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学んだことが人生に捨てられる

 余分なことでも考えていれば、別の余分さをオートマティックに削除することが出来るのではないか。

 ルーフはそう期待していた。


 だが、少年の期待は実現しそうになかった。

 少なくとも、この短い廊下を車椅子で通過する。障害もクソも何もない、短く安全な通路を通り過ぎるまでに、望む結果が得られるとは到底思えそうになかった。


 それに、どのみち寝起きの考え事がいつまでも継続するかと言えば、それもまた可能性の低い状態とも言える。


 事実、廊下を渡り終えてリビングにでようとした、ルーフの体は早くも別の事象に注目をしようとしていた。


「…………? この匂いは」


 ルーフの鼻腔がひくひくと反応をしている。

 匂いにつられるようにして、ルーフは目線をリビングの向こう側、キッチンがある所へと移している。


 そこではガスコンロに青い火が灯されている。

 その上では金属製の鍋がぐらぐらと煮立っている。


 湯気が立ちのぼる、そこに調味料を投入しているのはミナモの腕であった。


 お玉にすくった、濃い茶色をした豆味噌が熱せられただし汁に融解される。

 途端に、鼻孔を刺激する香りに彩りのような気配が増したように思われた。


 ミナモはお玉と菜箸を慣れた手つきで使いながら、聴覚器官は後方に出現した少年の気配を感じ取っていた。


 彼女の、タヌキらしく丸みを帯びた聴覚器官がこっちを、ルーフの方を向いている。


「あら、おはようさん」


「…………おはよう、ございます」


 ルーフが車輪を回しながら、ゆっくりとミナモの後ろ姿に少しだけ近付く。


 ミナモは調理器具を持ったままで、首を後ろに振り向かせた。


「ご飯先に作ったら、あとで起こしにいこ思っとったんやけど。ずいぶんとお早いお目覚めやね」


「はあ…………、すいません」


「いやあ、謝らんでもええのに」


 ミナモは穏やかそうに笑いながら、目線を再び鍋のなか、調理中の味噌汁のなかへと視線を戻している。


「部屋どうやった? 散らかってて、寝心地わるかったかもしれんけど」


 ミナモは申し訳なさそうにしながら、豆味噌を溶かした汁をゆっくりとかき混ぜている。

 彼女の言葉に、ルーフはすぐに否定文を用意することが出来なかった。


「えっと、そんなことは…………無かった、です」


 本当のことではない、どちらかと言えば嘘になる。

 ルーフが発した言葉に、ミナモがどの様な感情を見出したかは少年のあずかり知らぬことであった。


 ミナモはガスコンロの火を止めた後に、少しの話をする。


「ほんとにね、もっとちゃんと片付けなきゃいけないって、分かってはいるんだけど。でも、なかなか余裕が持てなくてね」


 言い訳をしようとしているのか。

 そう考えそうになった所で、ルーフはすぐさま自分の思考を否定している。


「忙しそう、ですもんね」


 そして、思いついた予想を確かめるように、アバウトさを意識しながら彼女に返事をしている。


「夫婦二人で働いて、しかも新婚で。本当なら、もっとじっくりゆっくりしたいところでしょうに」


 なるべく本質を、つまりは自分がどうしてここに居るのか、これからどうなるかについてのこと。

 そういった要素を避けようとした。


 だが、そうした結果余分に、余計に個人の事情に踏み入った話に進んでしまいそうになっていた。


 ルーフが後悔しそうになっている。

 そこに、ミナモの声が重なってきた。


「うふふ、ふへへっ」


 まず笑い声が、ミナモは何か珍奇なものを見たかのような、そんな笑みを唇にこぼしている。

 そして、笑みはやがて軽い呆れの気配を漂わせていた。


「なあにー? ルーフ君って、若いのにお年寄りみたいな心配をするのね」


 嫌味を言われたものだと、そう思いかけた。

 だがミナモの声色は明るいもので、彼女は穏やかな微笑みだけを少年に向けていた。


「確かにねー、余裕があるか無いかって言うんやったら、全然無いかもね」


 冗談めかすように、はぐらかすようにして、ミナモは少年の言葉遣いを茶化している。


「まるで、地元のちょっとお節介で、ほんのり寂しがりな初老さんみたい」


「いや…………その」


 微妙に具体的な形容に戸惑う暇も無く、ルーフはともかく己の言葉を訂正するべきかについて考えている。


 しかしながら少年が心配したことを、ミナモはあくまでも話題の一つとしてあつかっているにすぎなかった。


「なんてったって、私もこのまちに引っ越してきてから、まだ全然日が浅いしね」


 鍋にいったん蓋をしながら、ミナモは僅かに遠くを見るような目線をしている。


「何回も、なんべんでも思うけど、ほんにここって不思議なまちよね」


 灰笛について語っている。

 ルーフはミナモの言葉に耳を傾けていながら、唇は自然と返事のようなものを用意していた。


「俺も、ずっと同じようなことを考えている、です」


 実際に考えていること、意識のなか、心の内層に浮かべたイメージが異なっていることは、確認するまでもなく分かりきっていることであった。


 それでもルーフはたとえほんの一ミリ、あるいはそれより少ないとしても、だとしても自分と他人の共通点に安心めいたものを抱かずにはいられないでいた。


