モーニングルーチン 行ってきます
「敬い申し上げる、敬い申し上げる。天におわすは御主、地の底には微睡む海原」
キンシは歌うように、怪物の死体に対する感謝の祈りを、歌うように唱えている。
色々ありまして、なかなかに本当に、色々とありまして。
キンシはようやっと着替えを完全に完了させようとしている。
まだ着替えの途中。
キンシはおよそ生活に必要とされるであろうモノを少し、あとはそんなに重要でもないモノを多数、様々な装備品を装着しながら、時計の針を確認して焦りに駆られた。
「はふいはふい、ひほふひひゃう」
唇でゴーグルを咥えているので、言葉が酷く不明瞭になっている。
キンシは目が悪く、割かしきつめの近視を目に抱えているため、安全に日常生活を送るためには視覚を補助する道具が欠かせない。
キンシは唇で抑えていたゴーグルを指に掴み、手の中でその道具を広げてみる。
「えっと、これはどうやって着けるのでしょうか?」
ゴーグルは一般的なレンズを二枚並べる形状のそれとは異なり、質感的にはむしろイタズラをする時に使う目隠しのような、そんな怪しさに満ち溢れている。
キンシが慣れぬ道具の使い方に迷っていると、その背後にトゥーイがおもむろに近付いてきていた。
「…………」
沈黙のままで、青年は若い人間の首元へと手を伸ばす。
「うわわ? 何をなさるんです?」
いきなり後頭部付近をまさぐられ、キンシは咄嗟に体毛を全体的にブワワと膨らませている。
若い人間が拒絶反応を見せているのにも構わずに、トゥーイはさながら背後から抱きしめるような格好で、その指からゴーグルをサッと奪い取る。
「あ、ちょっと……」
戸惑うキンシを他所に、トゥーイはあくまでも無表情のままでゴーグルをその顔へと巻きつけている。
それこそ本当にとある怪しい集団か何かが、重要なターゲットを襲うかのように。
トゥーイは滑らかな動作で、静かにキンシの顔へゴーグルを巻きつけていた。
「あ、ありがとう、ございます」
キンシが指で目元の辺りを弄くり、ゴーグルの位置を微調整しながらトゥーイに礼を伝えている。
「…………」
それに対してトゥーイは何かコメントをする訳でもなく、やはりその口は静かに閉じられたままであった。
青年の無表情に対して特に何を言う風でもなく、キンシはようやく使用できる状態に至った道具に対しての溜め息を吐きだしていた。
「はあ……、やっぱり慣れない道具はいけませんね」
ささやかに不満をこぼしている、だがキンシはこの慣れないゴーグルを外すわけにもいかなかった。
「でも眼鏡が無いと何も見えませんからね、世界も見えない明日も見えない。……今日は眼鏡じゃなくて、ゴーグルですけれども……」
キンシがそう述べているとおり、普段ならば眼鏡を使用をしている。
しかし肝心の眼鏡を、先日の魔法使い業務における戦闘時で、貴重な装備を破損してしまったのだ。
そのため、今日は所属している事務所から配布されるゴーグルで場をしのごうとしているのであった。
「致し方なし、です」
キンシはそんなことをひとり呟きながら、サイズが見合っていない上着のジッパーを首元近くまで閉める。
金具がカチャリ、と小さな金属の音をたてた。
両腕及び上半身がほぼ布で隠されるコーディネート。古ぼけたスタジアムジャンパーがそこはかとない貧乏臭さを演出している。
上着の裾から覗く左手。
そこにはいかにも「魔法使い! 」といった風体の紋様が刻み込まれている。
それは入れ墨のようにも見える、だがそこまでの強い存在感を放っているわけでもない。
肌に直接墨を入れているにしては、その部分はいささか透明感がありすぎている。
というか、その透明度はむしろ強すぎているほどであって、およそ人間の皮膚らしいぬくみが存在していない。
