フワッとした恐怖に囚われている
モアから手渡されたそれは。
「…………スケッチブック?」
それは重いと呼べるほどのものでもなく、かと言って雪の結晶の様に軽いものという訳でもなかった。
それはいたって普通の、何の変哲もないであろうスケッチブックであった。
モアから渡されたものを、ルーフと言う名前の少年が訝しげに思いながらも素直に受け取っている。
はて? これを手渡されて自分はどうすれば良いのだろうか。
ルーフが少女の意図を読み取れぬままに、ただただ意味不明ばかりを胸の内へプーカプーカと風船の如く漂わせるばかりとなっている。
「あの…………」
「ああ! あとこれもっ」
質問をしようと試みていた、少年の動作を端から握り潰すかのようにしてモアがさらに物品を彼へと差し出している。
「はい、どーぞ」
「どーぞって…………えっと、これは?」
スケッチブックの次は果たして何が来るのか、予想をする暇も無くルーフは指の上に更なる重みを感覚していた。
「?」
いきなりの展開に頭がついてこれていないことに関しては、この際致し方ない事とするとして。
ともあれ、ルーフは矢継ぎ早に増加させられた所持品の把握と整理から開始をする事にしていた。
まずはスケッチブック、これに関しては特徴と呼べるものはほとんど含まれていないように見える。
それはどこからどう見ても普通のスケッチブックで、この国の大半の文房具屋、あるいは本屋なり百円均一の店か、あるいはそれ以外の販売店なり何なり。
つまりは何処にでも売っていそうな、普遍的なデザインが為されている、使いやすそうなスケッチブックが一冊。
中身のページを確認しない限りは不明でしかないが、しかし表紙のつややかさや張りの良さから見て、おそらくは人の手がほとんど加えられていないであろう。
そんな新品のスケッチブックを右の手の中に。
ルーフは目線をそのまま左側へと移動させる。
するとそこには左の指が、その上には一つの紙箱が握りしめられている。
当然のことながら、それもまたモアから一方的に手渡されたものである。
「…………」
ルーフは左指の上に乗せらえているそれを見る、目線の鋭さは睨みに等しい
手渡されたというのは言い回しの一つでしかなく、むしろ実際の感覚としては無理やり押し付けられた、の方が近しい。
これでせめて相手側、モアがその一品に対して何かしら嫌悪感でも抱いてくれていたら。
例えば不幸によって身寄りのなくなった者をたらい回しにするかの如く、無責任さを全身全霊で表現してさえくれていたら。
もう少し納得できたであろう、ルーフは不可解さを抱いたままで左手の中のそれを見る。
それは、紙製の箱にぎっしりと隙間なく詰め込まれた鉛筆の束であった。
どうしてルーフが箱の中身を理解することが出来たか、その理由は単純であって、箱本体に明るい文体で、
[Pencils 鉛筆十二本セット]
そういった内容の表記が印刷されている。
ただその鉛筆の箱は普通とは少しズレた気配を持っていた。
その理由もまた箱そのものに現れていた。
「なあ、これ…………こっちの箱は使用済みなんか?」
ルーフは両手をそれぞれの道具に塞がれたままの格好で、目線だけを上に。
モアと言う名前の少女の、水色の瞳が在る方向へと移動させている。
アバウトな言い回しをしてみたものの、ルーフが主張したい所の意味は少女の方にキチンと伝達されていたらしい。
モアがふむふむとうなずきながら、軽やかな様子で少年の指摘に同意を表していた。
「その通り、お察しがよろしいわ、流石ルーフ君ね」
一体何をそんなに感慨深くする必要があるというのか。
ルーフが不理解を抱いているのにも構わずに、モアは質問された胸についての解説を意気揚々と続行させていた。
「それはあたしの雇い主さんの、そのお師匠さんから代々伝わる必殺! のスケッチセットなのよ」
モアがふふん、と胸を自信ありげに反らしている。
「必殺…………スケッチセット?」
少女の水色の瞳に満ちる意気揚々とした雰囲気とは裏腹に、ルーフの喉元には相変わらず怪訝さばかりがスモークの様に立ち込めるばかりであった。
「それで…………これを俺はどうすればいいと?」
右と左のそれぞれに携えていたものを、ルーフはとりあえず右側に寄らせて片側の指をフリーにしている。
緊張感を継続させるのに飽いている、モアはそんな少年の顔を覗き込むように身を屈めていた。
「どうするも、なにも。貴方はそれで絵を描くべきなのよ、そうするととても素敵なことが起きる」
言い終えかけたところで、モアは「かも、しれない」と補足をするようにして呟いている。
一体何の話をしているのだろうか。
疑問は当然のことながら意識の上に、明確な形状を伴って次々と発生をしている。
だが、しかし。
それ以上に、ルーフの肉体は提案された事柄に注目をせざるを得ないでいた。
「絵を描くって、…………それって」
「貴方、好きでしょう?」
ルーフが理解を遠く彼方に望むばかりとなっている。
