表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

54/1412

触れるのが少しだけ怖かった

 植物としての特徴をその身に宿す斑入りの男性はよろりよろりと力なく、しかし責任感に体を満たして立ち上がる。


 今の今までずっと、カウンターの後ろで震えながら事の終わりを願い続けていた彼の表情は、この異常事態にすっかり興奮しきっているという感じである。

 

 しかしどこかわずかに諦めに似ている、こなれの雰囲気すら漂わせていた。


 それだけにこの町、灰笛の住民はそれの良し悪しに関係なく、彼方と言う名の怪物がもたらす影響に慣れきってしまってもいるのであった。


 とにかくそんな危険たっぷりの町に店を構えているヒエオラ店長殿は、自分の宝でもある店を破壊された傷もそのままに気丈にも店員としてお客様の対応を行おうとしていた。


「ちびっ子さんたち、ご無事かあー?」


 フラつき咳き込みつつも懸命に近付こうとしてくる店長殿に、キンシは彼の無事を確認できたことによる安心を込めた笑みをうかべ、乾き気味の唇で話しかける。


「ヒエオラさん、僕たちはとりあえず無事です」


 ヒエオラは未だ空気中を蹂躙する砂埃に辟易しながら、客の無事をとりあえず噛みしめる。


「そうかい、そうかい。それは何より、良かったよ」


「ヒエオラさんは? どこもお怪我はありませんか」


「ナイナイ、何にも無いよ。ずっと隠れさせてもらったからね」


 キンシから向けられる心配もそこそこに、店長は床に寝かされている幼女のことを気に掛ける。


「自分のことはともかく、その女の子は大丈夫かね。灰笛に着て早々によりにもよって彼方に喰われるとは災難だったねえ。あ、そうだ」


 店長がパッと思いついて仕事着の懐をまさぐる。


「よかったら、これ使って。君たち体ベットベトだよ」


 差し出されたのは数枚のウェットティッシュ、飲食店などによく配備されているパック詰めの濡れ布巾だった。


「キンシ君はともかく、メイちゃんみたいな可愛い子がそんな汚い状態でいるのは忍びないからね」


 それは聞き様によってはかなり失礼なのでは、と死体の上のトゥーイは気がかりになったが、


「そうですね、店長殿の言うとおりです」


 どうやら言われた本人であるキンシは全く気にしていないようなので、聞き流すことにしておいた。


 はい、と手渡された濡れ布巾をキンシは濡れそぼつ手袋で受け取る。

 

 急いでビニールの皮をめくろうとしたが上手くできない。

 一瞬迷いながら素早く右手の手袋を外し、体液の浸食被害が少ない素手で濡れ布巾を取りだした。


 清潔に湿り気のある柔らかい紙で、キンシはまるで繊細な造りの硝子細工を取り扱うように、メイの体に触れた。


  さっきまで乱暴に乱雑に狂暴に、怪物の肉体を弄んでいたその指。

 それとはまるで別物のように、キンシの指は恐れを多くはらんで幼女の体を撫でつけた。


 体液を吸い込んで変色した濡れ布巾をあやつる腕、怪物の爪を軽々と打ち払える剛腕も今は生まれたての子猫のようにブルブルと震えている。


 そうなるほどに、そうなってしまうほどにこの魔法使いは人に触れることへの慣れが圧倒的に欠落していた。

 

 怪物の肉をかき分けることに慣れても、こればかりはいつまでも緊張してしまう。

 

 戦いを終えた達成感とそこから由来する気の緩みの中で、魔法使いはついつい意味のない自嘲をしそうになる。


「う、ううっ、」


 キンシによる、ぎこちなさがふんだんに盛り込まれた洗浄作業がメイの顔面付近にまで進むと、まだまだ意識を完全に取り戻せていない彼女が反射らしき反応をあらわにしてきた。


「う、けほっ! けほっ!」


 連続した小さな咳が、彼女の気管に侵出していた不躾なる体液を排除しようと懸命に努力した。


「うわ、大丈夫ですか。くすぐったかったですか?」


 キンシは若干大げさが過ぎるほどに驚き、慌てて拭き取りの指を一時停止した。


「あ、あの……げほ、へいきで、ごほ、ごほっ!」


 自分でも戸惑うほどに呼吸が上手くできず、メイは目尻には涙の粒が真珠のように生まれかけていた。


「あの、あの………! ごほん!」


 それでも彼女には、呼吸をそっちのけにしても気になる心配事があったのだが。


「落ち着いてください、とりあえず体の力を抜いて……」


 しかしキンシはそんな彼女の気掛かりなど全く気付く様子もなく、今はとにかく目の前の幼女のことしか考えられなかった。


「言葉が言えるなら、とりあえず無事なようですね。よかった」


 地面に膝をつけたままの姿勢で、夕焼け色のタイツを瓦礫に擦りながらキンシはメイの口元に体を近付ける。


「えーっと……。と、とにかく深呼吸、ゆっくり息を吸って吐いてをしてください」


 そして自分が今のところ持ちうる、ごくごく簡単な呼吸安定法を出来得る限りの優しさを込めた声音で彼女に提案した。


 涙と正体不明の粘液に視界が霞むメイは、ぼんやりとする脳でキンシの声を聞く。

 その声に正直に従い、胸を慎重に上下させて酸素を取り戻すことに専念した。


 しばしの間奪われ忘却していた肺呼吸の感覚、絶えず温度を変化させる湿り気と雑味たっぷりの空気。

 

 その味をメイは生まれたての赤ん坊のようにじっくりと懸命に味わった。


 生きている、嗚呼生きている。

 私は助かったんだわ。


 彼女はそこでようやく、自分の体が現実に残されていることを実感できるようになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