 もしかすると、わずかながらにも気の抜けた表情を浮かべていたのかもしれない。

 ミナモはルーフの様子を見て、そこでようやく本質を追及するタイミングを計れたのだろう。


「ルーフ君はさ、ここに居続けたいと思う?」


「ここに、灰笛(はいふえ)に、ですか?」


 ルーフが地方都市の名前を呼んでいる。

 名称を言葉にした後で、少年は問われたことについて考えてみた。


「うーん、ううん? そう言われると、そんなこと考えたことも無かったな…………」


 ルーフがこの場所に、この灰笛(はいふえ)と言う名前の地方都市に訪れた理由。

 それはすでに終わった事であった。

 終わりを迎えた事件、ルーフの人生を丸ごと変え得る力を持った日々の数々。


 終わった日々、昨日の後ろ側に並ぶ過去たち。

 連続性の先頭にて、ルーフは反対側にある未来について考えようとする。


 思考を働かせてみる。

 だが、脳ミソは彼の期待する答えを見つけることは出来なかった。


「よく分からないんだ、です」


 下手くそな敬語を使いながら、ルーフは現時点で用意できる解答だけを舌の上に発している。


「俺にとっては、ここに来て妹を誰か安全で、信頼のおける奴に預けて。そうして…………」


 言いかけた、何かをルーフは喉元へ強引に押し込んでいる。

 雑に飲み込んだ言葉が、空気と共に少年の気管支を圧迫していた。


「それが終わった後のことなんて、何も考えていなかった。ですよ」


 ルーフはまた嘘をついていた。

 全部が終わった後は、何をするべきか。それは誰に教えられるまでもなく、決められることもせず、ルーフ自身で全てを決めていた。


 全部が終わった後は、死のうと思っていた。


 ルーフは死のうと思っていた、そこに自他は関係なく、自分にはいずれ死が訪れることを確信していた様な気がしていた。


 理由は単純だった、何故なら自分は家族を殺したからだった。

 祖父を殺した、育ての親であった彼のあまり柔らかくなかった腹にナイフを何回も刺し込んだ。


 あの時からずっと、ルーフは自分の選択肢に、常に死を意識するようになった。


 それはとりたてて意識的に行っているものではなかった。

 腹が空いたら食べるように、眠くなったら眠るように、残して伝えるためにセックスをするように。

 基本的な選択肢のうちの一つでしかなかった。


 死ぬべきであると、少なくともルーフ自身はそう信じきっていた。

 信じて、願い、期待を胸に抱いていた。


 そうして故郷を脱し、遠い、この灰笛(はいふえ)と言う名前の地方都市に訪れたのである。


 期待を胸に抱き、秘めていた。


 だが、それは否定された。

 主に魔法使いの少女を中心として、妹である魔女だったり、怪物じみた幼女であったり。


 あとは……、もう一人いたような気がする。

 だがルーフがその姿を完全に思い出そうとした、それよりも先にエミルの声が会話に介入をしてきていた。


「おはよう、皆さん」


 どこかのジェントルマンのような挨拶をしている。

 実際に、彼はすでにその全身をフォーマルな装いに包ませていた。


 ジャケットとパンツでセットになっているスーツの下に、シンプルな作りのシャツとネクタイでまとめている。


 エミルは暗色の靴下に包まれた足で、ツヤツヤとしたフローリングの上をゆったりと歩いている。


「やあやあ、少年よ。部屋の寝心地は最悪だったかな?」


 妻であるミナモがしたのと大体同じような質問を、エミルは若干調子を外した言葉遣いで聞いている。


 ルーフが、思考の海に沈みかけていた意識を即座に引き揚げている。


「そういうのって、普通良い方に期待して質問するだろ?」


「んー? あー……そうかもな」


 ルーフのツッコミを、エミルは軽く受け流すようにしている。


 右側にある腕を軽く振りながら、エミルはリビングにある机と椅子に座っている。


 家主が登場した、そのタイミングでミナモの調理も完成のめどを立てたらしい。


「何にしても、や。みんな起きたし、せっかくやからみんなで朝ご飯食べよっか」


「え、そんな、そんなことまで…………」


 遠慮をしようとした、だがミナモは少年の意見をなめらかに拒否する。


「遠慮せんといてや。ただ単に、食器をまとめて洗いたい人がいるってだけなんよ」


 あくまで自分側の都合に合わせることを望む姿勢を作っている。


 実際にミナモは視線を少年ではなく、その近くに立っている彼に中心点を置いていた。


 言葉で説明をせずに、暗に理由を明記する。

 だが、今のルーフにそのように繊細な感情表現は察知できそうになかった。


 彼女が分かりやすく視線を動かした。

 そんな動作にも気付かないで、ルーフはとにかく闇雲に相手の動向を把握しようと、空振りだけを繰り返している。


 特に断る理由がなかった。

 それどころか、台所から立ち昇る湯気やかぐわしい匂いによって、空腹感さえ覚えていた。


 生存本能に忠実で素直な己の体に溜め息を吐きかけたくなる。


 しかし、それよりも先にルーフは彼女の誘いを、つまりは朝食を共にするという提案を受け入れていた。


「それじゃあ、いただきます…………」

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