将来への不安が心筋をじっくり凍らせる
ルーフに与えられた朝食は、それはもうとても素敵で、素敵なほどには普通の朝食であった。
味噌汁と白飯、主菜にグリルに仕込んでおいた白身魚の塩焼き。
焦げ目のついた皮に脂が滲み、空間に満たされた光をチラチラと反射している。
あとは陶器の小鉢に盛られた、野菜の漬物がちょうど食卓の中心に据え置かれている。
食事の量は、どれもが簡単に食べ終えられそうな量に抑えてある。
この家庭では、朝の食事は簡単に済ますのが主流らしいと、ルーフは視覚と嗅覚でひとりで想像していた。
少年が観察をしている、そのすぐ近くでエミルとミナモが何事かを簡単に相談しあっていた。
「スペース足りますか?」
エミルがミナモに、敬語で質問をしている。
「うちらがちょっと詰めれば余裕やろ」
夫からの問いかけに、ミナモは気軽な様子で答えている。
やりとりの後で、若い夫婦は少しの動作と工夫の後に一人分のスペースを机の上に作成していた。
一人分、つまりはルーフひとり、車椅子でも余裕を持って食事が行える程度のスペースが彼にあてがわれる。
そうして、家の中にいる彼らは朝食の席に無事着くことが出来たのであった。
「ってことは、今日からいきなりやるん?」
若干柔らかめに炊かれた米粒を噛んで、飲み込んでから、ミナモは驚いたような声を発していた。
「それはちょっと、気ぃ早すぎるんとちゃう? よお分からんけど」
半分ほど空にした、まだもう半分だけ残っている茶碗に箸をいれながら、ミナモは不安そうなセリフを口にしている。
箸が白く柔らかい飯を掴み、かすかなひと塊が彼女の口の中におさめられる。
自然な動作の途中に、ミナモはルーフに向けて窺うかのような視線をチラリと向けていた。
視線と視線がほんの少しの間だけ繋がる。
感覚を意識した、途端にルーフは慌てて逃れるように目線を下に落としていた。
目を逸らした、その先ではいくらか量の減った、ぬるくなった味噌汁の水面が揺れてみえた。
ミナモが心配した内容に、返事をしたのはエミルの声であった。
「そうは言っても、このまま飼い殺しにするのは可哀想って話だ」
エミルはどこか他人事のように話していながら、その指先は焼き魚の欠片を箸で掴みとろうとしている。
焼きたてのまだ時間が経過していない焼き魚は柔らかく、白く繊細な肉の隙間には濃厚な潮の香りを含んだ脂が染みわたっている。
箸で形をほぐす。
いとも容易く分解される魚肉は、春に生まれたばかりの新緑と同じ輝きを想起させる。
……いや、食べ物に、生き物の死によって作られるものに、そのような感想を抱くのは相応しくないか。
ルーフはひとりで想像に否定を加えている。
若干ぼんやりとしたままの少年を傍目に、エミルは彼がこれから対面するであろう出来事を簡素に予想していた。
「見た目こそ大人しげで、人畜無害そうにしているが、こう見えても彼は「怪獣」に変身する可能性……というか、すでに一回その段階に陥ったことがあるんだ」
エミルが少年についてのあらましを説明している。
「あら、そうなの」
内容に対してミナモが驚き、意外そうな視線を少年に、ルーフの座る場所に向けていた。
「…………?」
彼らが話している内容は自分の、ルーフを中心としたものである。それ位のことならば、少年であっても理解することが出来た。
しかし重要なのはそこではなかった。
抱いた違和感に導かれるままに、ルーフはすぐさま質問文を口先に用意している。
「その、怪獣ってなんだ、ですか?」
言った後で、しかしながらルーフはこの問いが誰を対象にしているのか、それを決めていなかったことに気付かされている。
少年の問いを聞いた、若い夫婦はほんの一時の間だけ目線を交わす。
ミナモは、戸惑っているようであった。
聞かれた内容に対して、答えることは容易である。
だが、安易に真実を伝えても良いものなのか、それについて迷っている。そんな感じの素振りであった。
答えにくいこと、積極的に質疑応答すべき事柄ではないこと。
ルーフは彼女の様子にそれだけの情報を、しかして充分に意味のある要素を把握していた。
このまま、沈黙で場面を押し流したとしても、おそらくルーフはそれなりに納得できた。
そのはずだと、少なくとも少年自身はそう信じようとしていた。
期待と言っても差し支えは無い。となれば、やはりそこは安直に用意できる裏切りがあった。
「怪物のようなものだな」
そんな風に形容しているのは、エミルであった。
彼は焼き魚の最後の欠片を口に含みつつ、己の食膳を空にしながらルーフに、ルーフ自身についての説明を行っている。
「怪物のようなもの」
彼が発した言葉を耳に、ルーフは単語の意味を頭の中に滑らせる。
一陣の風にあおられる落ち葉のように、事象を意味する情報が少年の意識を軽く撫でていた。
考えた後に、ルーフは想像したことを言葉に発する。
「それってつまり、人間を食べる人外に俺はなった。ってことで、いいんだよな?」
出来る限り平静を装うとした。
出来ることなら他人事のような様相を演出したかった。
理由は深く考えるまでもなく、ルーフは己が未知なる物体へと成り果てていた、その事実をまだ受け止めきれていなかった。
少年が考えた予想に、エミルは考えに耽るような素振りを見せていた。
