するルチルの内側を貫いて心の奥底を見るようだった。
「もう本当に不思議でしょう? 私も不思議」
「それは、何か確証あっての事か?」
「確証なんてないわ。でも、あなたも感じているでしょう、奇妙な奴だって。その感覚を明確にしていくようなイメージって言えば分かりやすいのかわからないけれど、そうね、こんな言葉は使いたくないんだけど、私には分かっちゃうのよ。この子は人間だ、ってね」
「ムウ……」
話を聞いて、しかし山ヌシはミイ姉さんの言葉を素直に呑み込めない。いまも目に映るルチルの像は人でないのだから当然だ。だが、山ヌシ自身も目の前のオーバーオールを着たヤクの子供が、見た目その通りの獣だと考えるには違和感が大きすぎると思ってもいる。何より、話を持ってきた相手が、こんな時間にこんなふざけた冗談をわざわざ言いに来るとも思えない相手だ。だから唸る。眼と感覚、一体どちらを信じればいいのかと。答えはすぐに出てこない。月明かりの下、ミイ姉さんと、彼女が連れてきたまだ幼く映るヤクの子供を交互に見ながら、唸り続ける。
そして。
しばらくの時が流れたころ、山ヌシは巨体を揺らして答えを出した。
「分かった。俄かには信じられないが、ミルク殿の言葉、何より獣である自分自身の感覚を信じよう。ミルク殿のご同輩にしか見ぬそこの……」
「あ、えっと、あたし、ルチルって言います!」
「うむ……ルチル、ぬしは、ヒトなのだな」
向けられる視線はやはり鋭い。気圧される瞳を向けられて、けれどルチルはゆっくりと、そしてしっかりとうなずいた。
「そうか……」
その反応に山ヌシは巨体に見合う大きな息を鼻から抜いて、ミイ姉さんに視線を移す。
「であれば、ミルク殿が今宵ここに来た理由も察しが付く。つまりは、そういうことでよいのだな。そこのルチルとやらを人に戻したい、と」
「まあ、そういう事ね。察しのいい雄は好きよ」
ミイ姉さんは豊満なバストを揺らしながらルチルの隣に移動すると、牛の角と妙な親和性を見せる綺麗な顔をルチルに寄せて、窺うように山ヌシを見上げた。
「で、どうかしら。この子を人に戻す方法、何か思いつくことがある?」
「ムウ……あると言えばあるが、それはミルク殿も考えうる範疇でしかないと思うのだが? 何せ、俺よりこの山を知っているのは他ならないミルク殿なのだからな」
「良いのよ。それを聞きに来たのだから。それに、山ヌシにしか継承されない何かがあるかもしれないじゃない」
「ふん、先代の山ヌシが幼子の頃より前からこの山を見ているミルク殿が知らぬことを、若輩の俺がそう知るものでもないが……そこまで言うならば答えよう」
大きな岩、湧き出る清水が泉を作り、ヒカリゴケと蛍が明かりを灯し、空に浮かぶ月が三人を見守る中で、山ヌシはたった一言をルチルに告げた。
「呪いだ」
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