十五話 『 ルチルのオーバーオール 』
ルチル・ハーバーグは干し草の上にいた。それはもう、ぐったりと。涙の跡を頬に残した死に体で。
ミイ姉さんがそんなルチルを見て溜息を鼻からモフゥと抜く。
「あんたねぇ……何度も言うようで悪いんだけど、あの子の目に映るルチルは牛なのよ?」
「そんなこと、言われたって……あたしの感覚だと美少年に剥かれてるようにしか感じないっていうか……また、おっぱいもおしりも触られて……ぐすん」
「それでも服は守ったじゃない」
「そうですけど……あんなに躍起になってならなくても」
「躍起になることなのよ、マルコにとってはね。そもそも、彼から見れば白い毛のヤクがオーバーオールを着ている方が不自然なのよ。ヒト以外の生物がそれを身に着けているのは、そうね、生理的にも不都合が多そうに見えるものだし」
ミイ姉さんは意味ありげに尻尾を動かした。
ヒト以外の生き物が洋服を身にまとって簡単に思いつく不都合は、体温調節。そして、何と言っても下の処理だ。生き物はその環境に適した体の構造を獲得しているから、ヒトの手が余計に加わればすぐに体調を崩す。それに、器用に動くヒトの手があってこそ十全に役割を果たす人工物を牛が身に纏っていた場合、トイレ事情だって大事になるのは目に見えている。牛の排泄量は人では考えられないほど多く、それを衣服の内側で爆発させようものならその後の事なんて言うまでもない。であれば、常識の中にいる普通の牧場管理少年マルコの行動は何一つ間違っちゃいないのだ。
だが、ルチルにとってその心配は全く意味をなさないことだった。何しろ、水場に映るに自分は(さすがに常識的な人の体ではないが)五体満足の人型生物で、その両手だって人のように動く。オーバーオールの着脱に不都合なんてこれっぽっちもない。いや、そんなおかしなことあるかと言いたくもなるが、少女がヤクになっている時点でそんな常識が役に立つ状況じゃないなんて、それこそミイ姉さんにも理解できる話だ(まあ、それを踏まえて考えれば、服を脱がそうと迫る美少年(強引)に、どうしたって抗いたくなるのは(一部を除いた)乙女の性というものだろう)。
「ルチル、犬にかまれたと思ってあきらめなさいな。もう十分メソメソしたでしょう?」
ミイ姉さんは牛舎から見える空を仰ぐ。そこはすでに満天の星が煌めき、どれほどの時間が流れたかを教えていた。本当の所、アニールのところから戻ってきたマルコがルチルの服を脱がしにかかったのは、牧場の事を含め一日にやらなければいけない諸々を片付けた後の二時間くらい前から一時間前までのことで、つまりルチルは夕方の空がいまのようになる一時間をずっと落ち込んでいるのだ。それは、いくら長い間を人と暮らして多少は少女の機微を理解しているミイ姉さんだって、疲れる時間だ。それも日に二度目となれば、半分あった哀れみだって呆れの波に侵食されてしまう。
「それに、ルチルはもういじけたりしないんじゃなかったの?」
「いじけてません……可愛い顔した男の子に後ろから抱きつかれ、さらには女の子の敏感な部分を触られてなんだか切ないだけです」
「そうなの? 人って難しいのねぇ」
「難しい女って言わないでください!」
「言ってないわよ」
ミイ姉さんはモフゥと息を抜いて、干し草の上のルチルに寄った。
「で、そろそろ落ち着いたかしら?」
「はい……」
返事をして体を起こし、両手で顔をごしごし擦る。自分の恰好を見下ろして乱れたオーバーオールの肩ひもを整えるルチルは、そのとき眼に入った自分の絶壁に意識が遠のきかけた。
「本当に大丈夫なの、ルチル?」
「へ、平気ですよ。いつもの事ですから、自分の、胸に、絶望するの、は……」
「そ、そう……? なら良かった……」
このときミイ姉さんは気が付いた。
ルチルがオーバーオールを必死に守る理由に。
(そんなにも重症だったなんて)
女の子としての恥ずかしさだけじゃない。
オーバーオールは、ルチル自身の心を守っていた。
(これは、早めに何とかしてあげなくちゃ……あまりにこの子がかわいそう!)
ルチルに気づかれぬようそっと瞼にたまった涙をぬぐって、気持ちを新たにするミイ姉さん。一日も早く望むサイズに! とルチルにミルクを与えるときは気持ちを込めて授乳しようと心に決める。
「でも、その前に――ルチル、覚えてるわね?」
確認すると、答えはすぐに返ってきた。
「はい、会いに行くんですよね」
「そう。この辺り一帯を治める、お偉いさんにね」
もう少し夜が深くなったら出発するわよ――そう言ってミイ姉さんはルチルを胸に抱くように寝そべると、その時が来るのを待って目を閉じた。
次回 「 山の主 」