「ふむ、それとこれでは少しばかり話が違ってくるな」
そうして、エミルはアバウトな言い回しを使いながらルーフの想像を否定していた。
この場合に使われる”こそあど”の対象が、ルーフ自身と、そして怪物を対象にしていること。
ルーフはそれだけを意識の内に認めながら、指の動きを止めたままで男の声に耳をかたむけ続けている。
相手が大人しく聞いている。
少年の動作を確認した、エミルは引き続き説明を実行した。
「怪物と”怪獣”は、生態こそ共通項を多くしてはいるが、しかしその性質は根本的に異なっているんだ」
「と、言うと?」
指の動きを止めている、ルーフが深い青色の瞳をした男に質問を重ねる。
少年の問いを聞いた、エミルは彼の琥珀色な目に向けて。この世界にある一つの事象についてを教えていた。
「難しく説明すると、それこそ博士論文並みの長さと密度になるが、それでもいいか?」
エミルが確認をする、ルーフは少し考えて、
「いや、それはちょっと……………」
長話に付き合い切れるほどの気力が残されていない、自身の渇きに根拠を抱いていた。
「じゃあ、簡単な方で」
少年の提案を受け入れた。エミルは茶碗に残った米粒を丁寧に摘み上げながら、怪獣と怪物の違いを話した。
「出身地の違いだよ。この世界とは違う、異なる世界で生まれたのが怪物。そんでもって、そうじゃないのが怪獣になる」
予想していた以上にざっくばらんとした内容に、ルーフは少なからず動揺のようなものを覚えていた。
だが、それは全くの意味不明とは少しばかり様子を異ならせていた。
「この世界、おれらが暮らしているこの場所で主に人間が魔力を暴走させた場合に、怪物と同様の性質を発症させる場合がある。その症例を、ひとくくりに怪獣と呼んできたんだ」
つまりは、呼びかただけの問題なのだろうか。
ルーフは手頃に納得を用意しようとした。
だが、それは上手くいかなかった。
違和感は小さいながらも、まるで魚の小骨のように肉の柔らかい内側をチクリチクリと刺突している。
痛い、と思った。
感覚は錯覚だと、ルーフはそう思い込もうとした。
多分、おそらく、焼き魚の肉の隙間に隠れていた小骨でも刺さったのだろう。
そうに違いない、そう思い込むことにしていた。
ほとんど手も付けていない魚の焦げ目、暗い色を見下ろしながら、ルーフは独りで勝手に想像を作っている。
「あー……、まあ、あれだ」
少年の視線を追いかけることもせずに、エミルは食事の最後の一欠けら、米粒の全てを己の中身に取り込み終えていた。
「ちょうどその辺の事情も込みで、今日あたりうってつけの仕事がウチに舞い込んできているんだ」
朝食を食べ終えながら、エミルはまるで都合の良いことが起きたかのように、明るめの声音を舌の上に用意している。
「それって…………?」
と、ルーフが問いかけようとした。
だがそれはエミルの、
「ごちそうさまでした」
食事が終了した声に軽々と押し流されていた。
祈りをささげるかのようにして、手のひらをパン、と軽快に合わせている。
そして、エミルは食卓からすっくと立ち上がり、迷いもない動作で手早く己の食器を片し始めている。
「そういう訳だから、あんまりのんびりしていると遅刻しちまうんで、悪いんだ少し急いでくれないか?」
どういう訳なのだろう。
疑問が解消した所で謎が謎を呼ぶ、ミステリー小説の文字稼ぎのような状態にルーフはただ混乱しきっている。
そんな彼を置いてけぼりにして、エミルは自然な足取りのまま、食器を流しに運んでいた。
残された、少年にミナモが申し訳なさそうな目線を送っている。
「ご飯、入らんかったら無理して食べんでもええよ」
「…………」
返事をすることはしなかった。
かといって、食事もそれ以上進む気もしなかった。
ただ、あと少しだけ残された、何もしない時間だけをルーフは味の無くなったガムのように噛みしめていた。
さて、家の外である。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、ルーフはエミルに三度の質問をしている。
「時間、大丈夫なんか?」
気軽に問いかけている、それにエミルはすぐに答えていた。
「その辺はご心配には及ばねえよ、ちゃんと調整しているからな」
ここで彼が言う調整とは、おそらくルーフの歩行速度についての問題なのだろう。
自宅にいたときは散々急かす素振りを見せていたというのに。
ルーフはエミルに一杯食わされていた。だがその事実よりも、茶碗の一杯も食事を摂れなかった体が、重しのように重力に沈み込んでいる感覚に戸惑いを覚えていた。
腹部の内側を何者かの指によって捩じられているかのような。
この感覚は、胃酸が大量に作られ過ぎている症状であると、ルーフはすでに知っていた。
朝食をきちんと取らなかったことが原因だろうか。
ルーフはまず最初にそう考えた。
だが、そうでないと、またしても違和感が少年の思考を圧迫していた。
骨のことを考えようとしたが、しかしそんな言い逃れはもう通用しなかった。
むしろ、最初からそんなものは無かったと、今更になってルーフは現実を直視しようとしてさえいた。
食べ物に食欲が湧かなかった。
その理由を考えようとする。




