あくおんとうわ
エミルがルーフに向けて質問を投げかけていた。
「ところで少年、人間の三大欲求について考えたことはあるかい?」
およそ移動中の暇潰しに使用するには相応しくないと思える。
だがルーフはその点について指摘はせずに、ここは素直っぽく男の質問について思考を巡らせていた。
男と少年、二人は今灰笛の町中を歩行していた。
地下鉄から降り、コンコースを抜けて地上へと這い出た。通り抜けた先には光は溢れておらず、その代わりにシトシトと雨がリズミカルにアスファルトを黒く濡らしている。
着用している雨合羽に雫の重さが沈み、流れ落ちていく。
水分の匂いを鼻腔に満たしながら、ルーフは息を吸って言葉を吐き出している。
「どちらかと言えば、考えたことはないな。特別考えたいとも思えそうにない」
質問の意図が何であるか、それはルーフにはあずかり知らぬことでしかない。
であれば、ここで深読みじみた答えを用意するまでもない。と、ルーフは脳内の判断に従いながら返答を用意していた。
少年からの返事を受け止め。
エミルの方はいかにも何事かを含ませるかのようにして、やがて話の本筋と思わしき題名へと歩を進めていた。
「彼らが……、怪物たちがどうして人間を食おうとするのか。その理由は人間が持つ欲求、欲望とよく似ている。らしいんだ」
あまり確定的なことではないにしても、限りなく真実味に近しいものを含ませている。
エミルのそんな説明にたいし、ルーフは意外にも冷静さを欠いていない自分自身に少しだけ驚いていた。
とりあえず考えている素振りを演出しようとして、ルーフは一旦エミルの方から目線をそらすことにしている。
周辺へと視界を滑らせてみる。
そこは当然の事ながら灰笛という名前の地方都市、その土地の一部である風景、光景が広がりを見せている。
空には乳白色に数滴ほどインクを垂らしたかのような色が広がる。
雨雲は薄いように見えていながら、その湿度からしっかりと水分の落下を起こしている。
雨に濡れているのはバス停。
そこはつい先程までルーフたちが使用していた地下鉄、そこの出入り口の鼻先に設置されている。
どうやら電車の次はバスを移動手段とするらしい、というのはルーフがエミルに対して手短に確認した内容のひとつ。
バス停には彼らがたどり着いた以前より、すでに利用客がバス停にて待機していた。
ルーフ自身の体内時計ないし、体内内蔵式日めくりカレンダーに不備が起きていない限りは、本日は一応平日の昼下がりということになるはず。
そのはずなのに、バス停という名の移動手段にこれほどの人間が密集することを互いに約束しあう。
光景そのものその時点で、ルーフにとって驚愕に値するものであった。
少なくとも、ルーフが暮らしていた故郷ではまずあり得ない光景であること。
しかし少年はわざわざそれを言葉にすることはしなかった。
理由としては幾つかそれらしいのが述べられる。
第一にこんな往来でバス停ごときに驚いていられるほど、ルーフは自身のテンションとパッションに重きを置いていなかった。
そしてあともう一つ、重要度で言えばこちらの方がより強い存在感を放っている。
「三大欲求だの、名水百選だとかの話よりも」
ルーフは雨に濡れながら右斜め上の辺り、エミルの顔面がある方角を見上げている。
「そんなことよりも、俺は一刻も早く目的地について知りたいんだが」
ルーフはあまり期待をこめることをせずに、しかし表面上な切なる願いのような面を作っている。
少年が期待したところは、やはり現実において忠実に結ばれることはなかった。
「まあまあ、そんなに事を急くこともねえよ?」
エミルは謎に疑問形の体をとっている。
教えるだけの事をどうしてそんなにも、まるで取っておきのバースデープレゼントのように隠そうとするのだろうか。
ルーフはエミルの心理的動作を理解できないままに、彼らの元には先にバスが到着していた。
ややあって。というのはすでに語られたこと、車椅子に設計ないし設定された魔術式にしたがって、ルーフは不自由なる身ながらもそれなりに乗車をこなしていた。
地下鉄の時と同じく、座席に座ることのできないルーフに合わせてエミルはバスの車内にて直立をすることになっている。
その事に関してルーフはエミルに対しとりたてて罪悪感は抱いていない、というのも男の表情にはまるで疲労が感じられそうになかったからであった。
さすがにここまで町中を移動してきた、その分の体力はきっちりと消費されているはずである。
しかしながらエミルの、その深い青色をした瞳には肉体への負荷と疲労以上に、まったく種類の異なる意欲が増幅している。
それはつまりのところ、どうして怪物がこの世界で、この世界にに生息する人間を食べるのか。についての事。
「ちょうどオレが研究をしている題と似通っているからさ」
エミルはそのような前置きのすぐ後ろに、目線をじっとルーフの方へと落としている。
「それに、彼らについて情報を集めることは少年、君にとってもそんなに悪いことでもないだろ? 少なくとも、無関係と無関心を決め込めることはできないと思うが」
