花占いを叩き潰そう
灰笛と言う名前を持つ都市にある古城の、外側もまた灰笛でしかなかった。
古城がその地方都市のちょうど中心部分にあたる位置に居を座しているのだから、単純な物理的問題としてその事実はただ当たり前の事柄。当然の事実としか言いようがない。
そうやって片付ければいい、自分はただ単に「移動」をしていたに過ぎないのだから。
ルーフはそう考えようとしていた。
だがそれは上手くいかなかった。
どうしてなのだろうか? ルーフは疑問を抱かずにはいられないでいる。
自分はただ、ただ車いすの車輪を回して場所を移動したに過ぎないと言うのに。
しかし少年の肉体にまだ新鮮さを失うことなく残留する記憶とは裏腹に、彼の眼球にもたらされるもの。
つるつるとしている、毛細血管がたっぷりの、温かな涙にくるまれた視覚器官。そこに訪れてくる、今もずっと進軍をするかの如く入り込んでくる。
情報の数々、視覚的情報、それは灰笛と言う名前の地方都市の姿であること。
ただそれだけがルーフに理解できたことであった。
ルーフが瞬きをする。
そうすることで、彼のいみじくも望ましくなく左右の色彩が見事なまでに異なっている。
少年の眼球に風景が、灰笛の…………この世界が見える。
まず目に移るのは、空間を漂流するビルの大群であった。
あれは確か、エミルと言う名前の男が言う分には「漂流都市群」という名称が与えられていたような。
天空から雨雲の隙間に漏れる日光が白くそれらを照らす。
ビルはまるで若葉が成長を求めて葉緑素に光を取り込むように、側面に埋めこまれたガラス窓が光線を反射している。
キラキラと。遠くから見えるそれらは水面の揺らめきのようにも見えるし、あるいは釣り上げられた魚が外気をはらむ、鱗の細やかで硬質な反射光のようにも見える。
ビルそのもののデザインはいささか古風そうな物であった。
いや、ルーフには建築の専門的な知識やら、当然のことながら流行のスタイル等々など。そういった類の見解を有している訳ではないのだが。
しかし、ほぼ完全なる無知である少年にも、それらの漂流をしているビルからいわゆる最新の雰囲気を感じることは出来ないもの事実。
いわゆるモード、とでも言えばいいのだろうか?
ルーフにはそれぐらいの表現方法しか思いつきそうにない。
ともあれ、空に漂流をするビル群はいくらか古風な雰囲気を纏っていた。
例えば外気に触れる表面を水色に輝く強化ガラスでコーティングするだとか、そういった近未来的な設計はそのビルにはほぼほぼ無関係な話である。
それらを構成しているのは主に鉄筋コンクリート。もちろん日光をきらびやかに反射することのできる程度には、きちんと窓も設計がなされてはいる。
きっと、あのビルの内部にいる人はあの窓の数々の内側で、それぞれ外の光をガラス越しに受け入れることが出来るのだろう。
もしくは、よく見れば所々に白色やグレーのシャッターなども降ろされている。
それぞれの生活、ビルの形状からしておそらく業務的な役割が在るのだろうか。
あの中で仕事をする人はどうしているのだろうか、そんな想像をすることが出来る。その程度には、ビルはあくまできちんと日常性を周辺に匂わせている。
だが要素はきちんと表面上に用意されていたとしても、ルーフはどうにもその奥に息を潜める何かの気配を予想せずにはいられないでいる。
ビルは、あの空に浮かんでいる。鉄の筋とコンクリートの肌、ガラス板の鱗を身にまとう。あの存在がどうにも、どこか人間の意識など遠く彼方に及ばぬ力を秘めているような。
そんな気がしてしまう、感覚により深く根拠を持たせるかのようにして、ビルの底面には巨大な紫色の鉱物がでかでかと輝きを散乱させている。
それはやはりルーフが昨日見たばかりのもの、地面の上から見上げたばかりのものと同じ様なもの。
巨大な紫色の鉱物が漂流するビルの基礎となり、そして鉱物の上に生えている建造物に浮遊感をもたららしている。
巨大な鉱物、おそらくと言うよりはどうせなのだろう、あれもまた魔力的な要素による産物には違いなかった。
紫色に透き通る大きな石の塊、それはビルごとにそれぞれ大きさも形状も異なっていた。
基準は何なのだろうか、そもそも、いくら巨大な魔力鉱物であったとしても、ビル一本を空に飛ばすぐらいの力を単品だけで発揮できるのか。
ルーフの抱く疑問は、しかして結局のところ彼の視界からおおよその回答が把握できてしまえた。
……──、……──、……──。
空気とそれ以外の何かしらの音を低く響かせて、ビルの一つがわずかながらにルーフ等がいる方角へと近付いてくる。
動き緩慢なもので、その動作の様子はさながら水族館で気まぐれにガラスの近くに寄ってくる、巨大魚の白い眼玉を想起させる。
何の意図があるのだろうか、というか、ビルや石に意図がるかどうかも疑わしい。
ともあれ、そのお陰でルーフはビルの構造をより詳細に観察することが出来た。
そこでルーフは今しがた抱いたイメージ、魚の想像がちょうど「それら」にも該当することに気付く。
