トライポフォビアと著作権法に怯える日々だった
楽しみは、
少年から唐突に話しかけられ、魔法使いの肩がビクリと振動する。
「な、何ですか?」
両の指で文庫本らしき物体を握りしめている、そのままの格好でキンシは真っ直ぐ近付いてくるルーフに対して恐れおののく。
「あ、え、えーっとご心配なく───」
魔法使いを自称しているくせに、魔術道具がなかなかうまく使いこなせない自分自身のことをあまり快く思っていないキンシは、ルーフがもしかしたら苛立っているのかもしれないと思い込み、体が震えあがるのを感じる。
しかし、
「それ、ちょっと貸してくれないか?」
少年自身は魔法使いの恐怖心など全く察する様子もなく、ただ単にとある道具のみを。
いまだ沈黙を解さない小型の魔術道具のみに、彼の視線は注がれていた。
「へ? 貸す? これをですか」
キンシは彼から言われたことの詳細がいまいち理解できず、きょとんとした挙動のまま
ススス………、
と体を硬直させたまま指の中の魔術道具を彼のもとに運ぶ。
「貸すって言われましても………」
そのまま道具を手渡そうとして、子供たちはお互いに思いとどまった。
「あ、私降ります」
状況をいち早く察したメイが、体をモゾモゾとさせて気を利かせようとする。
「あー、大丈夫ですよそのままで」
「あ、おい、大丈夫だから。休んでろ」
彼女の遠慮を二人の子供はほぼ同時に取り下げ、次の瞬間には、
「えーっとまずは……、キーワードの読み込みがされなくてですね───」
「あー……、それはそこをクリックして、次にだな───」
まるで示し合せたかのように互いに協力し合って難解な魔術に対応し始めた。
「……………」
ぎこちなく居心地の悪そうな姿勢のまま、仲良く頭を並べている若者たちを見てメイとトゥーイはなんとも言えぬ、微妙にぬるさのある気分を味わっていた。
そうこうしている内に、
「お、お? おおー!」
ルーフの口頭指導のもと、魔術を正しく展開することに成功したキンシが感嘆の溜め息を唇から漏らす。
元々は文庫本の形で、こねこねと電子辞書にトランスフォームさせられた物体。
その内部、中身に印刷されていた、あるいは表示されていたというべきか。
とにかく黒色の文字情報として固定されていた文章。
それが
うぞうぞ、ウゾ、ウゾリうぞり
といった感じでぜん虫の大群のように動きだし、集合体恐怖症が涙目になりそうなほどの躍動を始める。
蠢き回る黒インクの小虫たちはやがて、死体に群がるコバエのようにページの一点、ちょうど本のノドに当たる部分へと一塊になって集合する。
集合した黒文字の大群は、その個体がいよいよ識別できないくらいに互いを密着させると、きちんと締め切れていない蛇口から零れ落ちる水道水の雫に似た音をたてながら、造りたてのインクのような柔軟性で能動的にとある形を形成していった。
キンシが緊張気味に、ページの端を掴んだまま道具をそっと体の胸の前にかざし、
ゆっくりと腕を伸ばして、
「よっ」
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな掛け声とともに、それまで硬直させていた指を一気に解き放った。
ルーフは息を飲んでその様子を見守り、
「!」
いたって静かに起こった現象に目を見開いた。
「よーし! よし、上手くできました」
嬉しそうに小さくガッツポーズをつくるキンシ。
その視線のすぐ先には、若者の手を離れて自立的に浮遊行動を行っている、文庫本サイズの魔術道具が漂っていた。
くたびれて擦り切れている表紙カバーを下に、紙の面を天に向けて、文庫本が独りでに浮かんでいる。
何かしらの、ルーフにとっては見たことも聞いたことも読んだこともない外国の作家。
なんか………、
「フラフラしているふかふか」
っぽい感じの発音をする昔の、とっくにこの世界から去った小説家。
顔も知らぬ誰かが書き残した文章は今、地図及び位置情報検索魔術の触媒として使用され、本来の洗練された文学的文章は見る影もなく、今はただ芸術観もクソもないただの、
ただのつまらない魔法の一つにさせられてしまっていた。
「この黒い矢印に従って移動しますか」
キンシが形容するそのままの通り、魔法によって一時的に変化させられた文章は紙面から飛び出す絵本よろしく立体的に盛り上がっている。
紙の上、そこからほんの僅かに乖離している位置に、それこそスマートフォンの地図アプリに浮かび上がってきていそうな、何の創意工夫も見いだせそうにないほどにシンプルな形の矢印が、真っ黒けな矢印が形成されていた。
ルーフは妹を抱えたまま、たった今自分の指示によって構築及び展開させた魔術を、興味津々にしげしげと眺めた。
これが魔術道具!
ネット以外で本物を、実物を肉眼で見たのは少年にとってこれが初めての経験であった。
「とりあえず道具の指示に従って、先に走って行ってください。僕も後から追いつくので」
「お、おう」
「はい! レッツらゴー!」
「ご、ゴウ!」
乱暴で粗雑でいいかげんな魔法とは異なる、きちんとしたルールのある魔術。
それも構築の際に微小ではあるものの自分の意識が織り込まれているとなれば、少年の意識は真っ直ぐ黒色の矢印へと寄り添うほかなかった。
なので去りゆく視界の隅っこでキンシが、
「よいせっよいしょっ、よっこらしょ」
と甲斐甲斐しく、いそいそと、手作業ですでにその肉と体液をカサカサに乾燥させている怪物の亡骸から、死肉がたっぷり付着した四肢のいくつかを引っこ抜いていることなんか、
少年にとってはどうでもいい、些末で他人事じみた作業の一環としてしか認識できていなかった。
やっぱり少しずつですね。




