羽虫除けを買わなくてはならない
白い靄がかかっている、雨雲からのぞく青空をルーフは見上げている。
いや、青空という表現方法はすでに現実へ正しさを証明できていない。
青色はすでに時間の経過をともなって、今日という時間軸から失われようとしていた。
「だいぶ、日が暮れてきたな」
上を向いたままで、ルーフが独り言のように呟いている。
午後を完熟させようとしている。
光と熱が、雨粒越しに少年の頬を染めていた。
意図を働かせる必要も無く、自然に生まれた影が少年の陰に暗さを落としている。
その小さな暗がりを目にしていた。
この植物園の主……、の模造品であるモアがもう少しだけ自分の事を話そうとしていた。
「あたしのこの体は、古城と同じような素材で作られているのよ」
「……ほう?」
天に座す空の色、気配と同じように、この植物園に置かれたガーデンテーブルの上の会話も熟す時が来たのだろうか。
ルーフはそう期待していた。
だが、少年の期待は確実なる正解を得たとは言い難かった。
「あたしと言う意識を現実に固定している、それがこの体だとして。本体であるアゲハ・モアの意識を現実に引きとめているのは、今あたしたちが立っているこのお城そのものなの」
そういいながら、モアは左の指で右の手首を強く圧迫していた。
指の力はとても強い。
少なくとも軽く皮膚をつまんでこの現実が夢でないことを証明するだとか、その様な普通の腕力ではなさそうだった。
「お、おい……」
ミシリ、ミシリ……ミリリ…。
そんな崩壊の音が耳に届いてきたような気がする。
ルーフは、少女の体が崩壊を起こすとを危惧していた。
そして、そんな憂いにかぎって現実に見事なまでの合致を来たしていた。
実際にはルーフが心配した内容そのまま、例えば大量の血液がガーデンテーブルを濡らすだとか、そこまでの事態は引き起こされなかった。
血も液体もなく、ただ皮膚と思わしき表面が破れただけにすぎなかった。
餅を千切るかのようにモアは自分の皮膚を、そしてそのまま右手首をポッキリと折ってみせていた。
「ほら、実物を見てもらうとよく分かると思うわ」
自分の肉体一つをもぎ取った、はずである……。
ルーフはそう考えようとして、しかして自分の方に投げ出された右手首に驚かずにはいられないでいた。
「ひぎゃッ?!」
右手を取り除いたモアよりも、ルーフがはるかにダメージの深刻そうな悲鳴をあげていた。
少年と少女のやりとりを見ていた、ハリと言う名前の魔法使いがモアのほうに眉根をひそめる表情を作ってみせていた。
「お嬢さん……、人前でいきなり右手首をちぎり採るのはお止めなさいって」
魔法使いからの叱責に、モアは適当にあしらうような素振りを作っている。
「だって、何事も実物を見せるのが一番説明しやすい方法じゃない」
少女が魔法使いに向けていかにもな言い訳をしている。
それだけのやりとりを見ていると、まるで普通の男女のささやかな言い争いにしか見えない。
少なくとも、ルーフは自分の手元に少女の千切られた右手首さえなければ、彼女らのやりとりを他人事としてしか受け止めなかったに違いない。
そうならなかった、そうしなかった。
できなかったのは、ルーフの手元にモアの右手首が一本、握りしめられているからだった。
どうして、自分は女の右手首を握りしめているのだろうか?
状況の不理解さに戸惑おうとした。
何故なら、そうするのが普通のはずだったからだ。
女の手首を握りしめて、悲鳴の一つや二つ、なにも問題など無いはずだった。
そう自己肯定能力をフルに活動させてみた所で、しかしてルーフは最初の驚愕以上の感想を言葉に出来ないでいた。
と言うのも、悲鳴をあげるよりも先により強い質量を以て、ルーフは少女の右手首を構成する物体に注目をしていたからであった。
「これは……どんな仕組みなんだ?」
観察眼を働かせられているのは、ちぎり採られた少女の手首に生々しさをなんら感じなかった。
たった一つの要素が、決定的なまでに状況へ冷静さを演出させていた。
指先にある、手首の重さを少しだけ持ち上げる。
河原に落ちているテニスボールほどの大きさがある小石を拾い上げたかのような、体が拒否するほどの重さは手首には感じられなかった。
実際の人間、普通の少女年齢のヒトが手首にどれだけの重さを有しているのか、ルーフは実際には知らなかった。
だが、頼りない空想を前程としても、モアの右手首は「普通」のそれよりも軽さがある、ような気がしていた。
さて、せっかく千切れた手首があるのである。
何を以てしてでも、まずは断面図を確認しなければ話は始まらない。
などと、どこか異様な気配を持つ好奇心に導かれるままに、ルーフは軽く持ち上げたそれを目の近くに移動させている。
目を凝らして、観察をする。
手首の断面図には、ルーフが見たことの無い体の内側の構造がよく見てとれた。
赤色は、全く存在していない。
それどころか、肉の内側にあるべき血液の気配も、何も無かった。
先ほどモアが自身の手で左手首を千切った時のように、少女の腕の内側には本来の人間が持つべき肉の組織が含まれていなかった。
