夏の旅行はどこに行こう?
眠りはまだ覚めない
メイとルーフは兄妹の関係を持っていた。
兄であるルーフは妹である彼女を、この世界で一番大切に思っている。
そして妹であるメイは、兄である彼をこの世界で一番愛していた。
ただそれだけのこと、それだけしかない。
彼と彼女は、それ以上のことなど何も望んでいなかった。
もしも彼らに何事も起こらなかったとしたら、おそらく彼らはその生命活動の限りを尽くして、その関係性を継続させたであろう。
静かな故郷で、のどかに日々をやり過ごすだけだった。
普通に働いて、食べて風呂に入って、布団で寝る日常だけを信じようとしていた。
…………。
しかし彼らの願いは叶わなかった。
事件はいつでも想定した世界の外側から訪れる。
「………」
ルーフは目を閉じる。
目蓋の裏側に広がる暗闇、黒色へかつての出来事が映し出される。
記憶によって生み出される光景は、さながら少年だけに許された小型の映画館のようであった。
映る架空の映像は、しかして確かにルーフ自身が経験したことだけで構成されている。
そこではルーフと、メイと、そして……彼らの保護者であった祖父の姿が見えていた。
祖父はルーフにとって数少ない家族のひとりだった。
そしてその事実はルーフだけではなく、メイにも同様のことであった。
大事な家族、それがこの二人の男女に強く共通している要素。
そして、同時に彼らがこの場所にいる理由。
穏やかで平和だった故郷を逃れるように離れ、そうしてたった二人だけで見知らぬ土地へと向かおうとしている。
最大の理由、その姿を思い出しそうになった。
ルーフはたまらず息を強く吸い込んで、ガバッと閉じていた目蓋を激しく開けている。
体がつい動いてしまう、水を失った川魚のようにビクリと全身の肉や骨が激しく振動した。
知らぬ間に動悸が激しくなっている。
心臓は確かに鼓動しているはずなのに、全身はまるで冷や水を被ったようだった。
冷や汗に濡れる首もとをやり過ごしながら、ルーフはすかさず妹の、メイの方を見やる。
動揺を気づかれただろうか?
ルーフは少し不安を覚える。
だがそれに関しては、少年の杞憂だけで済まされていたらしい。
メイはルーフの膝の上で眠り続けている。
その姿は綿のように頼りなく、今にもどこかに消えてしまいそうなほどに弱々しい気配を持っている。
メイの、彼女の抱えている疲労はルーフの想像を超えて深刻なものなのだろう。
兄が幾度も覚醒を促そうとしても一向に眠りを終わらせそうになかった。
散りゆく花弁のように小さく、簡単に押し潰されてしまいそうな唇から零れる寝息が、彼女の艶やかな、ふーかふーかとした羽毛を震わせている。
柔らかく流れる頭髪に手を這わせて数分、あらゆる思考を捨てて座席の前だけを見つめ続ける。
落ち着いた色調の無機質な壁、掲示されている旅行会社の溌剌とした発色の宣伝ポスターを意味もなく、ただひたすら観察してみた。
旅行なんて、そういえば家で暮らしていた時は一度も行ったことが無かったな。
別段遠出をしたいとも思っていなかったが、しかしこのような事になるくらいだったならば、もっと家族らしい思い出を作っておくべきだったと後悔する。
本当に、本当に今更だが。
それにしても………。
ポスターをずっと見つめていると、自然と視線が宣伝先の特産品と思われる食品の元へ集中してしまう。刺身が美味そうだ。
電車が大きく揺れて、窓から差し込む日光がいつしか細切れになってくる。
低い建造物がまばらに灯る平地が終わり、高さのある建造物が増え始めているのだ。
山は遥か遠くに霞み町が、都会が近付いてきている。
静謐な田舎から喧騒に溢れる都会へまっすぐ進む電車、もしもこの場に祖父がいたならば。
もはや有り得ることは叶わない幻想が、今のルーフに許されている僅かな安らぎだった。
不意に後ろの座席から感嘆の溜め息があがった。
音に反応して妹が身じろぎする。
「ねえねえ、あれ見て外!」
ほかの座席にいる赤の他人の家族、その子供が調子の高い声で叫んだ。
保護者と思わしき大人の声が、大声を諌めながらも指示に従うのが背後で窺える。
堂々巡りを繰り返す心情に、正直なところ飽きを感じ始めていたルーフは、何気なく他人の言葉に従ってみた。
…………?
水?
水だ、
水がいっぱい浮かんでいる。
その都市の第一印象は予想し構えていたものより、ずっとずっと奇妙なものだった。
瞬きを忘れ渇きがちになっていた眼球を瞼で硬く潤す。
染みるような痛みを飲み込んで再び目を開けると、窓の外には相変わらず変てこりんな都市が存在している。
電車の進行によって先ほどより距離が縮まっているように見えた。
それ故にどうしても其処の異様さが改めて、実体強く実感させられてくる。
その都市、そして周辺に広がる町々の空には、空に有るはずのない、有ってはならない水の流れが存在していた。
「空に、町の上に海が浮かんでいる」
狂っているような形容が瞬間の内に脳で作られる。
何を馬鹿な、あまりにも突飛な表現に理性がすぐさま否定に取り掛かろうとしてくる。
だが出来なかった、否定のしようが無かった。
不意に浮かんでしまった馬鹿馬鹿しい台詞が、眼球に伝わる現実にあまりにも則してしまっていた。
線路は真っ直ぐ町に、灰笛へと繋がっている。否定してもし尽くせない町が近付く。
少年とその妹は、生まれて初めて故郷の外側へ、知らない場所へと向かっていた。
……どこかからいきなり音が鳴った。
どうやら誰かがスマートフォンのネットニュースを流してるらしい。
マナーに違反しているのが人為的であるか、それとも事故として起きた事象なのかは分からない。
ニュースはこんなことを言っていた。
「戦後から五十年以上経過しました。
「人間」による支配から魔族による管理に移行した世界は今後とも継続されるために継続的な魔力鉱物の採集を求められるため、魔術師の技術力向上と魔法使いに対するケアの向上を求められることでしょう。
世界のN型人種、つまりは「人間」と呼称される生物の数は年々減少しています。このままでは今後半世紀の内に「人間」、とりわけ魔力を有していない個体はことごとく絶滅する可能性があります。
有識者は「人間」の保護に……──」
人間っぽい姿をしている少年はニュースを聞いていなかった。
兄妹は内陸部から海沿いにある灰笛に来ています。