勇者様危機一髪
キンシの、自分でも深く自信を持てるほどの感性の浅ましさでは、男性が手にしている画集の素晴らしさは分からなかった。
そこに記載されている画家の作品、書籍用に切り取られて印刷された小さな偽物たち。
それらは確かに人の手によって生み出され、そして知らない誰
かが見て、価値を見出した結果の姿なのだろう。
そう言った感覚で考えて見れば、自分にも絵の価値というものが理解できるような、キンシはそんな錯覚を意図的に作りだそうとしている。
どうしてわざわざ厄介な段階を踏んでまで、他人の読んでいる画集の有用性を把握しようとしているのか。
それは一重に絵を見ている男性。
真剣そのものの言える面持ちで画集を、本を読んでいる彼こそが今日の待ちあわせを指定した人物だったからだ。
「……」
ナナセ・ハリと自らをそう名乗っている。
ハリは近隣で戸惑っている少女の存在にまるで気付く素振りも無いままに、その心は引き続き読書に集中し続けていた。
ハリはなんともシンプルないで立ちをしていた。
上半身に白色のワイシャツを被っている。
シャツの裾をしまわずに白色の部分が下半身にはいている黒い布製の長いズボンに、クリームのようにふんわりと重なっている。
仕事着と言えばそれなりのフォーマルっぽさは感じられる、だがそれにしてはいささか気軽さの面が強すぎるような気もする。
シンプルすぎて味気ない、それもまたハリと言う人間がこの場所に存在している、その確信をあやふやなものにさせている一因の役を担っていた。
むしろ存在の希薄さに身をゆだねるままに、ずっと見つけられないままでいた方がどれほど心理的に安心を得られたことだろう。
キンシはありえなかった「もしも」の世界に思いをはせながら、しかしその目は悲しくも現実を認識することを止められなかった。
キンシはもう一度、今度はさして勇気を使用することも無く話しかけている。
「ハリさん、こんにちはー……」
とりあえず時間の挨拶を決め込んでみる。
だが結果は残念ながら……、いや、この場合は至極当然と言うべきなのだろう。
「……」
ハリは引き続きキンシの事を無視し続けている。
顔の向きはじっと下を向いたまま、ハリは本を読み続けている。
顔には眼鏡が装着されている。
キンシが使用している円みの濃いものとは異なる、ハリが使っているそれは楕円形を横に二つ並べた型のものであった。
フレームなどの装飾はあまり使われていない、服装と同じようにシンプルなデザインが為されている。
キンシはその透明な薄い、小さなレンズの形に先ほど遭遇したばかりの、空中庭園のような怪物の姿を思い返している。
どうでもいいことまで考えてしまう、それほどにキンシはハリのノーリアクションっぷりに困惑を深めようとしている。
「……どうしましょう」
まわりをはばかる程度の静かな声色で、キンシという名前の魔法使いは困り果ててしまっている。
そんな魔法少女のもとに、トコトコと別の姿が近づいてきた。
「どうしたの? キンシちゃん」
メイという名前の幼い体をもつ魔女が、まず最初にキンシの姿をその目に認めている。
そしてすぐに、彼女もハリの存在に気づかされることとなっていた。
「あら……」
メイは決してこころよいものを見たわけではないような、そんな暗い声音を発している。
そうしていながらも、彼女の方はすぐにおおよその状況を想像していた。
「ナナセさんじゃないの」
メイはハリのファミリーネームを呼んでいる。
呼び声はもちろんハリに向けられたものでありながら、同時に近くにいるキンシに、対象の存在を確認するという意味合いも含まれていた。
ハリからの返事はない。
もはや当然の結果のように思われて仕方がない、そんな反応を横にキンシがメイにささやいている。
「さっきから話しかけているのですけど、一向にこちらに気づいてくれる様子が無いのです」
キンシが事実を説明している。
少女の言い分を聞きながら、メイは自らの想像と現実に合致する部分を整理している。
メイはハリの、ヒスイのような色をした瞳を見上げながら、ため息をひとつ吐き出している。
「そうね、私がこんなに近くによってきても、ジッとうごかないままね」
すでに二名の人間に注目をされている。
それなのに、そんな異質な空間においても、平然と自己の空間を守り続けている。
メイが男性の異常な集中力に、呆れや苛立ちの垣根を越えた、一種の称賛めいた感情を抱きそうになっている。
この時点ですでに役者は満員と判断できるというのに、しかしてハリはここに更なる異物の侵入を許してしまっていた。
「いつものように」
電子的な男性の音声が空間に響き渡る。
それまでの彼女らが暗黙の了解の内に保っていた静か場面に、青年のその音量は不似合いと思われた。
「トゥーイさん……!」
キンシが青年の名前を呼びながら、キッときつめに注意をしている。
「ここではお静かにお願いします」
キンシは潜めた声のままで、精一杯厳しい声音を作ろうとしている。
「…………」
少女の口からシュウシュウと、空気のような叱責の言葉が発せられている。
トゥーイはそれを耳に受け止めながら、しかしその目線は少女ではなく、今は別の人間へと固定されている。
「…………」
トゥーイは沈黙のなかで、少しの間だけハリを眺める。
