見えなくなった夜に月を垂直落下させよう
オーギに問われた、キンシの答えはごくごく簡単なものだった。
「怪物の方の、補食器官を回復。そして、そのあとに──」
キンシが口にしかけた言葉を、オーギは待ちきれないといった様子で速やかに引き継いでいた。
「やっこさんの唇を解放。そのあとにおれ達は殺す。この二つで充分だ」
まるでこの世界における自身の価値は、その二項に集約されているかのように。
オーギはある種の自信、清々しさを以てして怪物との戦いに挑もうとしていた。
さて、まずは敵の、相手の情報を集めることから始まる。
オーギが、とにかく最初に怪物のサイズ感について考えていた。
「それにしても、ずいぶんとデカいな……」
じっと観覧車を、その向こうに広げられている傷口の様なひずみ。
こじ開けられた空間からその肉をこぼしている怪物の姿を見て、オーギはまずもって思ったことを言葉にしている。
若い魔法使いである彼がそう表現しているとおり、怪物はかなりの大きさをその肉体に許していた。
自家用車の期待よりもはるかに大きい。
もしも口が自由に使えるとしたら、オーギ程の若干背の低い男性ならば五十人、……いや、もっと突き詰めれば百人はゆうに飲み込めるのではないか。
それ程に大きな体をしている。
故に、捕食器官を封じられてしまっている現在の姿が、どうしようもなく悲しげな雰囲気を魔法使いたちに想起させていた。
サイズ感を目測した所で、オーギは近くにいる後輩の魔法使いに軽く問いかけている。
「種類とか、種別とかは……見た感じで分かるか? なあ、キー坊よ」
愛称か通称、あるいは蔑称かもしれない、つまりはあだ名のようなもので名前を呼ばれた。
キンシという名前の、魔法使いの少女が少しだけ考える素振りを作ってみせている。
「そうですね……。見た感じの印象だとギルリアの仲間か、あるいはその系列に属す形状をしていると考えられますが……」
キンシは怪物を観察しながら、なにやら固有名詞じみた単語をブツブツと呟いている。
言葉を発しているなかで、キンシは怪物に両の目玉をそれぞれ固定させている。
見ている先、そこでは怪物がその全体をこの空間にさらけ出そうとしていた。
風体はやはり芋虫のそれとよく似ている。
頭部が小さく、動体にブクブクとした大量の肉をはらんでいる。
しかしながら怪物はあくまでも怪物でしかなく、決してこの世界における本物の幼虫と同様ということはありえなかった。
まず、なによりも怪物と芋虫のそれらが異なっているのは、怪物の方には大きなひれがたくさん付属されていることにあった。
丸っこく太い胴体、そこにはまるで古代からそのままの姿で生き残ったシーラカンスの様な怪しさを含んでいる。
背びれが二本、下腹の左右両面それぞれに団扇の様なひれを三枚ずつ。
後は尻尾、尾びれが悠々と空間を満たす湿り気たっぷりの空気を撫でていた。
怪物がいよいよ傷口という空間の隙間から、肉体を現実に排出させている。
その頃には、まちを行く人々もここでただ事ではない戦い事が繰り広げられることを察していた。
あるものは身を安全を確保するための手段、例えば逃げたり、例えば自前の保護術式を作動させたり。
また、あるものは興味と好奇心の傀儡になりながら、主に観覧車を目印にしてスマートフォンの記録機能を作動させたりしている。
オーディエンス(聴衆)たちの反応もそこそこに、魔法使いらはあくまでも自分の役割を現実に実行しようとしているにすぎなかった。
キンシが、怪物の姿を見続けていたキンシが、顎の向きを上にしたままで少し慌てたような声を発している。
「ああ、いけません、いけませんよ。このままだと、怪物の方がこの場所から逃げてしまいます」
怪物の動きは緩慢で、さながら晴れ間の浮雲の様な悠然ささえ感じさせる。
にもかかわらず、キンシは体の全体でまんべんなく焦燥感を露わにしていた。
「逃げる前に、なにか対策を講じなくては!」
慌てている魔法少女。
後輩である彼女の隣で、しかしながらオーギの方は冷静さをある程度まで保持していた。
「逃げるってことは、どうやら心は無事に目を閉じたままになっているようだな」
謎の言い回しを使いながら、オーギは急ぎ自身の右腕に左の指を這わせている。
手と手、腕と腕、皮膚のそれぞれを触れ合せる。
温度と冷たさが通過する、空気が動いた後にオーギの手元に魔法の薬箱が発現していた。
道具を用意しながら、オーギがキンシに提案をしている。
「お前も早いところ道具、準備せえよ」
「あ、はい……はい!」
先輩魔法使いにうながされた。
キンシは気を取り直すようにして、急ぎ自分の左腕を包んでいた長袖を右の指で素早くまくっている。
パーカーのそれと類似した織り方、布の縫い方がなされている。
袖の下には少女の白い柔肌……、ではなく、「呪い」によって焼かれた後の火傷の痕が広々と、深々と刻みつけられていた。
空気にさらした瞬間、そこはまるで黒水晶のように深い色合いを持っていた。
