結晶化した結末
ハリの足、履いているブーツのそこが柔らかいもの、透明で実態の少ない、「水」のようなものを蹴りあげる。
足場として、彼に踏みしめられたそれらは、柔軟性のなかで重さを受け止める。
動きを目で確認するとこはできそうになかった。
なんといっても、どうにもできない程には、そこには透明さしか存在していない。
にもかかわらず、どうしてなのだろうか?
見えてさえいないというのに、どうしようもなく存在を意識できてしまえる。
柔らかい「水」は、ハリの体を受け止めながら、押し込まれた重さを反動するように上へと突き上げている。
そうして、ハリという名前の若い魔法使いは、あっという間にその身を空の上へと運び終えている。
空を飛びながら、ハリは腕のなかで刀を構える。
そして体を前に動かそうとする。
足だけに限定されない、全身の肉と筋を活用した動作で体を波立たせる。
そうすることで、ようやくその体はまともな推進力を得られている。
地面の上を普通に歩くよりも遥かに面倒で、わずらわしい。そんな手順をハリは素早く片付けつつ、生み出した前進力をそのまま活用しようとしている。
素早く空中のなか、「水」の中を泳ぐ。
それは傍から見れば、ただ単に魔力を使って空を飛んでいるとしか思えそうにない。
見た目的にはとても優雅そうに動きながら、しかしてハリはその顔に強い緊張感を漲らせている。
武器を握る右手に力を込めている。
体のバランスを崩さないように、つねにバランスを意識する。
均衡が少しでも崩れれば、途端にこの体は飛行能力を失う。
その時は地面に落ちるだけ、落ちて肉と骨が叩き付けられる、そして皮膚がバラバラに引き裂かれるのだろう。
予想は限りなく現実に近しいイメージを有している。
考えたことを頭の隅に、置物を飾るようにして保管しつつ、ハリの目はすでに怪物の一つをとらえていた。
滑るように体は前へと進み、刀の先端が怪物の群れの一つ、一体の肉を切り裂いていた。
刀身に広がる刃、花弁のように薄いそれが与えられた硬度に従い、とらえた獲物の形をその身に固定している。
刀が触れた、感触はハリの腕と意識に電流のような速さで伝達されていた。
速さは、至極当たりまえの事実であった。
彼の足は地面に触れていない。いまは空を飛んでいる、そのため脚部を伝わって地面へと逃がされるはずの重さ、震動は本来の逃げ場を失ってしまっている。
逃げる場所を見失った、揺れや震えはそのままの姿でハリの内側に電流のような刺激をもたらしていた。
刺激は四方八方から彼の皮膚へ、その内側へと刺しこまれていく。
軽いめまいを覚える、だが体の位置は変化しない。
彼の体を空気中に固定している柔らかいものたち、「水」と呼ばれる魔的物質がその場所から彼を逃そうとしなかったのだ。
まるで粘液が表面にまとわりつくようにして、ハリの全身をその場所、怪物との戦いの空間に固定させている。
ある種の拘束とも言えた。
それは、しかしながら今のハリにとってはただの要素の一つでしかなかった。
体を固定させるための方法、それこそ地面に触れている時の脚部となんら変わりはない。
振動に苛まれたまま、不快感を意識するよりも先に、ハリの腕に握りしめらえた刃はより深く、確実に怪物の体へと食い込もうとしていた。
ハリが呼吸をする、息を吸って、吐き出す。
酸素と二酸化炭素の循環、基本的な機能が彼の意識、心に新鮮な活力をもたらす。
腕に力がみなぎる、直進的な意識の形は目的の定まった暴力であり、狙いすまされた線と点が繋がり合う。
合致した形が、刃に確実なる行動能力を与える。
進む刃、怪物の内側に約束されてたはずの結束力、連続性が滑らかな断絶の音を奏でる。
シュルシュル、と、ゼラチン質のものが滑るような音色が空間に響く。
まず最初に音が現実に届けられる。
音速によってもたらされた空白、その隙間でハリは刃を、刀を通じて行動の成功をひとつ、ひとつだけ確信していた。
肉を捉えた実感が今更ながらに彼へ、魔法使いへ感情の動きを与えている。
それは意識の内層だけに限定された、魔法使いだけに許された震動だった。
それはある意味においては肉体に直接響く揺れ動きよりも激しかった。
そしてなにより、肉体を重力で粉々にされるよりも、それよりも、何よりも刺激的であった。
スリリングなひと時が春先の一陣の風のように通り過ぎる。
微かに甘い匂いがしたような気がする、それは魔法使いにとって喜びそのものであった。
現実には有り得ないはずの甘さが、魔法使いに瞬間的な酩酊を引き起こしている。
まぶたの裏に熱が集まり、温かな塊が眼球にヌラヌラとした輝きを満たしている。
永遠と味わいたいと、そう思もうに充分値する甘さだった。
だが永遠なんてものが所詮は人間の創造、虚妄でしかないように、その甘さも限定されたものでしかない。
魔法使いは、ハリと言う名前の彼はその事をすでに知っていた。
腕に力を込める、刀はすでに怪物の肉に深々と刺しこまれていた。
ハリは刀の柄にあたる部分を両手で握りしめ、肉の形がある方向へと刃を動かしている。
