君の辛さを平凡になんてしない
ご覧になってくださり、ありがとうございます。
それは舌打ちであった、間違いなかった。
嗚呼、まさに舌打ち。
チッ。
チッ。
チッ。
雀の鳴き声とよく似ている。
だが、その音は雀のくちばしから発せられる愛らしい音色とは、まったくもって異なる。
可愛らしさもいじらしさもなにも無い、ただ己の苛立ちを表現するためだけ、ただそれだけに使用される音色。
喜ばれない音色。
古来より人間の苛立ちを表現するために使われた、そんな音色。
舌を上アゴ、前歯の付け根のあたり、そこに少しだけに密着させて、空気を弾けるように吐きだす。
それだけ、たったそれだけの動作で発せられる感情表現。
ただの音だった。
空気を振動させる、ささいな音でしかない。
そのはずなのに、どうしてこんなにも心を動揺させるのだろう?
車輪の急ブレーキ音の方が、音の質量的にもよっぽど不快感を得るに相応しいというのに。
だというのに、下を鳴らされるだけで、たったそれだけでこれまで数多くの人間が、その心理状態に異常事態を来たしていた。
かくいうこの灰笛という名の地方都市、その片隅にも舌打ちの被害者たる男が、新たに生み出されようとしていた。
「……オイ」
シイニという名の男性。
子供用自転車のような姿をしている、彼がいつになく低い声で問い質していた。
「いま、誰か舌打ちしなかったか?」
地面から這い登るかのような、そんな音程で、シイニは質問をしている。
それは詰問であった。
声の調子こそ、まだ静かで落ち着いた雰囲気を匂わせている。
しかしながら、それでもその時点ですでに隠しきれない苛立ちが、短く限定された言葉のそこかしこに漂っていた。
苛立ちを向けられたことに、苛立っている。
粗野な気配が生まれようとしている。
弱いものであるのならば、その時点で幾らかの危機的状況を予想できてしまえる。
事実、舌打ちをした張本人にも、子供用自転車の彼の感情の形は、すでにある程度把握することが出来ていた。
キチンと相手の心を思いやれていた。
その上で、舌打ちをした青年は自らの感情表現を止めようとはしなかった。
「私です」
電子音が鳴る。
声のした方、シイニはトゥーイの方に視線を向けていた。
瞳の色も、瞳孔の伸縮具合も確かめることの出来ない視線。
子供用自転車の姿に隠されている、シイニの表情をトゥーイから確認することは、実質的には不可能であった。
そうでありながら、しかしてトゥーイはどうしようもないほどにシイニの存在を感じていた。
子供用自転車の彼の視線を肌で、あるいは感覚神経の様々な部分でしっかりと感じ取れてしまえている。
ジッと見られている、いや、睨まれている。
そのことを、トゥーイは敏感に感じ取っていた。
不快な感情を差し向けられている。
その上で、トゥーイは継続して自らの感情表現をおのずから主張していた。
「諦めることの悪さに不満を感じた」
首元に首輪のように巻き付けてある、発声補助装置。
鈍い銀色を放つ機械から、青年のそれと同じように設定された音声が発生している。
青年の言葉を聞いた、シイニが苛立ちの感情表現を続行させている。
「ふざけるなよ」
低い声音、女性の持つそれとは決定的に異なっている、男性特有の掠れ気味な音声が、子供用自転車の底から何処ともつかず発せられている。
「……」
光景のシュールさを、今更になってキンシは再認識させられそうになっていた。
余計なことを考えてしまう、のは、キンシ本人がこの場所に生まれつつある緊迫感を鋭く感じ取ろうとしてるからであった。
魔法使いの少女が恐怖心を抱きそうになっている。
その様子をトゥーイは見ていた。
鮮やかな紫色をした瞳で、トゥーイは魔法使いの少女の感情を無言の内に把握している。
そうしながら、それでも青年は自身の感情表現の理由を取り下げようとはしなかった。
「理由は複数用意できる」
「ほう……? ぜひとも聞かせてもらおうじゃないか」
シイニに問いかけられた、トゥーイはなんてことも無さそうに、舌打ちの理由を語っている。
「私は諦めるのが不快。そしてあなたが不快感について話すのならばあなたは狂っていますね?」
「なんて?」
しかしながらトゥーイから発せられる言語は、シイニの理解から遠く離れたものでしかなかった。
「私は私の重要な先生に呪いが本当にあるかを尋ねた。ただ戯れ言と厄介な事物」
「な、何? 何だって?」
青年の怪文法にシイニが、苛立ち以上にただただ困り果てている。
すると、彼の近くで大きな呼吸音が聞こえてきていた。
「そ、そ……!」
それはキンシの声で、少女はどうやらかなり動揺しているようであった。
眼鏡の奥の瞳、新緑のように鮮やかな緑色をしている瞳を、こぼれ落ちそうなほどにまん丸く見開いている。
「と、トゥーイさん、あなた……そんなことのために、シイニさんに失礼な態度をとっているって言うんですか?!」
どうやらこの場面において、青年魔法使いの言葉の意味を理解できているのは、キンシただ一人であるらしかった。
キンシは、トゥーイの行動に強い不理解を抱いている。
「くだらない……。いえ、それよりも……──」
青年の行動に対して、信じ難いモノを見つけてしまったかのような言葉をかけている。
それと同時に、魔法使いの少女は両手で自らの頬をそっと包み隠していた。
「は、は……恥ずかしすぎます……っ!」




