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努力だけではどうにもならなかったのです

 その時にはもう、遅いと自覚していた。

 先に言葉を用意するべきであった。

 瞬間を通り過ぎた、後の時間。そのほんのひと時に、ルーフは刹那の後悔を抱いていた。


 悔やんでいる、それは注意の言葉を形にすることが出来なかったこと。

 本来の目的、つまりはルーフがこの古城という名の魔術師の本拠地を見学するという。改めて考えてみても、かなりどうでもいい用事でしかない。


 とはいえ、たとえ用事の真剣度がゴマ粒よりも少ないものだとしても、自分の予定を邪魔されて良い気分でいられるほどに、ルーフはお人よしを持ち合せてなどいなかった。


 だからこそ、ルーフという名前の少年はこの二人の女と男、モアとハリに文句の一つや二つ、あるいはそれ以上の何かを叩き付けようとしていた。


 のだが、しかしながら少年がひとりで期待していた展開は、結局のところこの場所には訪れなかった。


 なぜなら、ルーフは黙っていたから。

 黙って、少年は彼らの手元、スケッチブック、そこに描かれている絵に注目を捧げてしまっていたからであった。


 ジッと見つめている。

 ここまで前置きとして、あとはもう語るべき事など限られている。


 理由は至極単純だった。

 彼らの絵が、それはもうとても、とても素晴らしいものだったからだ。


 油断していたと言えば、それはそれでその通りだったのかもしれない。

 何に対してか、それは彼らの描いている絵のレベルについて。もっとこう……趣味の程度をこえない、安心感と親しみのある、いわば自由帳のような気楽さがあるものだと、そう思い込んでいた。


