十六話 『 山の主 』
朝の早いマルコが眠りにつくのはやっぱり早い。牛舎の横、牧場を見守るように建つその家屋の窓から明かりが消えたのは、少し離れた二ペソ村の煙突にいくらか煙が残るような時間だった。ミイ姉さんのフッカフカに何故か吸い付きながら寝ていたルチルは揺り起こされ、しかし長旅のせいで疲弊した意識は半分以上眠ったまま――気が付いた時には、月明かりが木々の隙間から降り注ぐ山の中だった。
「えー、と……あれ? ここは……」
生い茂る木々の間を月の光が羽衣の様にさすそこは、道らしい道などない獣道。下草も手入れなどされておらず、人の足なら歩くことさえ困難な場所。ルチルは、そんなところをすいすい歩くミイ姉さんの背中におぶわれる形で目を覚ました。
「見ての通り、山の中よ」
ミイ姉さんは自分の右肩に乗っているルチルの顔を見て、オハヨと微笑んだ。
あまりに近い顔同士にドキリと顔を熱くさせ、ルチルも目覚めの挨拶を返す。
それから一拍、ルチルはミイ姉さんにおんぶされている事に気が付いて、あわわーと慌てた。
「ご、ごめんなさい! あたし寝ちゃって!」
「いいわよ、気にしなくて。ルチルの生まれはここからずっと遠くにあるんでしょう? なら、体が疲れているのよ。姿だって変わっちゃって、心だって普通じゃいられないはずだもの」
「ミルク姉さん……」
「それにちょうどいいタイミングで目が覚めたみたいだしね」
「ってことは、そろそろヌシ様のところに着くんですか?」
「ええ、その通り。――ほら、聞こえるでしょう?」
ミイ姉さんはそう言うと足を止め、夜の山の中、静かに響くそれに意識を向けた。
しんと静まる空間で、ルチルも習って耳を澄ませる。
「――、せせらぎ……?」
それは、水の流れる小さな音。
「このもう少し上に清水が湧く岩場があるのよ。泉っていうほどの溜まりはないんだけど、ヒカリゴケが群生しているから、とても幻想的な場所よ」
「そこに、ヌシ様がいるんですね」
「そういう事ね」
止まっていた足を出そうとしたミイ姉さんに、少し慌てた様子でもって自分で歩くことを伝えたルチル。背中から降ろされた途端にトトトッと足が後ろに下がった。
「わ、わわっ!」
そのまま下まで転げていきそうなところをミイ姉さんに掴まれ、
「ほら、気を付けなさい。下草で分からないけど、こう配が厳しいんだから此処」
「は、はい。気を付けます」
ヒヤッとした気持ちを落ち着かせて足に力を入れた。
それから少しの間、ルチルはミイ姉さんの腕をとるように寄り添いながら、せせらぎが聞こえる方向へ山を登る。夜の山中と言えば不気味の代名詞の様な場所だが不思議と怖さを感じることはなく、いくらも歩かないうちにぽっかりと開ける岩場に到着していた。
「わあ……きれい……」
その場所でルチルは感嘆をこぼす。
重なり広がる岩と、上空の月が一望できる場所。中央にひと際大きい岩があり、その足元から清水がわいていた。岩肌のヒカリゴケが淡い明りを浮かばせ、周囲を蛍の仲間たちがふわふわと浮く。
「どう、ルチル。素敵な所でしょう」
「はいっ、とっても!」
ルチルは子供のように目をキラキラさせて辺りを見回し、ポウとお尻を光らせて飛ぶ蛍が肩にとまってクスと笑った。
その時。
中央の清水湧き出る岩の向こう、陰から岩の背丈より大きいものが姿を現した。
その影は、ルチルから見れば、体中に痛そうな傷跡を残した巨漢だった。体の至る所が筋肉で盛り上がり、顔にも複数本の爪痕がある。精悍な顔立ちと言えばその通りだが、傷跡のせいで悪人面に見え、月明かりとヒカリゴケが作る陰影でより極みがかかっていた。だからそれは、ルチルが「ヒッ!」と短い悲鳴を上げても不思議はなかった。
二ペソを囲む山々のヌシ――巨大な体躯を誇る猪である。
次回 「 月明かりの下で 」




