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進化を止まる日まで待っていよう

 ここは一つ盛大に怒りを発散させるべきなのだろうか。


 ルーフは自らの感情についてそう考えていた。

 考えて見たものの、実際の肉体はどうにも予想通りに事を進ませようとはしていなかった。


「以外にも冷静さを保てている自分に、静かなる驚きを隠しきれないでいる」


 感情の正体を把握できないままに、ルーフはとりあえず心理的状況を言語として舌の上に並べてみた。


 少年の声音を耳にした、彼の右隣に佇んでいるエミルはさしたる意外性を作りもせずに、ただただその口元には穏やかそうな笑顔を。


 と、思いかけた所でルーフは男の表情に別の感情が色合いを見せていることに気付き始めていた。


「なんや、えらい楽しそうですね」


 ガタンゴトンと地下鉄の列車が鉄の道を車輪で食んでいる。

 振動がほぼ一定のリズムで繰り返されている、日常の音を背景にルーフは指の間にほのかな握力を込めている。


 少年の指の間、そこには一匹のスライムが握られている。

 スライムは球体をしている。丸みはさながら中心に絶対的な重力が働いているかのように、滑らかな表面は今のところは安定性に満ち足りていた。


 清流のように透き通る中身からはピス……ピスと、小動物の呼吸音の様な漏出音が微かに聞こえてくる。

 それがおそらくこの透明な球体、ないしスライムの生命活動を意味する音色であること。


 その音以外は何も聞こえてこない、静けさはまさに穏やかさそのものと言っても差し支えないだろう。


 路傍の石頃のように大人しい、その肉体からはつい先程まで一人の人間を捕食せしめんとした活動内容など、一切合財まるで想起できそうになかった。


「これがスライムであるってことは、もう充分に分かったよ」


 ほんの数十秒前までスライムに顔面を食べられそうになっていた。

 ルーフと言う名前の、少年の姿をした人間がそのスライムを少しだけ上に掲げている。


「それで…………、これはこの後どうすればいいんだろうか?」


 ルーフはスライムをじっと見つめがら、肉体の向こう側を透かして列車の内部をぼんやりと眺めまわしていた。


 少年はその後の処遇について迷っている。

 一匹のモンスター、一個の魔物。

 ここであえて灰笛(はいふえ)におけるローカルな呼び名をしようとするとしたら、一つの怪物と呼ぶのが一番相応しいだろうか。


 なんにしても、ルーフと言う名前の人間はスライムと言う怪物を今後どう扱うべきか、先行きを決めかねている。


 怪物について悩む少年。

 だが彼の憂鬱も、この地方都市にしてみればさしたる重要性を有してはいなかったらしい。


「そんな悩む必要はないぜ」気軽そうな様子でエミルがルーフへアドバイスをしている。


「そのままどこかテキトーなところでポイッと、ペイッと放出でもすればいいんだよ」


 そのような感じのことを言いながらエミルは空の右手で捨てる動作を、道端に使用済みのアルミ缶を投棄するかのような、そんな具合の動作をルーフへ見せている。


 捨てるとは。

 現代語の問題文回答文レベルに文章を深読みする必要性でもない限り、提案から予測できる行動はほとんど一つに限定される。


 エミルからの助言を耳に受け止めていながら。

 ルーフはにわかに信じられないと言った様子のままで、右手の中にいる怪物を改めて観察している。


「捨てるって、そんな雑な扱いで大丈夫なんか?」


 捻りのある解釈を加える必要性も無く、そのままの意味で捨てる必要性があるのだろう。

 ルーフは口先で疑問を述べる裏側で、どこか直感めいた部分で提案の正当性を理解できてしまえている自身の姿を俯瞰的に眺めていた。


 何も躊躇う必要性など無い。

 自分とこのスライム、粘性を含む肉体をもった怪物は何の関係性も無い。

 

 であるのならばさっさと縁を切るが如く、それこそ路傍の石ころと同じように無為に捨て去ったとしても、とりたてて問題にするような事など。

 

 …………と、そこまで納得を演出するための用意を揃えた所で、ルーフは頭の中に(せき)のような気掛かりを見出していた。


「あかんやろ。このまま「これ」をその辺に放逐したら、他の人が顔面を食われるんやないか?」


 考えた途端に身体が反射的に緊張してしまう。

 ルーフが右の指に硬直を覚えれば、それに合わせてスライムも柔軟にプニニプニニ、と表面を屈折させている。


 少年の頭の中にほんの数分前までの凶事、顔面を窒息と共にじんわりと食まれていた感触、息苦しさが再上映されている。


 彼自身が想定していた以上にその顔色は青く寒々しい落差を描いていたらしい。


 エミルが途端に慌てた素振りを見せて、両の指を開いてルーフの方へとゆっくりかざしている。


「ああ、すまない、言葉が足らなかったな。捨てるっていうのはつまり、だな、あー……なんて言うべきなんやろうか」


 もう少し明確で分かりやすい説明を試みようとして、しかしエミルは上手い具合の言葉を身着けらえないまま、口元は不安定にどもるばかりとなっている。


 口では説明しづらいこと、上手く形容できないことでもあるのだろう。


 事情だけが容易に想像することが出来ていた。そのついでにルーフは、この男が実のところ大して口上手と言うほどでもないことを静かに再確認していた。


「考えるよりは、行動、だな」


 ルーフは男の主張を言い訳にするようにして、免罪符が責任感に溶かされるよりも先に手の中のスライムを放り投げる決意を作った。


 柔らかさが指の隙間から滑り落ちる。

 確かに自らの意思をもって選んだ行動。そうであるはずなのに、何故か理由はよく分からないがルーフはその感触に得も言われぬ不安を感じていた。


 手に触れていた時、皮膚のあたたかさ、肉の隙間を流れる赤い熱の量が触れていた時。その時までは確かにスライムのような怪物はルーフの、彼にとっての意識へ実体を認識できていた。


 透き通る肉体はただでさえ実体をあやふやなものにしていた、それがいよいよ己の感覚の外側に移動してしまったら?