肌、皮膚、間違いなく肉体の一部でありながら、そこには肉の柔らかさがまるで想像できなかった。
むしろそれは研磨した鉱物、あるいは晴れ間のしたに湛えられた水溜まりの表面のように見える。
おうとつの少ない表面はつるつるとしていて、そういった質感が若い人間の左腕をくまなくおおっている。
透き通るひと塊は、さながら地層の深くに眠っていた水晶を、唐突に地表へと暴いてしまったかのような、そんな奇妙さがある。
それほどに不思議で、どこまでも不気味な存在感を放っている。
そんな左腕を抱えていながら、しかしてその部分は同時にどこまでも人間の、キンシの一部分でもあった。
透き通る部分も、数少なく残されている人間らしい皮膚も、結局のところは同じ肉体を構成する物質でしかない。
あくまでもそれは同一であり、キンシは今さら取り立てて気にしたり、気に病んだりするような、そんな手間ひまをかけるようなことでもない。
ともあれ、キンシは左腕に変わった模様? のようなものを持っているのであった。
「さて、……と」
ゴーグルの下で瞼を開き、位置設定を出来るだけ心地よいものに整える。
「えっとカバンカバン」
丈の短いズボンから生える薄手の布に包まれた細足が、ひょこひょこと床に積まれた本の波を器用に超える。
波の中に突っ込まれていた小型の鞄を発見すると、そそくさと腰に取り付けた。
鞄にくっ付いている赤色のリボンが巻き付けられた銀貨が、風に揺られてかすかにチリン、と涼やかな音を奏でたような気がした。
「急げ急げ!」 時間はいよいよ迫っている。
キンシが身支度をしている間、トゥーイはそれよりも早く外出用の恰好へ着替えを済ませていた。
と言っても厚手の上着に袖を通し、顔面に堅牢なマスクを装着、フードを目深に被って頭部に金具をはめ込み、後はかかとの高い長靴を履いて終了。
キンシよりも数分早く彼は身支度を済ませていた。
「先生」
首の布によってさらに音が籠った音声で、トゥーイはキンシに確認を求める。
音声が発せられる、それはキンシにとってはれっきとしたトゥーイの声音であった。
「もうすぐに、いいえ最早、外出を推奨できる時刻を超えてしまいます。急いでくださいとても」
トゥーイが、まるで翻訳機の音声ガイドのようにつらつらと語る。
その紫水晶の瞳は部屋の外につながる扉へと向けられている。
靴置場代わりの小棚の近く、そこで青年はキンシを待機をしていた。
「先生急いでください、急いでください、急いでください 急いでください、急いでください、急いでください、急いで」
連続する音、それはまさしく警告音であった。
「あーはいはい!わかってますよ!」
鞄の紐が絡まり苦戦していたキンシは、うろたえながらもはっきりとした語調で青年に答えている。
あわてふためく魔法使いは、こんがらがった紐を強引に引っ張り収めると、小走りで扉に向かう。
ゴム長靴を右足から履いて扉に手をかける。横開き式の出入り口を力任せに開く。
錆びつき軋んだ耳障りな騒音と共に、湿り気のある重たい外気が二人の鼻腔を刺激した。
「やっぱり雨降りそうですね、トゥーさん」
「はい先生、仰ることに賛同します」
キンシは閉じた扉に、およそ人家には相応しくないほど頑丈で頑強な施錠をかける。重厚な南京錠がごとりとぶら下がった。
「ほっほっ」
若者は軽快に息を吐きながら、崖に作られた簡素な梯子を上る。トゥーイもその後に続く。
梯子を登り切ると、そこは何もない開けた空き地。
「よーし!」
キンシは気合を入れる。
「駅まで走りますよー!」
若者は力強く、灰笛へと駆け出した。
青年はやはり何も言わず後を追う。
靴音が朝の空気に響いて、溶けて消えて行った。
調区
灰笛にある、一等地。
お金持ちがたくさん住んでいる。