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「俺は今悪いことを、悪い願望をもれなく叶えているんだよ」
「ほう? と、言うと」
もうすっかり時間が経ち、ひんやりと冷え切ってしまったフライドポテト。
その一欠けらをルーフが口内へと放り込む、モソモソと咀嚼をしている。
その様子を見下ろしながら、駅のホームに佇むエミルが少年へと問いかけていた。
「いかなる悪事を働いているのか、ぜひともオレに教えてもらいたいな」
エミルがそう質問をしている。
その響きを右側の耳にことさら多く受け取りながら、ルーフは口の中身にあるものを一旦すべて飲み下していた。
「こうやって、往来で飯を食うなって。これは…………たしか、爺さんの言っていたことだった、ような?」
すでに幾らかは満たされている胃の中に、胡椒をふりかけるようにしてポテトの砕かれた破片が降り積もる。
体の中身に新たなる重さを与えていながら、ルーフの意識は内包する数々のさらに奥へと見えざる指を伸ばそうとしていた。
少年がひとり、車椅子の上で過去の事柄を思い返そうとしている。
その様子を左側の視線で確認していながら、エミルが何の気も無しに唇を動かしていた。
「君はよく……、そのお爺さんの事を思い出すんだね」
途中で遮断をすることも出来ないまま、エミルはすでに言い終えてしまった言葉に対して瞬間的な後悔を抱かざるを得なかった。
「と、あー……これに関してはあまり思い出したくないこと、だったよな?」
苦し紛れと質問のていを演出しようとしている、しかしエミルは己の試みが失敗に終わることを早くに悟っていた。
よりにもよって少年に、彼の祖父についての事柄を聞くとは。
悪手以外のなにものでもない、それらの事実はこのルーフと言う名前の少年にとって、地雷原にも勝る悪の平原でしかないのだ。
エミルと言う名前の男が一人後悔を抱こうとしている。
だが男の感情が予測するところとは裏腹に、以外にもルーフの様子は平坦なものでしかなかった。
「何なんだろうな…………?」ルーフが静かに呟いている。
「最近暇だから、こうやって昔の事ばかり思い出しちまうのは、どうにも面倒くさくてしゃあねえよ」
呟いていながらルーフは手の中にあるもの、軽くなったポテトの空き箱を左の指だけで握り潰していた。
内容物の失われた紙製の器が微かな反発を起こす。しかし反発力も虚しく、その薄っぺらい身は少年の利き手ではない片手の力だけで実体を圧縮されていた。
昼食の終了、ルーフがファストフード店の紙箱をいそいそと片している。
様子を引き続き観察しながら、作業の中の沈黙に身を預けている少年に向けてエミルが再び口を開いていた。
「あー……まあ、あれだ。そういう時、間隔、時間の隙間ってのは往々にして訪れるもんだよな」
どうやら少年に対してアドバイスじみたコメントをするつもりらしい。
だが向かうところの言葉の雰囲気は、どちらかと言うと自問自答の気配を強く帯びていた。
そういう自分にも経験があるかのような、エミルに対する予測がルーフの脳内で芽をひらめかせている。
しかしルーフはそれを言葉へと変換しようとはしなかった。
興味が無かった、とまで言い切れる程ではない。
ただ何となく、此処で聞くのははばかられた。
例えばこんな、地下鉄のうすら寒いホームで気軽に質問をするようなことではないと。
直感と言えば聞こえがいい、その実はただの尻込みだけが少年の舌の肉を固定させていた。
止まった言葉の代わりでも探すかのようにして、ルーフは目線を男の顔面がある方向へと移動させた。
「ところで、この地下鉄でこれからどこに向かおうっていうんです?」
これから向かうべくところについてのクエスチョン。
それは本日だけですでに何度繰り返されてきたことであろうか。
ルーフは自発的に数えてみようとした所で、実際のところはそこまで疑問を口にした訳ではないと気付かされている。
少年が回数がどれ程のものであるかも把握できないまま、そのすぐ隣でエミルはあくまでも聞かれた内容には丁寧な語調で答えを用意するだけであった。
「まずは地下鉄を経由して、そこからは個人の足で道の上を歩けば……。そうすればもう、もうすぐだよ」
やはり目的地の明確なる情報をハッキリとは明かそうとしない。
どうしても隠さなくてはいけない、と言えるほどの強迫観念をエミルから読み取ることは出来そうにない。
となれば、どうして彼はこうも頑なに語ろうとしないのだろうか。
ルーフは首を傾げそうになって、男に対して乱立する猜疑心の塔へと更なる累積を加えかけようとしていた。
だが少年の心象風景へ新たなる高みが与えられることは無かった、それよりも先に地下鉄が彼らの元に来訪をしていたのである。
「あ、もうすぐ来るな」
エミルがそう呟いている。
動く口元を背景にして、地下に広がる空間内に軽快で滑らかなメロディーが響き渡る。
それは利用者たちに列車の到着を報告する音色であり、同時に彼らへ時刻の経過を一方的に伝える警告音でもあった。
天井に小さく備え付けられているサイレンの数々が、与えられた指示のもとにメロディーを全て吐き出した後。
しばしの空白、満ち足りていたはずの空気がいつしか姿を変えている。
ルーフの目線は自然ととある方向へと向けられる。
そこは線路がどこまでも続く暗闇、地下鉄の線路の向こう側へ少年は注目をしている。
開かれた空洞には濃密な暗黒が満たされている、湿った土のような匂いがするのは地上の天気を想起させる気配があった。
黒色が圧倒的に占領をしている、そこへ強烈な変化がもたらされたのは一瞬のごとき出来事であった。
風が大量に吹いてくる。
それは湿気っている、鉄の塊に押し流された気配がルーフの鼻先気に広がる空間を質量を押し流していく。
ゴーッ! ゴーッッ!
