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眠りの浅い毒で身を染めよう

 ややあってキンシは無事に眼鏡をみつけ、寝床から上半身だけを起こしている。


 もう一度だけ軽く背伸びをした後に、欠伸のために大きく深く口と気管支を広げている。

 朝方の冷えた空気がキンシの口内を満たし、冷たく新鮮な酸素が少女の肺胞の表面を循環する。


 瞬きを数回ほど、ようやくクリアになってきた視界の中でキンシは自室に一人の青年の姿を見ていた。


「…………」


 青年は沈黙の中で、唇を固く閉じたまま寝床に体を預けているキンシの事をジッと見下ろしている。


 キンシは彼の姿、顔の辺りを見上げる。

 青年の顔は雪のように白く、血色の悪さは自分とかなりいい勝負をするのではないか、と言うのはキンシの密なる持論。


 とにかく、青年の肉体をふんだんに支配する白色がキンシに非現実を錯覚させようとしている。


 もしかすると? いま目の前に広がっている光景も夢の続きなのではないか。

 キンシは少しだけ眉間に力を込めて、目の前にいる青年へさらに注目をする。


 ……確か、夢の中で誰かと会話をしていた様な気がする。

 誰だっただろうか、夢の記憶は覚醒をした時点ですでにおぼろげなものへと姿を変え、やがては水蒸気のように跡形も無く消滅するのだろう。


 イメージが完全に消え去る前に、思い出さなければならないことが、何かあったはず。


 キンシは左手で、周辺の光を吸い込んで透明に輝く左腕の皮膚と思わしき物体を、あくまでも自らの肉体の一部として操りながら、左の指をこめかみの方へとあてがう。


 指先は冷え切っていた。

 冷たさが末端冷え症なるものに起因しているのか、それともただ単に部屋の暖房機能の不備によるものなのかは、キンシには判別し難い。


 指先と頭部、冷たい肌と温かい肌が触れ合っている。

 温度差が皮膚の表面、細やかなのおうとつの隙間に生まれる。


 差分は確かに存在をしていた、だが異なっていたはずのそれは皮膚の下の血流に全て溶かされ、時間を経るごとに同一の温度へと変えられていく。


 微かで密かな調和が行われている。それを指先に感じながら、キンシは眼鏡の向こう側に立っている青年と、何処かの光景で見た誰かの姿を見比べようとしていた。


 キンシがジッと見つめている。

 その緑色の瞳が映し出している、瞳孔が縦長に伸縮をしている。

 

 少女の眼球の静かな活動を見下ろしながら、先に音声を発し始めたのは白色の青年の方であった。


「先生」


 それはおよそ肉声としての温かみを感じられそうにない、いたって電子的かつ機械的な音色を持つ男性の声であった。


 「先生」と言うのはつまり目の前の、まだ寝床から体を離していない少女、つまりはキンシのことを意味している。


 呼び名を耳にした、キンシの頭部に生えている子猫のような形をした、黒い毛並みの聴覚器官がピクリと反応をする。


 キンシが青年に返事をする。


「おはようございます、トゥーイさん」


 トゥーイと名前を呼ばれた、青年はとりたてて表情を動かすこともないままに、首元の発音補助装置でキンシと会話を行おうとした。


「先生、朝です」


 短く、たったそれだけの事を伝えている。

 青年はそのまま再びの沈黙に身を委ねていた。


 部屋の外、窓の向こうではすでに湿気の気配が香り立っている。

 今日は早朝より雨天が続く、と言うのは昨日の天気予報ですでに知り得た情報。


 水の気配が壁や窓を通り抜けて、室内に存在している人間の体にしんしんと降り積もっている。


 雨天により日光はいつも以上に頼りなく、日の傾き具合だけでは時間の経過を把握できそうになかった。


 キンシは依然として体を起こさないままで、左指がもう一度寝床の上をまさぐっている。

 ちょうど眼鏡を探り当てた辺り、そこから少し右にそれた所に目的の物品、小さなまるい懐中時計を掴みとる。


 そしてそれを体の前へと写し、キンシは慣れた手つきで細やかな刻印が彫り込まれた金属の蓋をパカッと開ける。


 蓋を開ければ中身に秘められていた文字盤が露わになる。

 針の先端が指し示す角度から、キンシは時刻がまだ明朝に差し掛かるかそうでないかの頃合いであることを把握していた。


「なんですかトゥーイさん」キンシが布団の中から不満げな声を発する。


「まだ夜が明けたばかりの時間じゃありませんか」


「同意します」


 キンシの不満にトゥーイが返事をする、首輪のような発声補助装置から微かに躍動音が漏れ出している。


 キンシは、少女は布団の中で主張を続ける。


「今日は……たしか先約があって、それで、その時間にはまだまだ余裕がありますよ」


 事務所の仕事ではなく、本日はハリと言う名前の男性から、とある依頼内容についての相談を受け持つという予定がある。


 ハリと言うのはもちろん、キンシやトゥーイと同じく魔法使いであること。

 ただ少し異なっているのが、彼が灰笛(はいふえ)(この物語の舞台である地方都市のこと)において中枢機能的役割を担う古城の関係者であること。


 これだけの要素がそろえば、本日の待ち合わせがただならぬ用事であることは、少なくとも灰笛に暮らす魔法使いであるのならば容易に想像できてしまえること。

 ただそれだけのことに過ぎなかった。


 要するに、何が言いたいのかと言うと。


「今日は面倒くさい用事があるのですよ」


 悲しき事実を訴えかけながら、自らの悲劇性をでき得る限り他人へと主張しようとしている。

 

