波声線、電車内にて
新キャラ登場
鉄の道を走る線路は緩やかな曲線を描き、電車内に内蔵された人間たちは引力に従いながら体を静かに傾けている。
ガタンゴトン、と硬く大きな車輪が鉄道を噛みしめる音色と振動が、リズミカルに車内を振動させている。
人工的に発生する震えが、列車内と言う日常に発現する限定的な空間に影響を与え続けている。
震えは車内に生きている生き物、人間の体、皮膚の下に潜む肉と骨を絶え間なく動かし続ける。
与えられる変化は平等なものだった。
その無機質さに救いを見出す人間が存在をしていることも、広い意味で考えればやはり日常の一部、「普通」に値する事実でしかないのだろう。
そんな事を考えている、それは期待にも近しい、願いを閉じた唇の下でうごめかせている少年が列車内に一人いた。
少年の名前はルーフと言った。
少年は目を閉じていた、どうやら彼は座席にすわりながら眠りに身を沈めようとしているらしい。
ウトウト、とロクに肉もついていない細い首が不安定に揺れている。
右に、左に、動きは列車の振動に合わせて不規則な道筋を密かに描いている。
そこへ、車内に運行を変更すると言った旨のアナウンスが響いてきた。
無機質かつ無感情で、均一な声色のアナウンスがルーフを眠りの世界から、現実の色彩の中へと連れ戻していた。
ルーフのまぶたがフルフルとわずかに震え、開かれた薄い皮膚の下に隠されていた眼球が露わになる。
夢を見ていた様な気がする、ルーフと言う名前の少年は咄嗟に左右を確認した。
不安定に、不安そうに周辺を見渡す少年。
その年恰好は少年の名に相応しく、まだ十代を充分に通過してさえいないように見える。
十代の中頃か、その位の年齢であると考えられる、ルーフと言う名前の少年は列車内の座席に身を預けていた。
思わず吐き出しそうになった溜め息やらを喉の奥に押し込み、押し殺したそれをやり過ごすかのようにして、少年は後頭部を座席のクッション部分へと押し付けている。
クシャリ、とルーフの耳元に彼の後頭部の毛髪と布製のクッションが擦れあう音が届いてくる。
姿勢を少し変えると、ルーフのまぶたに彼自身の毛髪の一筋が流れ落ちてくるのが見えた。
それは光と影の関係性で黒に近しいものに見える。
しかしそれは錯覚にすぎないと、ルーフは他の誰に確認する必要も無く、自身の持つ色彩の正体を把握していた。
目にかかる前髪を振り払うついでとして、ルーフは首を軽く振る。
首の骨と筋肉が動くのに合わせて、少年は目線の位置を窓ガラスの方へと移動させた。
分厚い、安全性が満ち足りたガラス素材。
そこにうっすらと、ルーフの顔面がおぼろげに頼りなく映り込んでいた。
ルーフは、少年は思わず目を逸らしそうになるのをぐっと堪える。
昔から鏡ないしそれに類する道具で、自身の顔を見るのが大の苦手だった。
一体何時から、何歳から苦手になったのか? と具体的な数字を質問されたとして、しかしてルーフに明確な解答を用意することは出来ない。
いつの頃かもわからぬ内に、大した理由も無いままに苦手になってしまった。
そうとしか言い様がない、ルーフと言う人間にはそういった条件に合致する事象、出来事、人物の種類が余りにも沢山この世界に存在していた。
嫌いなものが沢山ある、それは仕方のないことだと、そう教えてくれたのは彼の祖父の言葉だった。
ルーフはいつの間にか閉じていたまぶたの裏側、血液のあたたかさに染まる暗闇の中で、此処にはいない祖父の姿を思い出していた。
そしてすぐに目を開き、まるで現実逃避のように思い浮かべていた祖父の映像を打ち消していた。