だが皮膚が外界の冷たさに触れる、あるいは肉体が発する興奮の熱に震える。
その他いくつかの変化に合わせるようにして、呪いの痕はその色彩や、あるいは質感さえも次々と変化させ続けていた。
「おいでください、祈りましょう、”オーデュボン”」
歌うように、あるいは幼い子供に絵本を読み聞かせるように。
普通とは異なるリズムと音程で、キンシはいずこかの男性名のような単語を口にしている。
どうやらそれが、キンシという名前の魔法少女にとっての作動ルーティンの一つであるらしい。
と、それが判別できたのは、唄った言葉の後に少女の手元へ道具が発現させられていたからであった。
冷たさと熱の触れ合い、空気が流れてかすかな光が生まれる。
変化の後に、キンシの手元には槍のような武器が握りしめられていた。
あまり長さのない槍を持つ。
キンシは腕の中でそのひと振りをクルリ、クルリと回転させる。
回転は滑らかだった。
重力を感じさせない軽さはその道具とキンシ本人が、ある程度の長い付き合いであることを言葉を必要とせずに表現しているようだった。
やがて槍の穂先を怪物の方に固定した、キンシが再び先輩魔法使いに問いを投げかけている。
「それで、具体的にはどのような方法でかの方のお口を開放してさしあげましょうか?」
問いかけている内容は最初のそれと何ら変わってなどいない。
ただ、魔法使いらの方がより強い攻撃意識を怪物に抱き始めている。というのが、現時点における場面の特徴であった。
若い魔法使いたちが方法を考えあぐねている。
その様子を前に見つめながら、そろりと声を発していたのはメイと言う名前の幼い魔女であった。
「なにか、怪物さんのお口がこっちにむいてくれるような、興味をいだけるものをよういできるといいかもしれないのだけれど」
メイにしてみれば、当たり障りのない凡庸かつ世間並みな希望論を呟いたにすぎなかった。
のだが、しかしながらどうやら魔法使いにとっては、魔女の意見はある種のひらめき、エウレカをもたらす要素を有していたらしかった。
「そうです、その通りなのです……!」
まるで重大な宣告、これから自らの故郷を全て根絶やしにしてしまう恐ろしい争いの火ぶたを切られたかのような。
そんな、かなり大げさすぎる深刻さの中で、キンシはメイが提案した内容を何度も口の中で繰り返している。
「怪物さんはどうしてここに現れたのでしょう? 理由があるはずです、ですが理解できないこと、僕らには人間として関係の無い事象。だからこそ、事前の行動を読み取る必要性があります」
文法、言葉の順番をかなり怪しくしている。
メイは思わずキンシに声をかけそうになって、しかしその体を別の動きに制止させられている。
「トゥ」
メイは自分の身体をやんわり通させている、青年の姿を見上げていた。
幼い魔女が、その紅色をした瞳で見つめている。
目線の先では青年が佇んでいる。
トゥーイといなの魔法使いがふるふると、静かに首を振って「否定」の意を伝えるための素振りを作ってみせていた。
なにを否定されているのか?
状況は相変わらず意味不明そのものでありながら、しかしてメイは不思議となんの障害もなしに青年の意向を限りなく正しく読み取っていた。
しばらく黙らせた方がいい、自由にさせた方が後々の滑らかさにつながる、可能性がなきにしもあらず。
そんな風にして、やがてキンシはひとつの仮説を頭の中に結び付けていた。
「魔法陣を使いましょう」
考えをまとめた。
次にキンシはこのような提案を、自分の周辺にいる人々へと主張していた。
「魔法陣を?」
言葉の意味を理解できないで、メイが首を傾げながら魔法少女からの提案について考えようとしている。
魔女が戸惑っている。
すぐ近くで、オーギが半分ほど合点がいったように、静かに声を発していた。
「やっこさんは魔法陣からの反応につられて、ここにたどり着いたと、そう言いたいのか?」
後輩魔法使いの伝えんとしている内容を、オーギは予想の中で大まかにまとめている。
その後で、彼はまず少女の提案に勘がられる不備についての追及をしていた。
「だが、用意するのはいいとして、生半可な規模のそれじゃあ相手側も気付きそうにないだろ」
魔法陣を使用する旨については同意を示す。
しかしてオーギは作戦の実行にいたれる可能区域についての疑問、その解決方法をキンシに求めていた。
オーギの提案するところは、キンシにも充分に理解できる範疇であった。
個人で制作できる魔法陣ごときでは、あの巨大で大量な肉を帯びた怪物を満足に誘導できる効力は、よほどのことでもない限りは期待できそうにない。
であれば、もっと巨大な魔法陣を使って誘導してしまえばいい。
そう考えている。
思考を抱いた時点で、キンシの目線は次なる作戦の事項へと移行しようとしていた。
「ならば、あれを使ってしまいましょう」
そっと指をさしている。
薄く伸びた爪の先端が指し示している、そこには観覧車が緩やかな回転を継続させていた。




