仕合わせなんて無かった
背中側から見た感じでは、それは背骨の一部であると考えられそうだった。
ミシリミシリとしなる、柔軟そうな湾曲性のあるそれは一本の筋、骨と思わしき物質によって構成されている。
「f,f,f,f,f,f,f,ffffff」
まるで笑っているかのような、そんな声を発しながら怪物が腕をはためかせる。
ひれのような、あるいは羽のようにも見える広がりがより一層大容量の空気をその表面に含み、発生する風の渦にルーフが目を細めている。
視界が狭まっている、認識を曖昧なものとしてしまっている。
それは敵の前で行うべき行動ではなかった、そしてその内容はエミルにも共通してしまった事でもあった。
怪物が先に動いていた、それだけが彼らに認識できたことだった。
怪物が跳び上がる、羽ばたきはさながら猛禽類のごとき激しさを主張している。
そうすれば怪物の内側に包まれていた脚部が露わになる。
脚部ということになるのだろうか、それは二本の細い枯れ枝のように見えた。
雨の気配を表面に受け止める、反射はキラキラとなめらかな輝きを放つ。
脚の指が広げられる。
合計四本ほど生えている、それぞれの根元、そこにルーフは黒曜と同じ硬さを視界にて確信していた。
次の瞬間には後悔が襲ってくる、その事をルーフの無意識は確信している。
せめて何か声をあげれば。危険を知らせるための言葉を考える必要性が自分に与えられていること、ただそれだけをルーフは知っている、知っているだけであった。
誰のために言うべきか、判別をするよりも先に行動の権利は怪物にだけ、限定されて与えられていた。
黒曜石の色に艶めく爪が獲物を捕らえた。
それは人間の頭部、魔術師の頭皮。
「エミルさんッ!」
怪物の爪がエミルに襲いかかっている、その様子を見たルーフは思わず彼の元へと駆け寄ろうとしていた。
向かったところで何になる? ナイフの一本も持たずに怪物に立ち向かったところで、エミルの二の舞になることはあまりにも明白でしかなかった。
疑問がルーフの意識を特急で通り過ぎていく。
勢いが全て静かになる頃には、ルーフはすぐに自分の体が自力での歩行もままならぬ状態であることに、若干の遅れを取りながらも自覚を辿りつかせていた。
それに、仮に少年が何かしらの行動を起こそうとした所で、そんな気概も結局のところ当人同士の関係性の前ではさしたる意味を為さなかっただろう。
と、そうルーフが想像できたのにもキチンと根拠が用意されていて。
それは他でもない、たった今怪物に攻撃されたばかりのエミルが、なんとも冷静なる対処の元に速やかな反撃の一手を進めていたからにすぎなかった。
がァん!
破裂と爆発の轟音が響く。
「g33333333333333333!111」
怪物が悲鳴をあげている。
見ればひれの片方、エミルの方から見て左側に生えている一枚、その根元に近しいところから噴水上に赤い体液が膨れ上がっている。
銃撃の一発、実体を持たぬ一線は確かに怪物の肉を抉りとっている。
急速なる回転によって線の周辺に影響を与える、といった効果に関しては本物の銃と魔法の銃は同じ意味を持っていたらしい。
魔法の玉は回転力に基づいて怪物の肉を破壊した、透明な弾は骨を砕いて皮膚を破いたままで、通過した後はそのまま消滅をする。
赤い血液がクルクルと飛沫を撒き散らしながら、しぶきは雨と触れ合い、合体して溶け合った重さが地面に落ちてアスファルトへと吸い込まれていく。
魔法であれ何であれ、銃によって体をブチ抜かれたことには変わりない。
怪物は当然のことながら痛みに苦しみ、体を強く緊張させている。
硬直した筋肉が軌道能力に圧迫感をもたらし、爪はエミルの頭部に触れたままで男の肉を反射的に削る。
刺突されていた穴がそのまま切り裂かれていく。
さくさく、さく。クッキーをナイフで切り、砕くかのような音色が聞こえたような気がした。
ブチブチと中身の管や筋が断絶される。
そうすれば中身から血液の他にも水分があふれ、零れ落ちる。
怪物の爪は最後の力を振り絞り、どうにかしてエミルの皮膚の中身、骨の内側にある器官を破壊しようとする。
試みを諦めようとしない、しかしながら賢明なる努力は結局のところ無駄でしかなかった。
銃撃の勢いに押される形となり、怪物はその爪を獲物から乖離させるより他は無かった。
付着したエミルの血液が微かに粘性を放ち、爪の表面と皮膚の間に細い筋を空間上に描く。
繋がりが途絶えた頃、その頃にはすでにエミルは次の攻撃の準備をしている。
左手と右の肩の付け根で銃身を固定し、右の指で銃の装填作業を手動にて行う。
小さなスイッチのような金具を掴み、丸い取っ手をガチャリと天へと向け、それをエミルの手前側にスライドする。
そうすると使用済みとなった薬莢が、暗い空洞の中から勢いよく吐き出される。
ポーン、と金属のきらめきが地面へと落下する、金属の音色がか細く転がっていく。
それまでの動作がおよそ三秒か、それすらも満たしていない。
もう一度エミルの指が動作をする。
先ほどの動作をそのまま逆再生したかのように、金具が元の場所へと戻される。
