燃やされた紙片の肺を飲み込む
キンシの足は迷いなく、ためらいも無いままに崖の終わりへと進んでいた。
住居の前に広げられたささやかなスペース、崖の途中に切り立つ突起物のような空間が、今まさに崖の下から飛び降りようとしている少女の玄関先としての役割を担っていた。
光景そのものはメイにとって、この幼い体をした魔女にとって日常の一部へと変わりつつある。
メイがこの住居に世話になるという形で暮らし始めて、まだまだ慣れぬ事柄が多くあれども、それでもせめて玄関先に広がる光景ぐらいは既知の内に組み込もうとしていた。
そんな彼女の認識を裏切るように、否定するかのような、そんな勢いの中でキンシは玄関先に広がる崖の下へと落ちていった。
本当になんの迷いも無く、それはもはや事故として落下を起こすというよりは、どこまでも意図的に垂直落下をしているにすぎなかった。
「キンシちゃん?!」
さながら杭を突き刺すかのごとく海へと落下していった、キンシの姿を見てメイがたまらず悲鳴に近しい叫び声をあげていた。
予感はすでに感じていた様な気がしていた。
それこそあの魔法少女が崖の近くに立つよりも前に、まだ半裸の状態で排水管の中でリンゴを握りしめていた時から、メイは少女の意向に関して何かしらの予測を立てていた様な気がしていた。
なんといってもあのリンゴ……のような宝石を目にした途端、キンシの瞳にごまかし様のない興奮が香り立っていたことは、メイにもすでに把握していたはずであった。
しかしながら、だからと言ってまさか海に落ちるだなんて、自分にどう予想しろと言うのだろう?
メイは自責の念よりも、それ以上に魔法少女に対する一種の憤りにも似た感情を小さな胸の内に膨張させようとしていた。
もう手遅れだと思っていながらも、メイはせめてもの対処としてその足を崖の終わりまで駆け寄らせていた。
翼を使うべきか、あれはかなり体力を使うのだが、しかしこんな所でためらっていても仕方がないだろう。
などと、メイと言う名前の魔女が意識の内層にて決断を迷っている。
と、すると魔女の足元から彼女以外の人間の気配がのぼってきていた。
「?」
それは人間の声のような形を想起させて、メイはまさかと思いながらも、やはりどこかわかりきっているかのような様子で崖の下に目線を落としている。
「おーい、いえーい」
そこにはキンシが、自らをキンシと名乗る魔法少女が空に浮かんでいた。
確かに崖の下に落ちていった、能動的に落下を引き起こしたはずのキンシは、さも当たり前のようなツラで崖下と海上の間に広がる空間を漂っていた。
「どうですかー? 上手く飛べてますかー?」
キンシは自身の魔法の具合を他人に確かめようとしている。
「どうって……」
メイは崖のふちに膝を降ろしながら、のぞきこむようにして魔法少女の様子を見ようとした。
確かに魔法少女は、キンシは空の中に浮かんでいた。
海に落下をしていない、この星をあまねく支配している重力に逆らっているという点を踏まえれば、確かに空を飛んでいることには変わりなかった。
「たしかに飛んでいるわね……でも」
メイは崖の上から魔法少女を見下ろし、とくに隠そうともしないままに、見たままの感想を口にしていた。
「飛んでいるっているより、むしろ……ぶらさがってる? つりさげられているって感じね」
メイが言葉の中で見ているものを上手く形容しようとしている。
魔女がそう述べているとおり、キンシの姿はおよそ飛行という状態とは呼べそうになかった。
例えば鳥類の様に翼を使用して、軌道を描きながら空中を滑空するという方法は、今のキンシにはまったくもって該当をしてない。
翼も無ければ、きちんと道理や基準に従った飛行方法は適用されていなかった。
キンシは宙に浮かんでいて、今のところは浮かんでいるだけにすぎない。
メイがキンシへ心配の台詞を投げかける。
「大丈夫キンシちゃん? あなた頭がまっさかさまよ」
彼女がそう言っている、そこには何の比喩表現も込められてはいない。
キンシはまさに逆さの状態で空中に漂っている。
その様子はさながら巨大な指に足を掴まれ、為す術も無く非力に吊り下げられる小人か人形ようであった。
有り様としてはどこにも洗練さなど存在してない、まるで子供の手を逃れた風船のような寂しさすら感じさせる光景に、メイはどうにも感情を動かせないでいた。
椿の瞳をした魔女が形容しがたい表情を浮かべている。
その様子を知ってか知らずか、キンシの方は急いで次の段階へと移ろうと気を早めていた。
「ちょっと待ってください、もう少し……」
崖の下で宙ぶらりんになっているキンシは、とり急ぎこの状況から動きだそうと全身に意識を巡らしている。
頭を働かせて、そうすると彼女の肉体に魔力が満たされていく。
準備のための段階は魔法少女だけ、キンシにだけ限定された行為でしかない。
そのはずなのに、メイは確かに魔力と言う概念がキンシの肉体を駆け巡る、その過程を眼球へ視認していると自覚していた。
それもまた形容という訳でもなく、なんの面白味も無くそのままの意味合いで、魔法少女の肉体には魔力と思わしき物体が発生しているのであった。
キンシが呼吸をしている、心臓が動けば血液が肉体の中に駆け巡る。
それに合わせて、逆さまの状態になっているキンシの体内に魔力と思わしき存在が増幅されている。