 それがどんなに短い感覚でも、幼子の靴音ほどにか弱いものであったとしても、ほんの少し離れただけで全てを忘却の彼方に許してしまうのではないか。


 不安を抱く、冷たい期待はえてして現実に近しいところで実現を果たしてしまっていた。


「…………あれ?」


 気がつけばルーフは自分が意味も無く虚空へ右手を差し伸べていると、そう錯覚をしかけている。

 そんな自身を一歩離れた感覚で見下ろしていた。


 慌てて瞬きを二回、酸素の補給を二回意識的に繰り返した。

 眼窩周辺の筋肉が不自然に動き、列車内のあまり暖かくない空気がルーフの気管を通過した。


 空になった、ルーフは重さを失った右手に握力を込める。

 そこになんの柔らかさも得られなかった、事実の下でルーフは己がまだ怪物の姿を期待していた、感情の形を自覚していた。

 同時に怪物に対して何の特別性も持っていなかったということ、それが一方的な思い込みでしかなかった事にも気付かされる。


 それこそまるで、粘性のある物質がトロリトロリと筋を引くように。

 ルーフは透明で粘度のある怪物に対しての意識を、名残惜しそうに引き延ばしている。


 少年の執着心と双極性を描くように、人間から自由になった丸いスライムはひとり、勝手気ままに空中を漂っている。


 フワリ、フワリ、とゆったりと規則性のない漂いは道化師が配る風船、あるいは幼い少女が吹きこぼすシャボンの玉のように穏やかで美しい。


 この世界のありとあらゆる常識、人間臭いしがらみなど知った事かと悠然と宣言すると同時に、聞こえるはずのない声音は母親の子守唄と聞き紛うような静けさを抱かせる。


 シャボン玉のように透き通る、「それ」はもうこの場所には用など無いと。

 言葉を必要としないままに、ただ無言の内側だけでこの場所から姿を消していた。


「いなくなった」


 消えた怪物の姿を目で追いかけようとして、しかしルーフはそれすらも上手くできなくなっている。


「居なくなっただろ?」


 少年の言葉に返事をする形だけ、エミルは短い言葉の中だけで彼に事実を再確認させる意味合いを含ませている。


「彼らは……、自分から触ろうとでもしない限り、よっぽどのことが無ければ多分オレ達の事なんてまるで興味を持ったりしないんだ」


 すでに怪物の実体は遠くに霞む、本当にそこに存在していたかどうかも怪しくなっている。

 エミルはそれに関しての話をしている。


 だが男の言葉はルーフの聴覚にこそ確認できてはいたものの、内容の意味するところを正しく理解できていたかどうかは、審議が不安定なものでしかなかった。


 自分に向けて語っているエミルの言葉、男がこの事象に関して語る事柄について、それらに虚偽の雰囲気はあまり感じられそうにない。


 決して審美眼に自信があるという訳ではない。ルーフは自負と謙遜めいたものを前程として、その上で目に見えぬ感覚の上で男の供述に信頼感を構築する。


 信じることを作り上げたとして、またそこで疑念が新たなる萌芽(ほうが)を来していた。


「でも、それだとどうして? あいつ等は時々俺達を食おうとするんだ」


 疑問形、疑問符を音程の流れに含ませようとして、しかしそれすらも上手くできなかった。

 理由は簡単で、ルーフは怪物と呼ばれる存在に対して苛立ちのようなものを覚えているのであった。


 何故そんな事を考えていたのか、それこそ理由などは特に無かった。

 理由もなく怒れてしまえた、その感情の形こそ疑問の答えなのだろうと、ルーフは勝手に予測した。


「そうだな」


 少年が想像したことは、そっくりそのままとまでは行かずともエミルの、他人の口によって確証を附属させられていた。


「理由としては幾つかの事例がすでに確認されている。が、その大体は……」


 ルーフはスライムの行方をたどるのを止めて、声がする方角へと目線を戻していた。

 そこではエミルが、現時点でこの世界の人間が導き出した予想の一つを言葉にしていた。


「空腹感、彼らは強い魔力消費を起こした際に、その身へ補給本能を働かせる。実体の殆どが魔力によって構成されている彼らにとって、魔的な力の喪失は命にかかわる」


 理由を話す、エミルの目線はルーフの方を見てはいなかった。


「欲求は強力なものだ。だが、行動の原理としては何も難しいことは無い。喉が渇いて死ぬように、腹が減って死ぬように、それらの欲望を彼らが抱くこと。それ自体に意味不明なことなんて無いんだ」


 それがこの世界における、いわゆる学説なのかどうかはルーフに判別することは出来ない。


 いずれにしても、少年は男の語りにすぐさま反論を呈していた。


「でも、それだと食われた俺達は…………ただじゃあすまないよな」


 問いを投げかけたつもりの言葉は、しかしてどうにも他人に向けるためのそれらしき音色を有していなかったように思われて仕方がない。


 だが声は一応ながら他人へと届けられていた。

 

 少年に返事を、エミルは考えの一つに唇を動かす。


「そうならないように、死なないように、殺されないように。そして、彼らに殺させないために、そんな馬鹿みたいで、下らないことをさせないために。オレ達が、殺すんだよ」


 それもまた誰かの一説なのだろうか、もしくは別の何かなのか。

 判断はやはりルーフ一人には難しかった。

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