ガチャン、と固定されれば銃の内側で何かが、おそらくは弾が装填された音が響いてきた。
用意をした、そして指が引き金をひく。
再びの爆発音。
今度は怪物の足、左側の一本が吹き飛ばされていた。
元々枯れ枝のように細く、それこそルーフの腕力だけでへし折れそう……と言うのは流石に無理がある話か。
とにかく、エミルは銃による攻撃によって怪物のひれの一枚、そして左脚の一本を破壊していた。
「eeeee/// eeeeee/// eeeeee/// eeee/// eeeeee//// eeeee//// eeee////eeee/// 」
断絶された左脚の一本からドプドプと、その細身のどこにそれだけの量が込められていたかと思える程度の血液が漏出している。
溢れる質量にはムラがあり、それがどうやら怪物の心臓が鼓動するのに合わせて緩急がつけられている。
その事を考えながら、ルーフは滴り落ちる血液の流れを追いかける。
そうするとアスファルトの上に転がり落ちている怪物の欠片、つまりは千切れた左脚の一本が雨水に沈むのが確認できていた。
怪物が血を流している、そしてエミルもまた額の辺りからたらりたらりと血液をこぼしていた。
怪物の爪は男の頭部を破壊することは叶わずとも、その表面にそれなりの深度がある切り傷を作成することに成功していたらしい。
額と髪の毛の境目、あるいはそこよりも少し目に近いところ。
まだそんなにしわがある訳でもない表面に、赤々とした断裂が刻みつけられている。
当然のことながら赤色はまだ濃厚なる鮮度を保っており、かすかに覗く中身が日中の光をヌラヌラと反射させている。
血管の断絶によって零れる液体は、怪物と同様に内蔵の動きに合わせて流出のリズムを変えている。
凝固してかさぶたになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。
重力が血液を下へ下へと導こうとする、額から落ちるそれがエミルの眉毛に新しい湿気を重ねている。
血液は重力に従うしかない、そのうえ上空からは止めどなく雨も降りしきっている。
いくら雨合羽のフードによって、少なくとも雨水に関しては保護機能が働いているとしても、それでも限度はある。
いずれは皮膚の上を滴り落ち、血液の質感がエミルの左眼窩への侵入を図らんとする。
出血によるダメージ、その弊害。
それは男だけに限定されてはいない。
「eeee eee3e3e3ee 3e3!1111111」
怪物の方もまた損傷の痛みが、時間の経過と共に耐え難いものへと変化しつつあるようであった。
すでにひれを動かすこともままならなくなっている。
残された右側で懸命に浮遊を固定しようとしている、左側の損傷は深いものでありながらも、辛うじて浮遊を保持する程度の機能は残されているようだった。
満身創痍と言う程の事でもない、かと言って健全なるとも言い切れない。
しかし、それでもまだ怪物は目の前の獲物を、人間の肉と血液その他を諦める気は無かったらしい。
怪物は羽ばたいている。
血液がボタボタとこぼれ落ちるのも構わずに、右側に残された黒曜石の爪が再び攻撃意識を帯び始める。
まだ諦めていないのか、あれだけの損傷をしてまだ動けるのか。
怪物の頑丈さにルーフは驚愕し、感情の動きは秒を跨ぐこともなく戦慄へと変化していた。
出血の量に関しては比べるまでもなく、エミルよりも怪物の方が圧倒的に多い。
にもかかわらず、怪物の肉体には依然として溌剌とした生命力が大量に残されている。
外見上から見て取れる感覚、それらをそのまま証明するかのようにして、怪物は再び叫び声をあげていた。
「ffffffffffff! ffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffff!1」
生命力の持続性を音声へと変換するか如く、怪物は叫びながら再び人間へ。
エミルという名前の人間へ襲いかかり、その肉を喰らおうとしていた。
音響が雨に濡れる空気を震動させる。
震えはこの場面において、絶対的かつ圧倒的なる存在感をさらしている。
音の量は血液よりも多い。
故に。
「あと一つ」
エミルが呟いている。
その腕に掲げられた銃の口がまっすぐと、怪物の肉体へと定められている。
行動と言葉の意味を考えられる、権利は少なくとも怪物に許される余裕は残されていなかった。
人間が、エミルが狙い済ました一撃、一発。
爆発音と共に吐き出された、それは怪物の頭部と思わしき部分。
そこを破壊していた、回転と共に皮膚が破れて骨が粉々に砕かれる。
かなり攻撃力ないし攻撃性、すなわち殺意の度合いが強い攻撃であること。
それはルーフにも分かることで、当然エミルにも自覚できている。
そして何よりも、他でもない怪物のそのものが意識の存在を、文字通り骨身に実感していた。
痛いかどうか、聞くまでもない。
人間ごときにそれを確かめる術もない。
ただ一つ確かなことは、怪物はまだ生きているということ。
ただそれだけだった。