「ので、出来るだけたくさんの良質なる睡眠を求めているのですよ」


「…………」


 布団の上から動こうともしない、トゥーイは少女の愚痴を無言で見下ろしている。

 

 青年の紫色をした瞳に浮かぶ感情に気付かないまま、キンシはもう一度毛布を被りながら、瞼を閉じて持論を締め括ろうとする。


「だから、僕はもう少し眠ります。出来ることなら、可能な限り長く夢を見ていたかった……」


 辞世(じせい)を詠むようにして、キンシは甘い睡眠の世界に再び耽ろうとしていた。

 しかしそんな甘さをトゥーイは許すはずもなかった。


「拒否をする」


 否定的意見を発しながら、トゥーイは腕力をふんだんに使用してキンシから毛布をはぎ取っていた。


「うわああああっ?!」


 実にみっともない悲鳴をあげながら、キンシはついにその身を「毛布の中」という名のあたたかく柔らかな楽園から引きずり落とされていた。


 少女の肉の少ない胴体が、里芋のようにゴロゴロと床の上を転がる。


「いたた……」


 なんとか頭部を、主に眼鏡などの貴重品だけは本能的に保護をしていた。

 それ故に、キンシは腕やら膝小僧やらのでっぱり部分を固い床にしこたま激突させてしまっていた。


 皮膚と肉の柔らかさを看過して、骨に直接振動が伝わってくる。

 ビリビリとした痺れがやがて痛みに形を変化させる。


 だがキンシは涙を流して悶絶をする以上に、この事態の直接的原因である青年に対しての感情を瞬発的に暴発させようとしていた。


「なにを……っ」


 忌々しげにキッと唇を開けば、常人よりも幾らか大きく鋭い犬歯が隙間からチラリとのぞく。


 少女が牙を剥こうとした、だが彼女の口内の鋭さが狙いを定めるよりも先に、少女らの聴覚器官を別の衝撃が襲っていた。


「きゃああああーっ?!」


 先ほどのキンシのカエルをひき潰したかのようなそれとは、声量ないし危機感的にも圧倒的に質量が異なっている。


 悲鳴は魔法使いらの住居、沿岸に開かれた今は使用されていない排水管の内、一本に雑な造りで設置された住まいへ隈なく響き渡っていた。


「な、この声はメイさん?」


 突然の悲鳴にキンシは頭部の聴覚器官をペッタリと平たくさせつつ、しかしその体は驚くよりも先に悲鳴の発生源の安否を心配していた。


 メイ、と言う名前の女性とは、この若い魔法使いらが住まいを共にしている魔女のこと。

 見た目こそは小鳥のように幼く可愛らしくも、彼女にも当然のことながらのっぴきならない厄介事を抱えている。


 彼女の抱えていた事情が一つの起因として、ちょっと昔に少年一人の人生を、少年をまさに変身させてしまったちょっとした事件。


 その後にメイは少年と、この世界で一番愛すべき兄と別れることを決意した。


 結果として、メイはキンシとトゥーイの住居に仮住まいをしている。


 ということであるため、キンシの事実に彼女の声が聞こえてくること、そのこと自体はなんらとりたてて特別視は必要ない。


 この場合において重要なのは、いつもは一輪の花弁のように可憐なるメイが、


「いやーっ! いやあーっ!」


 絹を裂くような。いや、絹のハンカチーフを腕力に任せてビリビリに引き千切るかのような、そんな悲鳴をあげている。


「大変です!」


 これはただ事ではないと、先ほどまでのくだくだがまるきり嘘であるかのようにして、キンシはその身を床の上から機敏に起こしている。


「大変ですよ、何が起きたかは知らないけれど、多分大変ですよ!」


 そしてろくに衣服も身につけないままに、キンシは裸足のままで俊敏に部屋の中を声がする方へと移動していた。


「…………」


 トゥーイが、相変わらず表情も変えないままに沈黙の中で少女の後を、歩くようにして追いかけていた。

 



 メイはやはりと言うべきか、崖の中にある住居の中にいた。

 地面の中を通る排水管に吊り下げられたランプが放つかすかな光、その付近でメイはうずくまるような格好をしていた。


「メイさん!」


 声を頼りに場所を探り当てたキンシが、メイの姿を視界に認めて慌てて駆け寄っていた。


「キンシちゃん」


 裸足の足音がヒタヒタと走り寄ってくる、メイは少女の姿を見て。


「あら」


 と少しだけ驚いた後に、しかしそれ以上に気にすべき事柄を震える声で彼女に伝えていた。


「キンシちゃん……これ……!」


 メイの白くて細い指、冬枯れの梢のようにたおやかな先端がふるふると。


 とある方向を指さしている、そこは住居の通路に吊り下げられたランプの下。


 内部に発光する魔力鉱物を内蔵した、アナログなタイプの灯火に照らされている。

 あまり明るさが足りている訳ではない、うっすらとした暗闇の中に。


「あれは……」


 キンシは、若い魔法使いの少女は、暗闇の中にもっと濃密な暗闇の塊を一つ確認していた。

 

 それは、ひとつの生き物のようであった。

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