少年の意識を置いてけぼりにしたままで、モアは自らの主張を明朗な声音で発信し続けていた。
「ねえ、ルーフ君。貴方は絵を描く人よ、あたしにはよく分かる」
「一体何を根拠に…………」
反射的に否定をしようとしている、自分の姿をルーフはどこか客観視をするかのようにして眺めていた。
「俺は、そんな」
理由はルーフ自身にもあずかり知らぬ事柄であった。
ハッキリと単純な事を言うとしたら、モアから指摘されたものは概ね正解に近しかった。
絵を描くこと、イラストを描くこと、それはルーフにとっては決して嫌いな事ではなかった。
嫌いどころの話ではない、白か黒かでいえば限りなく白に近しい。
ルーフはイラストを描くことが好きな人間であった。
少なくとも嫌いではない、という認識だけがルーフの頭の中で許可を獲得している。
だが、それ以上の意味を有してはいなかった。
どちらかと言えばそうである、ハッキリとは言えないがそうだと思う。
所詮はその程度の認識でしかない、それはすなわち一定の境界を超えるほどの質量を有していないkとでもある。
つまりは、
「だが、俺は決して絵を、イラストを描きたいとは」
結局のところ否定寄りになる、そういうことであるとルーフは考える。
少年自身がそう思考している。
紛れも無く本人の心理から生み出された選択肢であることには変わりなかった。
しかし、どうやら彼の心情は少女にとってはあまり、と言うよりはほとんど意味を為していなかったらしい。
「言葉による意見はあまり重要ではないわ、この場合にはね」
モアがそう言っている。
声音は冬の朝の水道水のように爽やかで、その冷たさはどこか剥き出しの刃と似た残酷さを秘めているような感覚を抱かせる。
存在しない冷気は一瞬ルーフに強い錯覚を、それはまるで死体の肌に触れたような不快感を想起させた。
だがそれもまた錯覚、ただの違和感に過ぎなかったのだろうか。
判別をさせる暇も無いままに、モアは体の前で人差し指をピン、と天へと小さく掲げている。
「行動が全ての答えなのです。それはこの町では第一位に組する価値観に成り得る」
「と、言うのは…………」
何のことを言っているのだろうか。
ルーフは一瞬考えを巡らそうとしたが、しかしすぐにその必要もないと手早く判断を下していた。
「考えるよりも先に、行動しろと? そう言いたいんかいな」
「そ! その通り、全ては行動あるのみ、なのよねー」
とりたてて特別なことを言っている風とも思えない。
モアはまるで近所の玄関先に回覧板でも手渡すかのような、それだけの感覚でルーフに道具を手渡しただけ。
ただそれだけのつもりらしい。
「とりあえず、これから色々と暇が多くなるとしたら、それを使って心や……ついでに身体とかも癒しちゃいなさいな」
紙とペンで何を、どの様にして癒せと言うのだろうか?
ルーフは首を傾げたくなるのを何とかこらえながら。
「それじゃあねー」
「あ、ちょ…………待ッ」
用事はこれで終いと言わんばかりに。
その場からそそくさと立ち去らんとしている、少女の一つのまとめらえた金髪が揺れる後ろ姿を呼び止めようとしている。
だが伸ばした指先は突如として訪れた影によって遮られることになる。
この場合における影とは例えばルーフの心理的状況によって発現した虚像だとか、その様な抽象的な対象という訳ではない。
現実に、物理的にルーフの視界は何ものかの実態によって遮られてしまっていた。
「あのお」影が声を発している。
どうやらそれが人間の姿をしていて、若い男のように見える彼が困惑したかのような目線をジッと向けてきている。
「ちょっとそこ、失礼してもいいかな?」
若い男はとても動きやすそうなスポーツウェアを着用していて、右の腕で手刀のようなものを作っている。
それはこの鉄の国(この物語の主な舞台となる国の事)において、「申し訳ありませんが少しどいてください」、もしくは「邪魔じゃボケ、さっさとどきやがれ」を意味するジェスチャーであること。
行為を目で確認していた、ルーフは瞬発の理解力で自らが邪魔になっていること。
男が駐輪している自転車、それもちょうどルーフのすぐ隣にとめてあるもの。
それを望んでいる、それの邪魔になっている。
理解をすれば行動するだけであると、ルーフは急いで車椅子の車輪に手を伸ばす。
そうすると、彼の下側でいくつかの崩壊音が。
「あ、あああ…………?!」
いちいち見て確認するまでもなく、それはスケッチブックや鉛筆の詰め込まれた紙の箱。
モアから手渡された道具は、まだルーフにとっては己の所有物としての価値を獲得してはいなかった。
それ故に、彼は移動を試みた際にそれらの物品を地面の上にバラリバラリと落としてしまっていた。
「あー、もー!」
一体なんだというのだ、苛立ちだけが意味も無くルーフの体を焦がしている。
と、そこに聞き慣れた声がまた一つ。
「おいおい、何やっとるん?」
もう一度目線を上に向ければ、そこにはファストフード店のロゴが印刷された、ホカホカと熱気を漂わせる紙袋を抱えたエミルの姿があった。