腕を大きく動かす、肉の連続性が断絶される。
刃が怪物の内部を抉り、切り裂いた後にやがて空中のなかへと戻されている。
音が通り過ぎた、その後に体液が溢れはじめる。
刀によって断絶された血液が、その断面図からどくどくと鮮やかな赤色をした体液を噴出させている。
それはハリの刀を赤く塗らし、ヌルヌルとした輝きが外界の光を鈍く反射させている。
刀を振り、ハリは付着した血液を遠心力で雑に振り払う。
刃物の切れ味はとても鋭かった。
それこそ切られた瞬間には誰も肉体の損傷を考えられず、個人的な欲望に浸り続けられていた。
それ程には、刀の存在感は希薄なものでしかなかった。
ボタボタと、止めどなく赤い体液が下へ下へと滴り落ちる。
重力に従う水分たち、その感触の中でようやく彼らは切り傷について考えられるようになっていた。
怪物が悲鳴をあげる。
「&&& { dddddd77 eqeqeqeqqeqeq」
当然のことながら人間味はあまり感じられそうにない。
人間ではないのだから、それも当たり前のことでしかないのだが、それにしても悲痛さを掻き立てられるものがあると。
そう考えているのは、下方の地上で様子を見ているメイの意見であった。
「すごいわね……」
魔法使いの戦闘を見上げながら、メイは首を上に向けたままで静かに呟いている。
「本当に、まるで羽があるみたい」
メイがそう表現している。
思ったままの感想を口にしている、そんな魔女の横で弱々しい声音があがっている。
「僕も、僕も負けていられませんよ……」
そんなことを言っているのは、キンシと言う名前の魔法使いの少女であった。
「獲物を横取りされてはなるものか、です」
そんな風のことを、まるで誰かの言葉を借りるようにして発している。
魔法少女の体は、依然として地面から少しだけ離れている、それだけにすぎなかった。
「キンシちゃん」
空の方から目を逸らして、メイは比較的近くに漂っているキンシの方に話しかけている。
「今日は、調子がわるいみたいね」
受け入れざる事実を、しかしもうすでに手遅れ気味であると知らしめるようにして、メイは少女に客観的な現状を伝えている。
「そう、そのようですね」
キンシは中途半端に宙を漂ったまま、ついに己の不調を認めざるをえないでいた。
至らなさを自覚する、その上でキンシの意識は行動に向けての展望を諦めきれないでいる。
「ですが、何としてでも僕は上にいかないといけないのです」
目下の目標を虚しく掲げている。
口でこそ大層なことを言っていながらも、キンシの体は依然として確固たる浮遊力を得られないまま、まるで物干しざおに吊られた掛け布団のようになっている。
そんな魔法少女を見かねて、メイのほうでもようやくひとつ決意を固めていた。
「しょうがないわね、キンシちゃん……手をかして」
メイが少女に確認を得るよりも先に、白く細い指先を彼女の右手にからめている。
キンシの指は興奮と緊張の状態がしばらく継続していたことにより、熱したミルクのような熱が皮膚の上に溜めこまれている。
メイはその熱を指先、羽毛があまり映えていない硬めの皮膚、そして鋭く伸びた爪の先端に感じ取っている。
熱に触れて、握ろうとした指がお互いに反応し合い、すぐさま固い結束を作りだしている。
言葉を介さぬままに、静かに手と手を握り合っている幼女と少女。
結び合った、感触がほどけてしまわないよう、メイは急いで呼吸を落ちつかせる必要性があった。
それ自体はあまり難しいことではなかった。
メイの手を握ったまま、宙に浮かんでいたキンシが敏感に幼い魔女の体内、羽毛に生じる魔的な変化に気付かされている。
幼い魔女の、彼女の属している種族としての特徴、鳥類の幼体にとてもよく似た体毛、羽毛がブワワと膨らむ。
あたたかく眠るパン生地のように、メイの羽毛がその白さの細やかな隙間に空気を取り込む。
柔らかな隙間に吸い込まれたそれらは、冷たさの代わりに新鮮なぬくみをあたえられる。
それはメイの、彼女の体温。魔女の体の内側、肉に張り巡らされた血管、その細い道を止めどなく流れ続ける血液の熱そのものであった。
温かく膨らむ、やがて彼女の体に魔法の羽が発現し始めていた。
それは彼女の腰のあたり、そこよりかは幾らか上の、背面に近しいところに現れようとしていた。
最初は透明な骨組み、細い関節部分が雨傘のように素早く展開されている。
そして、骨によって描かれる空白を余分なく埋め尽くすように、白い羽が急速に生えてきていた。
ゆっくりと時間をかけて冷やした水が、ささいな刺激で一気に氷へと変化をするように。
羽根のいくつか。連なりはその純白さもあいまって、さながら雪が何の脈絡もなくその空間に降り積もったかのような、そんな唐突さが見てとれた。
羽を生やした、鳥人としての技能を発揮させながら、メイは肉体の一部であるそれをバサリ、と大きく広げる。
「すこしだけ、走るわよ」
メイはそれだけをキンシに告げると、力を込めて足を前に踏み出していた。