ちょうど背後の辺りに立っていながら、やがてトゥーイはハリの背中を指している。
チョイチョイ、と、虚空を小突くかのようなジェスチャーで、トゥーイは何かしらを伝えようとしている。
「…………」
人差し指を唇にかざし、その指で頬を軽くつまんでいる。
トゥーイはその動作を数回繰り返しながら、目線はハリの少し丸まった背中へチラチラと向けられている。
「?」
メイは意味が分からずに首をかしげている。
ただ、トゥーイがその動作によって何かを伝えようとしている、その事だけはすぐに分かっていた。
幼い魔女がその紅色をした瞳に不可解を浮かべている。
すると、彼女の左隣でキンシの体が動きだしていた。
「……」
青年と同じように沈黙を保ちつつ、キンシは手で唇を覆いながら軽くうなずいている。
どうやらそれが、「この男の人、話せそうにありません!」の意味を有しているらしい。
それにメイが気づき始めた。
その時にはトゥーイはすでに、この場面でもっとも有効と考えられる解決策へと考え付いていた。
「…………」
意志疎通を成功させたトゥーイは、合点がいったかのようにハンドサインを止めている。
とはいえその表情はやはりというべきか、相も変わらずまるでにかわで塗り固めたかのように、無表情だけが表面にこびりついている。
トゥーイは唇を静かに閉じたまま、サインを止めた両腕を別の形へと変えている。
沈黙と静けさのなかで執り行われる動作。
その中でトゥーイは、両の指を小さく前へと突き出すような格好を作っていた。
「?」
メイがまた首をかしげる。
前にならえをしているかのような、違和感のある格好の正体を探るために、メイは再びキンシの様子を見ようとした。
しかしどうやらキンシの方でも、青年のその行動は理解の外側の出来事であっらしい。
「……?」
瞳のなかにたっぷりと疑問符を浮かべながら、キンシとメイは互いにしばし目線を交わす。
そして彼女らの目線は、他に行くあてもなく再び青年の、トゥーイのもとへと戻されている。
少女と魔女に見守られながら、トゥーイは揃えた指先に意識を漲らせる。
「…………」
表情は変わらないままに。
ただ頭の中で集中力を高めていく、密かな熱が青年に行動を決めさせていた。
決意が形を得る、その後は特になにもない、あっという間の出来事だった。
空気がかすかに切り裂かれる音がした。
と思った時にはトゥーイの指は前へ向かって、つまりはハリの後ろ姿、ちょうど脇腹が左右に広がる部分へと突入を果たしていた。
脇腹の少しだけ柔らかい部分と、指先による骨の硬さがぶつかり合う音が発生する。
「グぅエッッ?!」
突然の衝撃。
当然のことながらハリは驚き、衝撃は彼の全身にただならぬ、絶対的に無視できない反応をもたらしていた。
後方から手刀による刺突を食らった、ハリの体は前へしなだれるように崩れかける。
予想外の感覚に意識はなす術もなく、ただひたすらに本能的な防衛本能がハリの全身へと駆け巡った。
身体を守るために縮小作業が行われる。
手の平がギュッと握りしめられる、そこに握られていた物品ですら今は思考の外側へと捨て置かれいた。
「あ……」
まず最初にメイがその動きを認めて、ハリの手元から物が落ちようとしている、その瞬間に声を発しそうになっている。
そして右隣で彼女が声を発しようとした、それとほぼ同時にキンシの腕が前へと伸ばされている。
少女の指先はハリの元へと、そこからまさに落下を起こそうとしている本めがけて突進をしている。
迷いのない動作、そのはてに少女は無事に目的の一冊を己が手で保護することに成功している。
「危なかった」
キンシが静かに事実を呟いている。
「ナイスキャッチ」
そこに別の声が、少女の上から落とされている。
見上げればそこにはハリの、少しだけ呆けたような表情が望めた。
少女と男性の距離は、もはや他人としての礼節をほぼ完全に失っている。
密接のような近さの中で、先に口を開いていたのはハリの方であった。
「あと、こんにちは」
いつかの少し前ぐらいにキンシがそうしていたように、ハリはまるで何ごとも無かったのような素振りで、平然と時間の挨拶を口にしていた。
「お待ちしておりました、本日はお忙しいなかご足労まことにありがとうございます……。……っていうか、ですよ」
手早く感謝の言葉をすませた後に、ハリの口はそれ以上に気にすべき事柄へと移行しようとしている。
「いきなりなにをしやがるんですか、びっくりして危うく本を落とすところでしたよ」
あたかも不満げな態度を作ろうとしている。
そんなハリにメイとキンシが信じられないものを見るかのような、そんな目線を送ろうとしていた。
しかし曖昧な感情表現よりも、それ以上に直接的な感情表現をしている人物が一人だけ存在していた。
「…………」
トゥーイがいかにもしんねりとした様子で、実際に眉間へ盛大なるしわを寄せてハリに対する嫌悪を露わにしている。
目線はそれなりに強い存在感を有していた。
故にハリは今度は大して時間をかけることも無いままに青年の方へ、間違いなく自身に攻撃を仕掛けた彼の存在を視認している。
「やあ、これはこれは」
ハリはトゥーイの姿を少しだけ眺めた後に、特に何を言うでもなく重ねて挨拶だけをしている。
「どうも、ごきげんよう。君の名前は何だったかな?」