物体に魔的な力を働かせいる、紫色の鉱物はみればその表面を様々な機材によって固定されている。
それは宝石を固定するコレットを路傍に放置して、そのまま世界が世紀末を迎え、核戦争なりポスト・アポカリプスなり。そういった事情によって、器具が盛大に酸化をしてしまったかのような。
ともあれ、人間の手入れを感じさせないそれらの器具は空気に、酸素に触れることによって幾らかの劣化をその身に来たしている。
不安を呼び覚ますほどに赤さびて、空気の流れを含みながら巨大な金属類たちがギシ、ギシと軋む。
だが不思議と、ルーフはそれらの器具に崩壊などの事故をイメージすることは無かった。
器具はあくまでも自らに課せられた役割を遂行している。紫色の鉱物と建造物を繋ぎ止めている。
ビルによっては帆と思わしき者も付属されており、やはりそれは魚のひれの様に都市の空気を表面に撫で、建造物の軌道を随時補佐をしていた。
……──。
空気の音だと思っていた、それらの鳴動が他でもないビルの外装から放出されていること。
その事にルーフが気付き始めている。
そこへ、エミルが彼に話かけていた。
「ほら、いいものが見れただろ?」
なんだかずいぶんと懐かしいような気がしたのは、ただの錯覚であるとルーフはすぐに判断を下している。
唇を閉じたままにしている少年に、エミルは構わずさらに語りかけている。
「昼を迎える少し前か、あるいは少し後。この時間帯にこの辺りを歩いていると、ちょうど漂流都市の群れが飛んでいるのをイイ感じに見ることが出来るんだ」
エミルは、その名前を持つ男が理由らしきことを舌の上に並べている。
作為的か、あるいは偶然の産物か。それらを判断する能力をルーフは持ち合わせていない。
それよりかは、少年の琥珀色をした瞳は光景を見ることにだけ集中をしている。
男が言うように、光景は確かに「見る」に値する美しさを持っている。
漂流する都市の群れは海中に息衝くアジのような、自らの生命体の連続性に何ら疑いを持たない。
純粋な生、性、正に何ら疑いを持たない。
それこそまさに鈍色の隙間から漏れる天の光にも引けを取らぬ、それは地上に発現する集合体の美しさを強烈に現実へ響かせている。
建物の数々、沢山のビルたち。
都市の群れ、それらは重力に逆らっていながらも、まるで互いにそれぞれ示し合せたかのように適切な密接を保っている。
それは魚の群れにとてもよく似ていた。
だがそこには生き物としての意識は限りなく少ないのだろう。
ビルはあくまでもビルでしかなく、それと同時に石も、金属もまたその性質以上の意味を求めることはしない。
無機質な群れは都市の上を緩慢に進み、その行き着く先はどこにあるのだろうか。
ルーフは気になった、ので、近くにいるエミルに質問をしてみた。
「あのビルたちは…………、いつか別の場所に行ってしまうのだろうか?」
図らずして無意識的にビル群への執着を匂わす言い回しをしている、その事にルーフは自己へ向けて意外性を覚えている。
だが違和感は割かしすぐに、やはり少年の内層にて自発的に解消されていた。
何も難しく考える事など無い、自分は、ただただこの景色をすごく気に入っている。
それだけにすぎないのだし、何よりも、あの空を飛ぶビルの群れは感動に値する美しさを持っている。
見ているだけで楽しいと、思えただけで十分な価値があるのではないか。
ルーフが感動の値踏みをし終えている、そこにエミルの説明が水の様に滑り込んできた。
「あれは一応古城と提携している企業が主だからな、よほどの事でもない限りはこの付近を浮遊するだけだな」
質問に対する答えらしい。
あまり確定的な事を言おうとしないのは、やはり彼が古城にとっては「用済み」であるからなのだろうか?
ルーフは予想をしかけて、しかし今はそれについて考える必要はないと判断を下している。
「と言うと…………」一応は会話としての形を意識しようとして、ルーフは次の言葉について少し考える。
「昨日のあれは、やっぱり予想外の事故だったんすね」
話題を探そうとした所で、結局は何一つとして有意義な議題も思いつかなかった。
ルーフは苦し紛れに手短な話題に頼り切るだけであった。
ルーフの意見にエミルは苦笑をするように口元を曲げている。
「そうだな、ホント……あいつらが居なかったらわりかしヤバめの事態だったよな」
やはり彼はどこか他人行儀な様子を一貫している。
口にした人物の対象が果たして誰であるのか、具体的にはどの人名を指し示しているのだろうか。
しかしてルーフはもうそれ以上質問をすることは無く、体は都市の最中へと進もうとしている。
車椅子の車輪がくるり、くるりと少年の見る前方へと転がる。
その動きを確認しながら、エミルは快活そうな演出を継続させていた。
「まあ、なんだ。観光をするだけなら他にも沢山、たーくさん、見所は用意できるから」
口調はどこまでも他人行儀で、それでも身近なものの魅了をどうにか伝えたいというような。
一種の健気さとも言えるであろうもの、それだけが虚しさにわずかながらの重さを沈み込ませていた。