代わりに存在しているのは白い石と、それに包まれている乳白色の骨組みだけだった。
白みの強い大理石に、少女年齢の人間の骨をインプットしたらこんな物が彫刻されるのではないだろうか。
そんな感じの、少女の余り柔らかくなさそうな中身を見つめている。
右の目、左の眼球で見た。
そうしていると、唐突に左側と額の中心に焼かれるような衝撃が走っていた。
「痛ッつ?!」
突然の衝撃に、ルーフは思わず体を大きく振動させている。
揺れ動く体が、手に持っていた手首をガーデンテーブルの上へ雑に放り投げてしまっていた。
ゴトリ、ゴロン。
硬質なる音色が机上に広がり、転がった手首が元の持ち主、つまりはモアのほうに転がっていった。
モアが不満げに赤い唇をツン、と尖らせていた。
「もう……、もうちょっと丁寧に扱ってほしいわあ」
「ああ、いや……その」
体の一部を雑に扱われた事に対して、持ち主は不満を主張している。
…………。
と、冷静に文章にしてみても、ルーフはこの状況にまるで理解を追いつかせられないでいる。
「すま、ない…………」
とりあえずの謝罪だけを用意していた。
少年からの謝罪に、モアは不承不承と言った様子で再び己の右手を少年の方に差し出している。
「驚くのは後で好きなだけ、すればいいから。今はとにかく、素材をちゃんと見てくれないかしら?」
「ええ……」
頼みごとをされた。
ルーフは客人としての礼節に則って、この植物園の主人の言うとおりにしようとした。
机の上に転がっている右手首を再び手に取り、指の中で断面図を観察してみる。
何故自分は、竜が眠る桜の樹の下で、女の手首をまじまじと観察しているのだろうか?
疑問が浮かんできたことを、ルーフは自分の意識に認めるより他は無かった。
だが、疑問符を直接言葉にすることはしなかった。
何故なら、それよりも気になる事項が少年の視神経に確認されていたからだった。
「光っている……?」
目に見た現象を、ルーフは言葉にしながら脳内で整理しようとしている。
眼球に見えている光、それはとても微弱なきらめきだった。
キラキラと水色に明滅する。
都市の夜に輝く星に似た光が少女の手首、白い骨の部分に組み込まれていた。
ルーフが、その藍色に変色してしまった右の目で光を視認した。
動作を表情から読み取った、モアが自身の手首について解説をしている。
「アゲハ・モアの複製体は脳神経、視神経、循環器系と……あとは少しの生殖機能。それしか再現できなかったのよ」
平らかな様子で、モアは自分の身体を構成している物質についてをルーフに話している。
話を聞いている。
ルーフはモアの言葉と共に視線を、その体を服の上から追いかけるように観察していた。
「重要な組織だけを残して、その他の体を構成するレシピは過去の大戦で焼けちゃって。だから、いまはこのように……──」
言いながら、モアはまだ残っている方の左手を空中にフラフラと漂わせている。
「必要最低限に生きていく部分だけを残して、後は魔力鉱物とかを掘りだした模造品で間に合わせているの」
モアは自分の事を説明しながら、しかしてあまりテンションを動かさにルーフの姿に意外そうな視線を向けている。
「あら、あらあら? なんだかあまり驚いていないわね」
ルーフのローテンションっぷりに、モアはどこかつまらなさそうな感情を青い瞳に滲ませている。
「あたしの婚約者なんか、この秘密を打ち明けた翌日から電話もtwitのアカウントも鍵をかけちゃったのに」
この世界におけるソーシャルネットワークサービスの一つ、の名称を唇に呟いている。
「え、ええ?!」
その辺りの話に進んだところで、ルーフはようやく彼女に対して大きく感情を揺り動かしていた。
「おまッ、お前、婚約者なんているんかいな?!」
「……そこにツッコんじゃうかんじ?」
予想外な方向からの追及に、モアは少年に対して呆れのようなものを見せつつあった。
ルーフとしても、感情の方向性について一応自覚のようなものを抱いてはいた。
「いや、その……こういうの、すでに一回見ているからな……」
沈黙を少しだけ含ませて、ルーフは記憶の中に確認することの出来る情報を少女に伝えていた。
「ああ、そう……エミルさんがねえ……」
モアは自身の兄、と言う関係性にあたる男の名前を口にしながら、その形の良い唇を微笑みで歪めている。
「先を越されてしまった、って感じね。不覚だわ」
一体何をそんなに悔しがる必要性があるのだろうか?
感情の詳細は分かりそうにない。
とりあえずは、ここにはいない兄である彼と、ルーフの目の前に存在している妹である彼女は、腕の構成物と言う共通項を持っていること。
それだけの事に気付かされていた。
ルーフは顔に近づいてきた羽虫、……のような何かを指で払いながらそんなことを想像している。
話はまだ続きそうだった。
だが、途中で邪魔が介入をしてきていた。
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