もちろんそんなものは決めつけでしかない。
だがルーフはエミルの予想を否定することはしなかった。
「…………」
拒否をすることはできない。それはつまり、ルーフ自身が怪物と呼称される生物の間に結ばれた関係性の深さ。
そして、それ以上に少年自身が怪物に対しての興味、好奇心を抱きつつあるという証拠。
確証そのものであった、少なくとも少年にとってはそうであった。
沈黙だけを引き伸ばすルーフ。
端から見れば子供が不満げに、現状が無事に通りすぎるまでだんまりを決め込んでいる風にしか見えなかっただろう。
しかしエミルは相手からもたらされる静けさに、確かなる同意の動作を察知していた。
相手の返事を待つ必要もなくなる。
エミルはバスの車内に佇みながら、怪物についての話をしていた。
「どうにも彼らは、怪物はあくまでも食欲を中心としてオレたち……、つまりは人間を補食してはいないらしい」
「へえ」
バスでの移動にどれ程時間がかかるかは分からない。
ルーフは暇潰しのついでに車窓の向こう側、流れる風景を眺めつつ、エミルの主張に耳を傾けている。
バスが道を曲がる、車内が揺れる、エミルの体が左に少し傾いた。
「確かに怪物は生命活動に魔力を多く必要としている」
「だから足りない栄養素を補うために、それをいっぱい持っとるやつをパクッ、とするんやろ」
ルーフか腕を軽く前に伸ばし、親指とその他の指をパチン、と軽く接触させる。
少年の腕によって作成された擬似的なる補食シーン、その音響が車内に響き溶けて消える。
音の残滓を追いかけることもしないまま、エミルはあくまでも自身のペースの延長線上で語り続けた。
「確かに魔力を補給するのに、人間の肉体はそれなりの効力を持つ。少なくとも無意味ということはない」
少年の作る偽物の怪物から目をそらし、エミルのその深い青い瞳は車窓のした辺りをゆらゆらとたゆたう。
「だが、単純な栄養補給と言う点で考えると、それじゃあ甘利にも非効率なんだ」
「と、言いますと?」
分かりきった内容ではあるものの、ルーフはあえて質疑応答の流れに身を任せている。
少年の気遣いを自覚しているか、そうでないかはエミルにしてみてもさしたる重要度は有していなかった。
「ほら? 小腹がすいた程度でいちいち命がけの戦いをしたがるやつなんて、……一部例外を除けば、当たり前とは呼びにくいからな」
「一部例外」の部分でエミルは表情筋に堪えきれぬ緊張をきたしていたが、しかしそこにも追求はしなかった。
それよりも聞くべき事はたくさんある。
ルーフは頭の中で情報を、男に向けて質問をするべき事柄を静かに選んでいる。
「と、すると、あいつらは食欲以外の別の何かで俺らを食い荒らしていると。そういうことなんか」
やはり驚くことはない。
快晴の下に輝く水平線のごとく、ルーフは新たに獲得したであろう情報を飲み下している。
与えられた、もたらされた言葉は確かに重さがある。だがそれは肉や骨を震わせられるものではない。
ちょうど、今まさに自身の頭上、バスの天井の向こう側で重力を伴う。
雨水のような、事実はスルリスルリとルーフの意識の内層へと浸透していった。
受け入れられた。
確認をした、先に唇を動かしたのはエミルの方であった。
「なるほど、流石と言うべきなんだろうな。理解が早くて助かるよ」
賞賛をしたのか、もしくはただ単に呆れているだけなのか。
いずれにしても、もうそろそろ確信へと進むべきであると、そう考えていたのは男と少年、両者に共通している感情であった。
「そこで、…………三大欲求なんだろ?」
今度は相手の出方をおとなしく待つことはしなかった。
ルーフが予測、予想できること。
想像力の指先、枝先が伸びる全ての領域、そこから得られるイメージに言葉を与えようとしている。
「食欲があくまでも起因の一つでしかないのなら、ならば睡眠。だが、さすがのあいつらでも眠りながら殺害はできないだろう」
消去法、などと言う名称を使用することすらおこがましい。
残されている答えは三つのうちの一つに限定される。
そしてそれは、少なくともルーフという名前の人間にして見れば、とても信じられる理由ではなかった。
第一、よく考えてみれば一体どのようにしてそんなことを調べたのだろうか。
「ところで、なんであんたがそれを知ってるんだ?」
ルーフが質問をしている、答はすぐに返ってきていた。
「なんてこともないさ、調べただけにすぎない」
本当に、いかにもなんて事もなそうにして、エミルは目線をもう一度左側へ。
少年が存在をしている、光景が男の青い光彩へ反射されている。
「強いて言うのならば、そういったこと……、彼らの存在意義を求めること。それがオレたち魔術師の役割、仕事だから。なんだろうな」
理由と思わしきそれは言葉に表されること以上の意味を持つことはなく。
しかし男の語る様子はどこか他人行儀な、まるで遠い過去の出来事を思い出しているような。
そんな雰囲気をルーフはバスに揺られながら、ひとり想像だけをしていた。