 信じようとしていた、それは期待していたと言っても差し支えは無いだろう。


 安心しようとしていた。地面に咲いている雑草の花を、名前も種別も調べようともしないままで、ただ花弁という分かりやすい結果だけを手頃に愛でたかった。


 なんて……この言い方は少し詩的すぎている。

 三文恋愛小説のような一説を奥歯で噛みしめながら、甘味材の入った薬のような味のするそれをどうにかして喉の奥に流しこもうとしている。


 卑下の心を得られなかった。

 空虚にルーフが冬枯れの寒さを覚えている。


 ルーフのすぐ近く、少年の琥珀色をした瞳が見つめ続けている。

 そこでは、モアとハリが彼の悶々(もんもん)など露知らずと言った様子で、スケッチブックの中身を完成へと導こうとしていた。


 着々と描き続ける。

 黙々と描き続ける。


 淡々と描き続ける。

 静々と、描き続けている。


 ここまで感動だけを頭の中で回転させ続けていた。

 時刻に計ったとして、どれくらい経過しただろうか。せいぜい一分も経過していなかったように思われる。


 だが長短など関係なしに、とにもかくにも、ルーフは彼らの描いた絵に感動させられてしまっていた。

 その事実は、もう覆しようのない現実でしかなかったのである。


 そのまま、しばらくの間ジッと見続けていた。

 やがて、少年の琥珀色をした瞳とモアの明るい青色の虹彩が軽くぶつかり合った。


「ああ、そうだったわね」


 モアは何か大事なことを思い出したかのようにしている。

 形の良い唇に微笑みをたたえつつ、少女は右側の腕に持っていた物をルーフに手渡していた。


「ほら、あなたの紙よ」


 渡す、という言い方には少し語弊がある。

 モアが左手でルーフに差し出しているそれは、それまで彼女が一時的に預かっていたルーフのスケッチブックであった。


 ほんの数日ほど前に、道の真ん中でプレゼントをした。

 あの時とほぼ変わらない、ほとんど同じ動作でモアは再び一冊をルーフに、今度は返却をしていた。


「はい」


「は……あ、どうも…………」


 払いのける気力もなにも、理由すらも存在していない。

 ただ形容しがたい感情だけが体の内側を満たしている。


 ぬるくなった緑茶のような温度を皮膚の内側に。

 ルーフは為すがまま、されるがままにそれを受け取っていた。


 紙の重さが少年の腕に、肉と骨に重力を追加している。


 そうして、そのままこの場から離れていれば良かったものを。

 残念ながら、ルーフは咄嗟にそこから逃げ出すことが出来ないでいた。


 足が不自由であることは、この場合にはあまり関係がなかった。

 たとえ今のルーフに左右両揃いの、健康で元気な足が残っていたとしても、おそらく少年は動きを止めたままだったはずだ。


 他でもない、ルーフ自身がそう信じていた。


 確信を抱いている。

 ルーフの右手、指先に冷たく柔らかいものがふいに触れていた。


 それは少女の、モアの指先だった。

 彼女の白い指がルーフのそれに絡みつくようにしている。


 蔦植物のように絡み合う。

 指が、肌が触れ合っていながら、不思議と密着の隙間に熱や汗が籠ることはあまりなかった。


 水道水のようにひんやりとした指。

 モアはルーフの手に触れたままで、その体を下に、下に誘導しようとしているらしかった。


「ねえ? ルーフ君も一緒にお絵かきしましょうよ」


 お誘いの言葉であることは明白であった。

 しかし、少女の選ぶ言葉のチョイスがどうにも、自身の幼稚性を引きずり上げられそうな感覚がある。


 ルーフが、ハッキリとした嫌悪とまではいかずとも、そこはかとなく拒否の意を滲ませている。

 だが、やはりモアは少年の都合を柔らかく、あくまでも優しげな態度の中で、強く否定していた。



 少女の指先に誘惑された。

 ……とだけは思いたくないが、しかしながら全くの嘘とも言えない。


 認めたくない事実。

 大きすぎるそれを噛み切ることもできないままで、ルーフは曖昧な心理的状況の中で「お絵かき」、もといスケッチ大会への参加を余儀なくされていた。


 さて、行動に移すとして、まずもって具体的な問題点が早速生じていた。


「あ、でも俺何も……ペンとか絵の具とか持ってねえし…………」


 自然と声色が明るくなってしまっている。

 まるでこの些細な事実こそが、この奇妙奇天烈で摩訶不思議な状況からの脱出口であるかのように、そう信じきっていた。


 しかし期待はすぐに破られる、お決まり。


「ああ、ボクのを貸してさしあげ……いえ、何だったら一本ぐらいさしあげますよ」


 少年の態度や声色。

 そこにどの様な感情を予想したのか、それに関してはハリにしかあずかり知らぬことであった。


 何にしても、ルーフの抱いた希望はハリの親切心によって跡形もなく砕かれていた。


 というわけで、再びスケッチ大会に参戦である。


「……」短く溜め息を吐こうとした。


「はあ…………」


 だが実際に漏出した空気はルーフ自身が想定していた以上に深く、説明し難い濃度を含ませていた。


 絵を描けと言われた。

 他人からそれを望まれた、分かりやすい言葉で求められた経験などルーフには皆無であった。


 もしかすると生まれて初めてかもしれない。

 そう考えそうになった所で、いや違う、とルーフはすぐに考えを否定している。


 ただ一人、妹だけは自分の描く絵を喜んでくれていた。


 メイ、ルーフは妹の名を頭の中で意識する。


 彼女のこと、想像は名前だけにとどまらず、あっという間にルーフは妹の体、肢体、肉体を己が思考に異様なまでにハッキリと思い浮かべている。


 それは瞬間的な出来事で、理性と羞恥心が真面目くさった削除を実行していた。

 その時点では、すでにイメージ画像は脳のメモリの大部分を侵食し終っていた。


 思い出してしまった、ルーフは己の浅ましい欲望に後悔を抱こうとする。


 悔いて恥じる。

 感情を正しく執行した、そのつもりだった。

 だが、納得と同時にルーフは短絡的な欲望に、どこか自己肯定のような快感を覚えている、そのことを知っていた。


 妹のことを考えて、悦び興奮して、そうして生まれた熱に汚らわしさを覚える。

 矛盾している、だがその中間点でルーフはただひたすらに妹の記憶に甘さを覚えていた。


 舌の表面に、花の蜜のような粘度が生じたような気がした。

 もちろん、そんなもの実際には存在していない。


 錯覚、偽物の味。

 だが甘さは充分、あるいは基準を遥かに超える勢いでルーフに意味を与えていた。


 それはすなわち原動力で、ヤケクソとも言える。

 ルーフはペンを握りしめる。


 一本のペン。

 2B鉛筆、とくに画材に何のこだわりもないルーフにとっては、その一本さえあれば十分であった。


 紙の上に黒色を走らせる。


 しばし時間経過。

 今度は間違いなく、まぎれもなくそれなりの実体と重さを持った時間の数が通り過ぎていた。


 というのも、ハリが腕時計を見て「ああ、いけない!」と、そう叫んでいたからであった。


 バッと立ち上がっている。

 それまで小さく縮こまっていた影が、ほとんどの予備動作もなく縦に伸びている。


 動作に驚いた、ルーフが思わず肩をビクリと振動させている。

 そんな少年の近くで、モアが立ち上がった魔法使いに問いを投げかけている。


「あら、どうしたのハリ?」


 のんびりと穏やかそうな口調を上に、立ち上がっているハリの顔に向けている。


 少女の態度と相反するかのようにして、ハリは自らの失態を急ぎ自己申告している。


「こんな所でのんびりしている場合じゃなかったんですよ。ボクらは、ルーフ君は古城の社会見学の途中だったんですよ!」


「今更かよ」


 ツッコミを入れたのはルーフの声であった。

 少年はスケッチブックから目を離さないで、指を動かしたままで魔法使いに追加の砲撃を行っている。


「もう……、昼時をこえたんじゃないか? 腹減ってきたわ」


 雑な返事だけを用意している。

 少年の目線と意識は紙の表面、そこにこしらえた簡単なイラストレーションの仕上げに大部分を捧げている。


「結局、社会見学の何もできなかったな」


「ええ、ですが仕方がありません……」


 皮肉を言ったつもりだった。

 だが少年の攻撃(オフェンス)は、魔法使いにあまり効力を発揮してはいなかった。


「こうなったら、ここで社会見学は終わりにしてしまいましょう」


 今日という一日の、本来の目的を破棄する。

 魔法使いからの一方的な宣言、だがルーフはそれに対して特に印象的な感情を抱くことをしなかった。


 それよりかは、ルーフの方でも紙の上の絵をどうにか、どうにかして自分の納得が行き届くまでには形にしたい。

 そう言った、自己中心的な欲望がルーフの意識を強く支配している。


 支配力、占領下の多さを脳裏に感じながら、重さをやり過ごしつつルーフは紙から目線を話し、ペンを一旦置いていた。

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