車輪と鉄線が摩擦をしあう、轟音がやがて緩やかなものとなる。
整えられた金属の箱、中身には電燈の輝きが煌々と満たされている。
プシュウ、と空気が漏れる音が響く。地下を走る電車が客の動作を求めて、四角い横開きの口を開いていた。
先客たちが降車をするための列を成す。
あるいはまだ目的地にたどり着かぬ者たちは静の状態を継続したり、あるいはもたらされた空席を求めて静謐なる牽制を繰り広げている。
「乗ろうか」
エミルがルーフに向けて短く話す。
目線が左下へと向けられる、男が提案をした時点ですでに少年は動作を実行しようとしていた。
「使い方は、覚えているか?」
エミルがその深い青色をした瞳の中に、確認としての動作を含ませている。
ルーフはそれに言葉としての返答を用意しようとしたが、しかしこの場合には口で言うよりも先に行動で結果を示した方が早いと判断をする。
ルーフが沈黙の中で指を素早く動かす。
車椅子の車輪を握りしめていたはずの先端が、そことは別の細々とした裏側に設えられた幾つかのスイッチを繰る。
少年の指によって示された命令の数々、それらが車椅子のように見える道具に魔的な変化をもたらしていた。
柔らかいものが擦れあうかのような音響の後、それまで確かに車輪であったはずのものがその姿を、性質を変化させていた。
使用する者の移動を補助するという点においては、それは相変わらず車輪と言う名の意味を継続させていたに過ぎない。
だが同時に変化したそれ、車輪であったものは先程までと同様であるとても呼べそうになかった。
まるで熱を帯びた飴のようにウネウネとソフトな質感を持っている。
柔らかく変化させられた表面が地面を、駅のホームの終わりと列車の始まりへの間に開かれた空白を覆い尽くす。
電車の乗り降りの際にホームとの隙間によって転倒事故を起こさぬように、そのために車椅子へ設定された魔術式の一部。
それが作動していた、その結果ルーフはなんて事も無しに地下鉄へと乗車していたのであった。
「いやー便利だな」
ルーフが魔術式を解除している、動作を見下ろしながらエミルが車内の床へと足を乗せていた。
「ちょっと昔までは電車乗り降りも、ひとの手助けが無ければままならなかったというのに。昨今の技術力の発展はすごいなー」
まるで他人事のように感想を述べている。
エミルからの感想に対して、ルーフはとっさに疑問符を浮かべていた。
「ちょっと昔って、こんなもんずっと前からあるでしょうに」
車輪が元の形へと戻っていく、動作が体の下方にて行われている。
音を耳に受け止めようとしていながら、しかし彼らの鼓膜を列車の発車音が圧倒的なまでに塗り重ねていった。
「あー……、そうだったかな? 考えていないと昔の事なんてすぐ忘れるもんだから」
何処か気まずそうに言い訳をしながら、エミルは車内における身体の立ち位置を模索しようとしている。
「…………?」
挙動に違和感を覚えながらも、しかしルーフもまた自らのポジショニングに意識を割くことにしていた。
ガタンゴトン。
生活の音として余りにもメジャーが過ぎる音色が通り抜ける。
とりたてて会話をすることもなく、空腹も満たされている。
肉体における欲求が少ないが故の余裕が、ルーフの意識へ眠気を誘発させようとしていた。
瞬きの感覚が短く、瞼を閉じる区間が長さを得ようとしていた。
ここで本格的な入眠に耽るのも、とりたてて問題にするような事でもないのだろう。
しかし身をジワジワと確実に蝕まんとしている疲労感以上に、ルーフの意識は緊張感を強く覚えていた。
そもそも列車と言う移動用機構を使用したのが、実のところこれでまだ二回目なのである。
生まれて初めて電車に乗った、少なくとも意識の内に記憶しているなかでも経験はほんの数日前の出来事。
なんだかもう、あの日電車に乗ってこの灰笛に訪れたときのことが随分昔の様な気がする。
なんて、そんな風に考えてしまうのはやはり眠気に誘発されたメランコリーなのであろうか?
ああ、嗚呼…………、ほら、こうして背中やら首筋の辺りに謎の重さが。
「ん…………んんんん?」
しかしながら、感触が何も倫理的ダメージによって生み出されたものではないこと。
その事に気付く、と同時にルーフが自らの後頭部辺りに指を伸ばすと。
そこには、生き物らしい何かがピッタリと少年の首筋にへばりついていた。