実際に微かな光を放っていたかもしれない、キンシは逆さまに漂う自らの視界の中で、目線の先を左手に握りしめた宝石へと固定する。
「おいでください、おいでください……」
キンシは逆さの状態で、黒い毛先がフルフルと不安定に震えている、その隙間からキンシは左手の中にあるもの。
そこに存在している、赤い宝石を目で見ていた。
メイの前でこそ強がりを見せたものの、実のところキンシはこの体勢でい続けることにかなりの苦痛を感じていた。
流石にいきなり崖から飛び降りるのは無理があったか、キンシはメイの手前で無理に格好をつけようとした自身に、軽く後悔と自責の念を抱きそうになっている。
どうにも、可愛い女性を前にすると気分が動揺してしまうのは、このキンシと言う魔法使いの数ある悪癖の一つでもあった。
とはいうものの、今更後悔しても致し方なしと、キンシは腹をくくるような心持ちで全身に緊張感を走らせる。
「おいでませ、おいでませ……!」
キンシは腕に力を、左手に意識を込めている。
握りしめる、そうすると手の中にある宝石が、リンゴのように赤々と丸い宝石に圧力が与えられる。
指の先には魔法少女の意識が込められている、力が宝石の姿を変えていた。
バリンッ。
硬い物が割れる音、ガラスでできたグラスが床に落ちたかのような音が鳴り響いた。
手の中に会った宝石が砕かれたのである、そうすることによって中身に込められた要素が発散される。
宝石の中身は鉱物としての安定したものではなく、そこに有ったのはそれこそ本当の意味で、まるで本物のリンゴのような果汁であった。
ちょうど樹木からもぎ取った果実を、ナイフで切り分けたらこんな中身を見ることが出来るのではないか。
そんな想像をさせる程度には、宝石の中身は見事なまでに普通の果実としての質感しか有していなかった。
果汁が周辺に発散される。
それはもちろん普通の果実と同じく甘さがあったのだろう。
しかしながら、魔法使いにとってはただ単に味を楽しむ異常の意味合いをその果実は有していた。
「……来た!」
キンシが眼鏡の奥で、若葉のように鮮やかな緑色をした瞳を輝かせている。
飛び散る中身を一欠けらも逃すものかと、キンシは左の手をギュッと握りしめている。
閉じられた拳の中で果汁が圧縮される、液体が閉じ込められ、左側の皮膚へと吸い込まれていった。
魔法の宝石に含まれていた要素、魔力、それは魔法使いらの間で「水」と呼ばれる存在であった。
瞬間に、キンシの全身に熱が広がる。
それは意識の中だけに限定されているものではなく、現実に少女の肉体に確実なる変化をもたらしていた。
肌の上に熱が伝わる、人間らしい柔らかさのある部分は当然のことながら、それ意外の冷たい部分にも赤い熱が灯り始める。
呪いによって質感を変化させられた、その肉体部分は本来ならば水晶のように無機質な透明さしか存在していなかった。
しかし宝石によって与えられた熱によって、呪いの部分がまるでルビーの様に強烈な色彩を放ち始めていた。
キンシはもう一度呼吸をする。
酸素を体の内に取り込み、意識をさらに働かせる。
体に熱量が満たされた、骨の中身を直接振動させるかのような感覚の中で、キンシは空中にて姿勢を回転させている。
周辺に触れる空気は柔らかく、重たい。
それはまるで水のようで、キンシは頭の中で何故か市民プールの事を思い出そうとしていた。
あれはいつの事だっただろうか、保護者につれられて入浴したプールはぬるく、消毒液のにおいが体に、髪の毛にまとわりついていた。
あの温度によく似ている、とキンシはイメージを結び付けていた。
想像の世界では水はあくまでも人工物で、冷たさも温かさも、柔らかさも、全ては人間のために用意されたものであった。
そして今、自分の身体を包み、満たそうとしているそれらもまた、人間のために用意されたものでしかない。
キンシはそう考える。
想像を結び付けた、あとは行動あるのみであった。
回転させた体は、さながら水中ででんぐり返しをするような緩やかさを持っている。
「よいしょ」
キンシは重力に逆らいながら体を操り、何はともあれまずは頭の向きを元の、本来あるべき方向へと正していた。
「やはり頭は上を向いていないといけませんね」
とりたてて特別でもなんでもない、当たり前の事実を口にする。
そしてキンシは首を上に向けて、落ちて来たばかりの崖の淵を目指そうとした。
足を動かして、まるで泳ぐかのように上へ上へと移動する。
そうして、移動だけに関してはさして時間をかけることもなく、キンシはあたかも涼しそうな表情のままにメイの元へと戻っていた。
「おかえりなさい」
一部始終を見下ろしていたメイが、特に驚くこともなく元の位置に戻ってきた魔法少女を静かに迎えている。
魔女の紅い瞳に見られながら、キンシは自信ありげに彼女へと笑いかけている。
「どうです? 宝石を使うとこんなにも楽に空を飛ぶことが出来るのですよ」
「そうなの……」
キンシがそう主張している、それにメイは素直に納得を与えようとした。
「でも……、それだけじゃないんでしょう?」
だが、魔女の好奇心はどうやらそこで動きを止めることをしなかったらしい。
彼女にそう指摘された、魔法少女は言葉に対して笑顔を続行させている。
だがそこに含まれている感情は同一のものとは呼べそうになかった。




