希望をお湯に溶かしちゃおう
モアとエミルが、まるで決まりきったかのようなやり取りを交わしている。
そのすぐ近くで、ルーフは疑問の手を伸ばしていた。
「なあ、あの空に浮かんでいる傷口の向こう側には、どんなヤバイやつが潜んでいるんだ?」
少年の質問を聴覚器官に受け入れた。
先んじて回答を用意していたのは、エミルという名前の若い魔術師であった。
「ヤツって言い方は、あれにはあまり相応しくないな」
質問にすぐさま答えを与えようとしていない。
魔術師の口振りに、違和感を唱えたのは以外にもモアの声音であった。
「そんなもったいぶることないじゃない。ねえ? エミルお兄ちゃん」
「お兄ちゃん」の部分を、モアはまるで必殺の一撃のような丁寧さのなかで発音している。
妹、その関係性にいる彼女からそう呼ばれた。
エミルは渋々といった様子で、この世界の真実をひとつうち明かすことを決めていた。
「まあ、あー……あれだ、いずれは知ることだったよな」
「…………なんだよ?」
ここまで来て、まだ嫌にもったいぶろうとする。
ルーフもさすがに、エミルの様子に違和感のようなものを覚えはじめている。
その頃合いを見たのか、あるいはあくまでも自陣のペースに従ったに過ぎないのか。
いずれにしても、エミルは次の言葉で決定的な要素を少年に伝えていた。
「あの雲の向こう、空に浮かんでいる口のなか。そこにあるのは人間の成れの果て、なんだよ」
魔術師の言葉を聞いた。
ルーフは一瞬、自分がどのような意味を与えられたのか、よく分からなくなっていた。
今、この男は何を言ったのか。
その青色をした瞳で、自分に何を伝えたのだろうか。
ルーフは目蓋を閉じて、考える。
左は琥珀で、右側は瑠璃色に変色した瞳に暗闇が訪れる。
意図的に作り出された暗黒は、生温かく心地よいものだった。
まるで冷える朝に目覚めた瞬間、肌を包み込む毛布の柔らかさのように、温度は濃厚な魅力を発している。
いっそのこと、このまま甘い眠りに沈んでしまおうか。
甘く浸って、砂糖漬けになるのも、そんなに悪いことではないような気がしてきた。
考える。
ルーフは考えた。
故に、彼は見いだした甘さから目を反らそうとした。
単純に、そうしたくない、と考えたにすぎなかった。
「なるほど、な」
目を開ける。
そこには相変わらずの世界だけが広がっていた。
アゲハ家の浴室。
ルーフから見て右側ではモアが使用中の風呂場
もう片方では、廊下に面している扉のふちにエミルが体重を預けているのが見えている。
彼らを姿を両の目、それぞれに色も性質も異なる、二つの眼球で見た。
ルーフの視線の動きを、彼と同じようにエミルも見ている。
見て、その上で魔術師は重ねて彼に確認をしている。
「納得がいかない……。って感じの顔をしてるね」
分かりきっていることを、エミルはさも面白いことのように確かめている。
魔術師の問いかけに、ルーフは激しめの反論のようなものを返していた。
「当たり前だろ……! だって、あの空に浮かんでいるものが、人間の成れの果て……?」
改めて言葉にして見ても、その形の見えない不安の大きさに、いっそ呆れのようなものさえ覚えそうになっている。
「意味がわかんねえよ。二人して、また俺のことをだまくらかそうとしてんじゃねえだろうな?」
図らずして脅迫でもするかのような、そんな言葉遣いになってしまった。
しかして、少年の語気の強さに対してモアは、特に気分を害するようなことをしなかった。
「そうよねー、この言い方だと、ちょっと直接的すぎるわよねー」
あくまでも平常心のなかに自分の意識、心を許している。
モアは揺ったりとした口調のままで、湯船の中の体を少し動かした。
水が動く気配。
かすかな音色のなかで、モアの言葉が追加されていく。
「正しくは、個体の生命活動を終えた人間の肉体、そこに込められている魔力が、あの傷口にたくさんたまっているのよ」
この言い方ならば大丈夫!
きっとサル、あるいはサル以下の情緒と情報人気能力を有している。
そんな少年にも分かりやすい、言葉を選べた感動にモアは強く自画自賛を送りたがっているようだった。
しかしながら、残念なことに少女の抱いた期待は、現実に実行されたとは言いがたかった。
まずルーフが、決まりごとのように首をかしげていた。
「…………?」
彼らの語っている内容、この世界の常識のひとつにうまく、都合よく納得を与えられないでいる。
と、同時に浴室からモアのものと思わしき悲鳴が聞こえてきていた。
「きゃあ?!」
悲鳴はガラスの破片のように鋭かった。
自然発生した鋭利さに、凝り固まりかけていた空間が勢いよく切り裂かれていく。
「どうした?」
疑問を口にしながら、行動を起こそうとしていた影が二つ。
片方は車椅子に座っているルーフで、もう片方はエミルの姿だった。
両足が揃っているエミルが、二歩ほど歩いただけですぐさま浴室の扉に手を掛けている。
魔術師の、彼の指が扉に触れた。
その瞬間、あるいはもしかすると、それ以前に変化はすでに始まっていたのかもしれない。
エミルの指を、触れたそこを扉……、そこに存在している要素が拒絶していた。
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