息を吐き出す、それはもはや溜め息に近しい重さを持っていた様な気もする。
仕方のないことだと、ルーフは窓の中に映り続ける像を眺めながら思考の内層に諦めを一つ、献花の様に添えていた。
故郷を捨ててここまで来てしまった手前、今更引き返すわけにもいくまいと思っていた。
少なくともこの列車が各駅に停車していた時までは、強く硬く己の内層に言い聞かせることがちゃんと出来ていたはずだった。
しかしルーフは今、確かに信じていた願望が脆く儚いものでしかなかったことを、やはり自発的に気付かされていた。
普通列車が終わり、今は確か快速か特急のどちらかに変更されたとアナウンスがあった、その音を聞いてルーフは眠りに落ちかけていた意識を取り戻していた。
ルーフ、と自らをそう名乗る少年は独り寂しく車窓の外、外側に流れる光景へ視線を移す。
淡い色合いの赤に着色された列車は、彼にとって見慣れた世界をすでに遠く離れ、見知らぬ街へとためらうことなく走り続けていた。
他人行儀に柔らかく体を包み込んでくれる座席に背中を沈め、顔を窓に向けたまま深く息を吐いて瞼を閉じる。
閉じられた暗闇の中、不明瞭な瞬きがまだ新鮮さを失っていない記憶をもう一度蘇らせようとしてくる。
実体の無い瞬間的な思い込み、瞬きの内に消え去ってしまう場景。
本来ならば塵のように何の感慨もなく吹き飛んでいく、そのはずの情報が今は忌々しいほどの執着力で少年の心を支配していた。
ぬめりのある温かさが手の平に、腕に顔面に付着する感覚。それらの液体が渇き色を失い、凝固して皮ふを引っ張る感覚。
全部が全部、まさしくありのままに鮮明に脳内で再構築することが出来る。
今この時点でも瞼の裏側の暗幕には、数日前に何の前触れもなく起こった、劇的すぎるイベントがずっとリピートしまくっている。
おかしいな可笑しいな、
俺は忘れっぽい奴じゃなかったか?
一週間前のドラマの展開すらまともに記憶できない程に、忘れっぽい奴じゃなかったか?
誰に返事を求めるでもなく、胸の内でふざけた自問自答を繰り広げる。
自分で自覚できてしまえるほどに、精神が危ないことになっている。
このまま、また眠ってしまえば今度は、今度こそは間違いなく悪夢を見てしまう。
そして目的地を乗り過ごしてしまう、それだけは避けなくてはならない。
冷や汗まで出てきた、ルーフは唇を閉じたまま歯を食い縛り目を見開く。
再び視界に映ったのは安全に走行を果たしている電車内部と、窓の外の曇り空。
眼球の身を落ち着かせたことによって鮮明になった視覚情報に、大した変化は現れてはいない。
変化が訪れたのは視野の外、膝の上に眠るルーフの妹の溶けてなくなりそうなほど幽かな寝息、それが少し乱れただけだった。
兄が足をずらしたので眠りが妨げられたのだ。
しかし彼女は睡眠を止めない。
「ふむむ………、」
と、か細く寝言を残して再び眠りの海に沈む。
「メイ」
ルーフは妹の名を呼んだ。
彼女の名前を呼びながら、少年はその琥珀のような色をした瞳で眠る彼女を見つめている。
彼女からの返事はない。
はてしなく異常で不快な状況下においても睡眠をとることのできる彼女の豪胆さに、少年は安心感を見出そうとする。
だがすぐに否定が思考に根を張ってくる。
こんな状況に彼女をひきつれたのは誰だ。どこか遠い場所にある視点が、ごくごく冷静な声色でルーフに問いかけてくる。
少年はその答えを知っていた、だからこそ答えを導くことがどうしても出来ない。
窓の外、風景は流れ続ける。目的地である、「灰笛」という名の町が確実に近付いていた。
電車が揺れている、震えはまだ止まりそうになかった。