海は広くて悲しくて
雪は降らない、
「なあなあ、インチキよ」
「なんですか? 無能君」
「俺たちは今、お前の家に向かっているんだよな」
ルーフはキンシの顔を、視線を一方的に投げつけて問いかける。
「重ねて聞くが、これから向かう場所はどういう場所だ」
キンシは何事もなさそうに、当たり前のことを答える。
「波声港湾ですよ? あなたの言うとおりかっこよく言うならば、ぽーとえりあってやつです」
魔法使いのいたって普通そうな反応に、ルーフはいよいよ戸惑いを高々と募らせる。
「まってくれ、ポートエリアっつーことはよ、つまりは港みたいなもんなんだろ?」
「ええ、そうですね」
ルーフの戸惑いにキンシはむしろ自分から怪訝さをあらわにする。
「それがどうかしましたか?」
「どうもこうも」
ルーフは魔法使いに詰め寄りたい欲望を必死にこらえる。
「どうして家に行くって事で、そんな場所に向かおうとしてんだよ?」
その言葉でキンシはようやく彼が何を言いたいのかを大体察する。
「それは、どうしてもこうしてもその場所に僕の住む場所があるからですよ」
堂々としたキンシの主張にルーフの戸惑いはやがて疑いへと進化する。
「家が? 港に?」
「そうですとも、港に家です」
このような反応をある程度予測していたキンシは、ルーフからこれ以上面倒な追求をされぬように歩く速度を意図的に速める。
さっさと先に行ってしまいそうになる魔法使いに、少年はあわててその後を追いかけようとする。
妹の手と繋がれたままになっていることも忘れている彼の周辺、兄妹たちの周辺にはいつの間にかいよいよ建物もまばらになっており。
「さあ! ゆっくりしていないで、はやく!」
先を行くキンシに追いつくために、そのせいでもともと限界が来ていた気管支の苦しみをごまかすためにルーフは走りながら地面を眺めていた。
だから、
「わあ………!」
坂をひとつ越えた頃、自分の傍らにいる妹のメイがどうして、今にも飛び立ちそうなほどに軽やかな歓声を上げたのか、一瞬少年には理解できなかった。
「お兄さま、見てください」
「はァ………はァ……。……あ?」
坂道によってついに体力の限界を感じ、絶え絶えになっている呼吸を沈めるのに必死になっていたルーフは、疲れでぼんやりしている思考のままに妹のいうがままの行動をしてみる。
炎のようにほてる顔面、涙で滲む眼球に移りこんだのは───。
「う、わ───」
どこまでも、どこまでも、遥か彼方まで水面を継続している、
どんよりと濁っている、あまり大して美しくない海だった。
「海だ、本物だ」
さっきからずっと、嫌気が差してきそうなほどに鼻腔を刺激していたにおいの正体であり根源。
すでに何の感慨も抱けそうにない灰色の空、その下方に傲慢さを感じさせるほどに雄大で豊満な塩味の水がひと時も休むことなく揺らめいている。
常識じみた表情で落下してくる雨水のせいなのか、それともたまたまこの日は勢力か強かった自然の風のせいなのか。
いずれにせよ何かしらの要因によって、その日の海原はやや荒れ気味であった。
透明度の少ない水面は人間の根本的な不安を掻き立てる躍動をし、生み出される無数の泡の集合体が現れては消失する、泡沫の白兎を水面にたくさん生み出している。
「今日は少し、荒れ気味ですね………」
兄妹より少し先の地点、坂の上から遠くの海面をうかがっていたキンシが何げない感想をこぼす。
だがルーフには魔法使いが呟いた日常の感想の意味を理解することが出来なかった。
それは仕方のないことであった。何故ならこれが、今この瞬間こそが、彼にとって生まれて初めての意識の中に取り込まれた本物の海の情報だったから。
「……………」
ルーフは遠くに霞む海の存在にしばし思考を中断し、自分ひとりだけの感覚のみに意識を集中して実態のある水の匂いを改めて味わおうとした。
ゆっくりと深く、深呼吸。
そうすることで感激によって狭められていた視界が現実的な範囲を取り戻し、港の外観情報が送れて目玉に伝わってくる。
「あれが、なみこえ港湾か」
自然が大量に含まれた海から視線をずらし、ひとたび陸地に近づけばそこは限りなく人工物に加工された海岸が広がっている。
「海もさることながら」
キンシがルーフに話しかける。
「やはり波声港湾の最大の魅力は、あの大量な機械の群れだと僕は主張したいですね」
魔法使いはいかにも文明に染まった人間らしい感想を、その場所に抱いているようだった。
「色磯湾に面した船舶所や工場群、昼間見てもなかなかの圧巻ではありますが、やはり僕のお勧めとしては───」
「日が暮れてから見るのが一番、って言いたいんだろ?」
感動かほんのりと冷め、景色によって心に余裕が生まれたルーフはあえて禁止の言葉の先を予測してみる。
「おお! 驚きですね、貴方がそのことを知っているのは以外です」
正直に素直に驚きをあらわにしている魔法使いに、少年は温度のある流し目を送る。
「まあ、ネットで見た情報だけどな……」
しかし、とルーフは思考を重ねる。
これが本物のいろいそ湾なのか、画像で見た感じよりもずっと大きいその場所に、どういった文字で表記されているのかド忘れしたその場所に、
自分が実在している現実が彼にはどうにも奇妙に感じられた。
故郷からまともに異動したことのない自分が、山と川しか知らなかった自分が、本物の海を眺めているなんて。
「この海の先には」
メイが兄のそばで、指の爪の先を海原の彼方へと指し示す。
「金師列島っていう、大きな島の連なりがあるのよ」
遠い異国を伝える彼女の言葉が、声音がいつもと異なっていることに若者たちは気付かなかった。
なのにすごく寒い。




