灰笛の空
不思議で異様な町はどんどん接近する、それ故に「海」の発生源も否応なく視認できるようになった。
戦慄を覚えるほど豊かに町の空を満たす水。
水……?
考えたところで、ルーフはその認識をすぐに自身で否定している。
さすがに都市一つが水に沈んでしまっているなんて、そこまであり得ない事が起きるはずもない。
その都市には雨が降っていた。
いつから降りだしたかは、正確なところはあまりよく分かっていない。
ボーッと考え事ばかりしていたので、外でおきた変化に気付くことが出来なかったのである。
雨に満たされた都市は、地面から生えているビル以外にも、魔力的要素によって星の重力から解放されたビル群もある。
都会では建物が空を飛ぶことなど珍しくもない。
と、祖父は語っていた。
雨足はかなりの激しさと質量を持っている。
空から落ちて地面を塗らしている、雨は灰色の雲から絶え間なく雫を滴し続けていた。
ルーフは空を見て、そこに「それ」を見ていた。
それは町の中心、分厚く濃い灰色の空に浮かぶ一つの空洞から生まれているようだった。
穴なのか渦なのか、はたまた新鮮な切り傷か。
空洞は強大で一時も停止することなく、まるで生き物のように、確かに変化を繰り返していた。
生まれて初めて見る、そしてこれからもずっと理解することは不可能だと、そんな確信が持ててしまう。
不思議すぎて余りにも正体不明な風景に、ルーフの目は釘付けになっていた。
自身に体を預けて眠る妹のことを、一瞬ながら軽んじ体を乱暴に動かしてしまうほど、少年は車窓の外に広がる街に夢中になっていた。
ルーフは体を傾け窓に頬をくっ付ける、少しでも町の空を鮮明に観察したかったのだ。
電車はいよいよ灰笛、その中心部に連なる周辺区域へと到達していた。
車内はしっかりと換気が、少し肌寒いくらいに機能している。
そのはずなのに町に入ったと認識した途端、肌が冷たさのある湿り気を嗅ぎ取った、ような気がした。
「雨、雨、雨、そこはとにかく雨ばっかり降りまくっているのさ」
ルーフの鼓膜の奥で祖父の声が再生された。
記憶にあまり自覚のない台詞だったので、もしかしたら彼自身が視覚情報をもとに作り出した幻聴かもしれない。
それでも祖父の声は、過去の物となってしまった彼の声は、現在にいるルーフが見ている現実にとても良く則していた。
鼻頭か潰れる勢いで窓に張り付く。両の目が渇くのも構わず空洞を見つめ続ける。
目を凝らしに凝らしてみてみる、すると一つだけ解ったことがあった。
空洞の中身は無数の、おびただしいほど沢山の硝子? 石? 何か硬そうな物によって構成されていたのだ。
何時だったか幼い頃に、近所の庭に生えていたザクロの木からこっそり勝手にもぎ取った果実。空洞はその断面にどことなく似ていた。
生々しく艶めく巨大な空の空白、それを中心に砂場でいい加減に作った砂山のように、町がなだらかな傾斜を描いて広がっている。
木材と石材と鉄材、それらを立体型のパズルの如く組み合わせた高層建築物が、艶やかな空洞を中心に乱立している。それらの間を繋ぐ鉄道車道遊歩道は、冬の木立の枝先を連想させてくる。
特に遠くに霞む町の中心部、一番背の高い塔には細く輝く針のようなものが真っ直ぐ空洞に伸びており、遥か天空の曇り空、そしてあでやかな傷から滴る光を反射し、くすんだ色彩を形成していた。
それは、それは確かに、見様によっては巨大な灰色の笛に、見えなくもない。
境界が曖昧な場所、この世あらざる事象が日常として起こる場所。それが兄妹達の知っている、教えられてきた灰笛だった。
目が疲れてきたルーフは、いったん窓から顔を離す。
その時、空の海に何かが蠢いた、ような気がした。
やがて電車が止まる、駅に出ると湿った空気が頬を撫でた。
「さて、と」
どこに向かうべきか、まずはこの駅から脱出、もとい移動をしなくてはならない。
そんなことを考えながら、ルーフはまだ寝ぼけまなこのままでいる妹の手を引いて歩く。
魔法使いの約束事
「以下の心得を守る事。そしていつの日か真の魔法使いになることを約束する」
その一、魔法使いは嘘をついてはいけない。
その二、魔法使いは右から靴を履くのが好ましい。
その三、魔法使いたるもの、嵐には万全の態勢を整えるべし。
その四、魔法使いは他者に癒しを与えるべし、方法に限定されることなく心を込めるべし。
その五、魔法使いは他者に心を侵害されてはいけない。
その六、魔法使いは知を探求すべし、常に前進を。
その七、魔法使いたるもの、水を尊ぶべし。
その八、魔法使いたるもの、一つのところに留まらず旅をすべし。
その九、魔法使いたるもの、常に人助けを心掛けるべし。
その十、魔法使いは決して人間の生活に仇なしてはならない。
その十一、魔法使いは己の欠如を、「呪い」を自覚しなくてはならない。