潮のかおりに誘われて
カメラは届かず、
そんなどうでもいい事はどうでもよくて! 自分が今気にするべきことはただ一つのみ!
「ゼエ、ゼエ。なあ………オイ……」
「どうしました?」
ルーフの前方、文庫本の案内に従って怪物の死肉を両腕に抱えながら走っているキンシが、何事もなさそうに彼の方を振り向く。
振り向いたその顔は至って爽やかなもので、玉の汗を浮かべていながらもルーフほどに深刻な疲労にはまだ陥っていなさそうに見える。
「なあ、いつまで………。いつまで走るんだ? まだ着かないのか?」
いいかげん疲労で全身の筋肉がズタズタに千切れそうになっているルーフが、悠々と街中を走り回っている魔法使いに質問を投げつける。
すでに気管支は限界をきたしており、発せられる言葉は自転車の空気漏れのような掠れ具合になってしまっていて。
その上、飲食店にいた時とはだいぶ勢いを減少したとは言うものの、未だ空からは雨が降りしきっている。
「うーん、えーと、そうですねぇー───」
ルーフと同じく、まともな防雨装備を身に着けていないキンシが、びたびたに濡れている前髪を整えることもせずに考える。
人通りも車通りも、船通りも少なくがらんと侘しい、ジメジメとした雰囲気が充満している路地を、肉を携えて走るキンシが脳内で距離感を計算することを試みた。
幼い妹だったり、もっと幼い人間だったり、自らの手で殺害した怪物の死体の一部だったり。
そう言った異常極まれる者や物を抱えながら、文字が蛆虫のように動きだす文庫本にガイドされながら走り回ってた一行は、何の感情も見いだせそうにない建造物の森を進み続け、いつの間にか。
「なんか、いつの間にか街を抜けているような気が………」
文庫本の動きが一時停止したため、珍奇な一行も言ったんの休憩をとる。
その時になってルーフは初めて周囲の環境を確認できたのだが、その瞳に映ったのは───
「潮の、潮の香りが微かに………」
自分の故郷と遜色無さそうなほどにあっさりとした……。
つまりハッキリと形容してしまえば、薄らさびれた雰囲気の建物しかなくなり、走り抜けてきた都市の中心部とはまるで異なる世界と思えてしまうほどの落差が存在していた。
「何だここ? 港町にでも向かっているのか?」
正直なところ兄妹の故郷は内陸にあり、港町どころか海ですら肉眼で実物を見たことはない。
なのでルーフは嗅覚から伝わる潮の匂いから、何となくの予想だけを述べただけのつもりだった。
しかし。
「そうですねー、こんだけ走ったらそろそろ海に出る頃ですね」
そこそこに眺めの時間をかけてようやく距離を計算し終わったキンシが、少年の言葉を引用して現在地の情報をそこで初めてちゃんと提示してきた。
「え、海?」
「はい、もうこの辺りまでくれば、僕等を見咎めるようなお節介さんもいないでしょう」
キンシはひび割れがあちこちに走っているアスファルトの上に死肉を一旦放置すると、ぐるぐるとさまよっている文庫本にそそくさと近づいて行った。
「そろそろこれもしまっちゃいましょう」
そして矢印の先を迷走させている文庫本をもう一度つかむ。
「もう使わないのか?」
ジタバタと小刻みに振動する文庫本に苦戦しているキンシを眺めながら、ルーフが少し残念そうに問いかける。
「そうですね、海の近くは電波も魔力波長もブレブレにぶれますからね。こういった安物の魔術道具だとあんまし役に立たないんです」
キンシはそう言いながら、文字の集合によって形成されている矢印を軽くタップする。
キンシの指につつかれた黒い矢印はビクビクと二回ほど痙攣すると、急速に熱せられたロウソクのようにその体をドロリと融解し始め。
そして集合体を解散し、文字としての平坦さを取り戻し、紙面の上に元の芸術的な文章の羅列を自動で復元した。
「御役目ご苦労様です」
しゅるしゅると、人間の吐く溜め息のように些細な音と共に元々の文庫本の形状へビデオテープの映像よろしく巻き戻しをした文庫本は、大人しく物言わず魔法使いの手の平に収められる。
「はい、ありがとうございますトゥーさん」
簡単で簡素な礼をトゥーイに伝えると、キンシは彼の腰に吊り下げられているポーチに文庫本を収めた。
「先生」
魔術道具の使用を止め、灰笛住民としての土地勘のみで目的地まで駆け抜けようとしたキンシの背中を、トゥーイが呼び止める。
青年に呼び止められてキンシが振り向く。
「? どうしましたかトゥーさん」
「先生、意味を貸してくださいこれ以上の走行は不必要だと想定します」
トゥーイはキンシに提案する。
「空論でしかなくともこの先はいたずらに病める者の負担を増やす必要なく。さよなら、糸の先までは期待して歩行するようにどうでしょうか?」
トゥーイは顔面に一切の表情を浮かべることなく自分の体を、そして後方に佇んでいる兄妹を、順に見やって最後に先頭に立っているキンシへと視線を戻す。
「先生、何一つして動くことなく目を閉じて要求します」
キンシは彼の言葉を素直に受け入れる。
「あー………うん、そうですね。この先はゆっくり歩いていきますかね」
そう言って魔法使いは大きく背伸びをして深く息を吐いた。
「仮面君、そしてメイさん。先ほども申しましたが、ここまでくれば自警団の方々も追いかけてこないと思われます」
「ああ、そう………」
ルーフは疲労と緊張のあまり張り裂けそうになっていた心臓を一気に脱力させ、視界魔法使いの手前あまり油断を表に出さぬよう心掛けながら、幾ばかりか心に平穏さを注ぎ込んだ。
承認欲求にまみれています。




