異国情緒と情緒不安定
最初に指を何ものかに激しくはたかれたかのような、そんな衝撃が走っていた。
この場合における「何もの」とはつまり、他でもない、目の前に佇むモアの模造品が原因の一つであることは確かであった。
ルーフの全身に塗りたくられていたジェルから発生したもの達。
柔らかい模造品は本物の少女と比べてみると、いくらか小さめのサイズ感がある。
少しだけ小さい彼女の、ルーフは本来ならば頬の一つに触れるつもりだった。
触れて、出来ることならつねったり、弾いたりする。
そうすることで、ルーフは目の前の対象が安心できるものであると、そう断定しようとしていた。
それは試みだった。そして試したことは見事に失敗していた。
「痛ッ?」
衝撃が通り過ぎた後に、痛覚を意識し始めた。
思考を速やかに切り替えることができた。要因は実のところ偶然に等しい感覚での出来事だった。
模造品の歯に噛み千切られた、皮膚にうがたれた創傷から新鮮な血液があふれだしている。
ドクドク、ドクドク。
破壊された場所、開かれてしまった穴から血液がこぼれ落ちる。
その動作はルーフ本人にもコントロールできないものだった。
身体に宿る意識とは垣根を別にする、肉体に許された原始的な反応でしかなかった。
噛み千切られた指先からこぼれ落ちる血液。
数秒の内に噴出の勢いは少しずつ、僅かながらに収束の道を辿ろうとしていた。
じんわりと滲む赤色の柔らかな表面が、空気と触れ合う。
体内に流れていた時の熱が次々と忘却される。
失った後に訪れる冷たさが、ひんやりと周辺の皮膚を濡らしていた。
「痛ってぇー……?」
傷口が冷えるのを感じながら、ルーフは急ぎ目の前の存在と距離を取ろうとしていた。
目の前に変わらず佇んでいる。
少女の模造品の口元にはまだ新しい血痕、ルーフの体液から由来する痕跡がヌルヌルと残っていた。
「もちゃもちゃ」
模造品の彼女は、唇と思わしき部分から鳴き声のような、雑音でしかない何かを呟いていた。
言葉にならないそれらを聞きながら、ミナモがのんびりとした様子で状況を言葉にしている。
「あーほらほら、血ぃ出とるで、これで抑えなさい」
ほとんど緊張感を感じさせない動作のなか、ミナモは持ち寄った鞄の中からポケットティッシュを一袋、ルーフの方に手渡している。
「ああ、ありがとう、ござます……」
柔らかな紙の束を受け取ると同時に、ルーフは反射的な礼の言葉だけを彼女に伝えていた。
白色の一枚で指もとを抑えながら、ルーフは引き続き模造品の彼女との距離を確保しようとしていた。
「ミナモ……奥さん……ッ!? そいつ、危ないから今すぐ離れた方がイイっすよ……ッ」
一分ほど時間が経過した所で、ルーフがようやく周辺の人物たちに危機を知らせられる余裕を持ち始めていた。
少年からの忠告に対し、ミナモはまるで様子を崩そうともしなかった。
「大丈夫よー、そんなに怯える必要もあらへんって」
実際に損傷を受けたというのに、ミナモはそんなことなど日常茶飯事であるかのような、そんな扱いかたしかしていなかった。
「不用意に口元に餌とかをぶら下げない限りは、ホラ、大人しゅうしとるから」
座っていた格好から体を起こしつつ、立ち上がる途中の動作のなかで、ミナモは模造品の頬をぷにぷにと突いている。
危ない、とルーフが叫ぼうとした。
しかし言葉が実際に音声に変換される前に、模造品が何もしてこないこと、その現実がルーフの眼球に突きつけられていた。
「あ、あれ……?」
思わず身構えていた、ルーフは模造品の彼女が全く動かないことを、驚きの目線で見つめるしかなかった。
「よっぽど美味しそうな餌でもない限りは、この子たちもプランクトン並みに無害なはず、なんやけどなあ……」
ジェル状の怪物たちの説明をしながら、ミナモは珍しいものを見るかのような視線をルーフに送っていた。
「でも、あんなに激しく反応したの、ウチも久しぶりに見たわ」
コロコロと笑いながら、ミナモはルーフの損傷が起きた事態に、遅れ気味の驚きを抱いて見せていた。
「エミル君でも、いきなり指を噛み千切られることなんて、無かったんとちゃう?」
「エ、エミルさん……?」
魔術師が話題に登場したことに、ルーフは指先の痛みをしばし忘れさせられていた。
「そうよー」
少年が分かりやすく興味を示している。
その様子を見た、ミナモが彼に軽く過去を語っていた。
「エミル君も右手の義手を作るのに、こうしてジェルジェルにまみれたりするんやけど。その度に、この子たちがあの人の魔力に反応して、興奮気味になって大変なんやから」
自分たち側の状況を、面白おかしく語っている。
もしかするとリラックスをさせようとしているのだろうか、ルーフはそう考えようとした。
だが考えを巡らせるよりも先に、否定の色が強い発言力を持ってルーフの思考を占めていた。
リラックスもなにも、こちとらすでに右の人差し指が一本流血しているのである。
血を流すほどの被害を出しながら、それでもルーフは自分が冷静さを損なっていないこと、そのことに意外さを覚えつつあった。
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