ブレーキは壊れたままでした
「女性が時間のことを気にし始めたら、それは暗に帰宅をおすすめされているって、本当なんでしょうかね?」
「…………」
「もしそうだとしたら、ですよ、ルーフ君、ボクはこの先彼女たちの目線が時計の針の進み具合を確認するために、胃の内側を胃液でじゅうじゅうと焼き切らずにはいられない、そうせずにはいられない気がしてならないのですよ」
ハリの謎の持論を左耳に聞きながら、ルーフの目線は彼ではなく、古城の空間に差し向けられていた。
彼らは今古城の下層、駅と繋がっているホールの喧騒の中に体をそれとなく漂わせていた。
「それはそれとして、もう午後もだいぶ耽ってきてしまいましたねえ」
曖昧な予想を口にした後で、ハリはやはりなんの脈絡も、前程もないままで別の語りを開始していた。
ルーフから見て左側、並走して歩いていた足を少し早めて、ハリは行き交う人々の喧騒の中にほんの少しだけ身を浸からせている。
「どうします? このままエミルさんの家に帰りますか?」
ハリが人の流れの空白を程よく上手く、見定めているのか、あるいは周囲の人々が魔法使いの姿を上手く回避しているのか。
どちらにしても、ハリの体は人の波にひとつ漂うクラゲのゼラチン質のように、誰にも触れらることなく存在を正しく保ち続けていた。
さて、ハリに提案されたことを、ルーフは頭の中で考えてみる。
帰宅を推進されていることに、ルーフは今更ながら自分がまだどこにでもいる子供のひとりでしかないことを再確認させられていた。
「家に帰るっつってもなあ……」
少年が言葉を濁していると、ハリが思い出したかのように少しだけ目を見開いていた。
「ああ、そういえば君は流浪の状態に陥っているんでしたっけ?」
「流浪っつうか、ただのヤドカリなんだけどな」
エミル家の部屋に居候、……のついでに監視下に置かれている。
ルーフは自らの状況をも再確認させられた、気分の落ち込みをやり過ごすことに意識を割く必要性を求めていた。
「いや……ヤドカリはまだテメエの手で家を探しているぶん、俺とは比べ物にならないな」
「ヤドカリ以下ですか、超ウケル、ですね!」
ルーフの発した言い回しに、ハリがはじけるような笑顔で反応を返していた。
往来で大人の男が笑顔を炸裂させている、光景はそれなりの奇妙さをただよわせている。
事実、周辺にいた人々が魔法使いに向けて、いくらか怪訝そうな視線をチラリ、チラリと差し向けている。……ような気がしなくもなかった。
スーツに身を包む労働者、外出用に着飾った女や男の姿、大まかに区分したとしても、数えきれないほどの多くの他人が絶え間なく歩き続けている。
そのうちの僅か、たった数人程度でしかない。
頭ではそう理解していながら、それでもルーフは他者の目線が自分たち側に向けられていることに、言い知れないような緊張感を覚えずにはいられないでいた。
「あー……せめて、自分の城でも持てればいいんだけどなー」
緊張感に気分が動転していた、と言えば、それはそれで片付けられてしまう状態ではあった。
理性から爪先一つ分だけ外れた、言葉がルーフの口の中で振動を空気に生まれさせていた。
「どこか、遠い所にいきてぇよ……」
願った、少年のそれを聞いたハリが、黒猫のような形をした聴覚器官をピクリ、と動かしていた。
「なるほど!」
またしても周囲の環境をまるで考えていない大声を発している。
だが驚いているのはルーフ一人だけで、意外にも周辺の人々は魔法使いの考える提案にまるで関心を抱いていないようだった。
「では、今日はボクがあなたを監視することにしましょう」
「え……は?」
提案は唐突であった。
それこそ周辺の他人たちが奏でるまちの音色にかき消されて、聞き逃してしまいそうな、それほどの気軽さしか含まれていなかった。
「そうと決まれば、早速向かいましょう」
そう言うや否や、ハリはぼんやりと佇んでいたルーフの右手首をむんず、と掴みとっていた。
「うわ!」
どこかに連れ去られようとしている、光景もしかしてまちの風景に溶かし込まれて、次の瞬間には過去の場景に重ねられてしまっている。
「お、おい! どこに連れてこうってんだよ?」
人混みの中を二メートルほど、スルスルと泳ぐように進んだ後。
ルーフは自分の手を引いて歩く、魔法使いの背中に叫ぶような感覚で質問をしていた。
「どこって、ボクのお仕事現場ですよ」
「仕事現場ァ?」
帰ってきた答えのなか、数少ない言葉に含まれた情報から、ルーフは漁るような心持ちで想像力を稼働させている。
「この辺にまた、怪物が出て来るかもしれへんのか?」
魔法使いの仕事、としてルーフが考えられるのは怪物との戦闘だけだった。
怪物と戦い、殺した肉から魔力エネルギーの材料となる部分を収穫する。
だが、ルーフが想像した仕事内容は、実際のそれとは大きく異なっているようだった。
「殺し、殺され、だけが魔法使いの仕事という訳ではございませんよ、ルーフ君」
ハリが否定をしながら、魔法使いの別の仕事内容へと誘おうとしていた。
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