元々は深みなんて無かった
間違いなく落ちてきている事には変わりなかった。
ハリと言う名前の魔法使いによって切り刻まれた、怪物の肉体は本当ならばきちんと落ちてくるはずであった。
きちんと、もしもそれがただの肉の塊であったとすれば、迎えるべきなのは重力に従った落下だけのはず。
しかしまさか、よりにもよってこの場所の怪物の肉が、その様に通常なる動作を働かせるはずも無く。
「…………?」
待てども待てども、いつまで待っても自分たちのほうへ、地面の上へと落ちてこようとしない。
怪物の肉片に疑問を抱く。
ルーフは眼球に雨風が打ち付けることも厭わずに、やがて「それら」に訪れようとしている変化を見つめている。
「ほどけていく…………」
ルーフは見たままの情報を言葉にしている。
まさにその変化はそうとしか言いようがない。
怪物の肉は形を保つこともしないままに、およそ見た目通りとは言えそうにない緩やかな落下の中で融解をしている。
それは落ちるというよりは漂う、と形容した方がより視覚情報的に正解に近しいのだろう。
人間の肉体に確実かつ多大なるダメージを与えている風雨などお構いなしに、現実における影響などまるで関係なしかと見紛うほどには、肉片の動きは緩慢なものでしかない。
冬の落ち葉の様に虚空をひらめく、怪物の肉はやがてその実体すらも薄らいでいく。
段々と透明になっていく、ルーフは最初こそついに自身の視覚、認識に異常が訪れたものかと思い込んでいた。
だが、残念なことにそれはルーフの見間違いなどというものではなかった。
怪物の肉片は確かに透明へと変わっている。
確かに色を持っていたはずのそれらは、気が付くと氷のようにその色彩を曖昧なものへと変化させていた。
透明になった肉体は、結局地面に落ちることもしないままに次々と解ける。
遠目では分かりようもない、普通に考えれば怪物が空気中でそのま消滅をした風にしか見えなかったのだろう。
しかしルーフはきちんと、無意識に近しい動きの中で確かに肉が解けた先を見続けている。
肉体であったはずのそれら、血液があって骨があり、表皮によって守られていた。
それらは透明になり、そのまま熱せられた水が水蒸気と言う細やかな粒へと変化するかのように。
ほろほろと溶けていった、怪物の肉片は跡形も無く消え去ってしまっていた。
「あれで、死んだんかいな?」
様子をじっと見守っていた、ルーフが予想を口にしている。
「いいえ、それは違いますよ王様」少年の意見は、彼の左隣に立っているハリによってすぐに否定されていた。
「ほら、よぅーくご覧になってください」
雨合羽も何も身につけていない、雨に濡れるにまかせているハリが、すでにずぶ濡れになっている右の腕で真っ直ぐ天空を指し示している。
「んん?」
何を見せようとしているのだろうかと、ルーフはハリの言い分に疑問を持つよりも先に、その視界は拡大をしたままで注目へと移動をするだけだった。
「あ」そして、ルーフはよく目を凝らした先でその一匹を認識していた。
見上げる先、そこでは怪物の肉が水の粒となって雲散霧消をしようとしている。
粒子の丸みも秒を跨ぐかそうでないかの短さで、次々と現実の風雨の内に溶かし込まれようとしている。
キラキラとした輝きの中、そこに一粒ほど小さな違和感が生まれているのがルーフの目に見えていた。
「なんやあれ、小魚? ウナギの稚魚みたいのが…………?」
見えているはずのものに現実感を抱けず、ルーフは眉間に深々としわがよるのにも構わずに。
だが、少年の戸惑いなどお構いなしと、怪物の肉片から生まれた透明な小魚はピチピチと元気よく体をうねらせ。
やがては、音も何もないままに小さな体を雨風の中に遠く流し込ませている。
透明な稚魚がどこにも見えなくなってしまい、そして怪物の肉片であった透明さが完全に蒸発してしまった。
その頃合いで、ハリがすでに消え去ったはずの「それら」ついての簡単な説明をしてきている。
「卵を割って中身を取り出していませんからね、きちんとお祭りをしなきゃ消えたりなんかしませんよ」
「ふーん。ふーん…………んん?」
しかし案の定と言うべきなのか、ハリが供述するところの事情の大部分がルーフにとっては意味不明なものでしかなかった。
おそらくはきちんとした意味があるのだろう。
しかし説明されているはずの単語のそのどれもが一方的なものでしかなく、それらの言葉の数々に意味を見出すためには、あまりにも具体的な説明が不足しすぎてた。
かといって、今ここで長々と事細やかに解説文を並べられたところで、果たしてルーフの思考がそれを受け入れられたかどうかも怪しいところ。
なんと言っても、この場面に降りかかっている問題は何もそれだけではないのである。
すでに色々と異常なことが起きているのだが、それでもなお多大なる一因が残されていた。
「あとは、漂流ビルをどうにかしないといけませんね」
怪物についての説明もそこそこに、ハリは見上げた方角をまた別の部分へと移動させている
彼はなんて事もなさそうに呟いている。
だが問題の大きさは声音にまるで比例していない。
怪物と魔法使い、後に空の上に残されいるのは漂流するビル一つだけであり。
そして、冷静に考えて見れば何よりもそれが重大な課題であった。
「もちろんあのビルも然るべき対処をしなくてはなりません」
ルーフが丁寧に疑問を述べるよりも先に、ハリがこれから行われるであろう対策についての予告を短く少年に伝えている。
「それにしても、今日は本当にタイミングが良い日ですよ」
なんだか物珍しいものでも見つけたかのように、ハリは感慨深く静かに呟いている。
はたして何がそんなに、とルーフが彼の方を見ようとした。
だがそれ以上に明確な変化が、上空を眺めたままとなっている少年の視界に鮮やかにひらめいていた。
「うわ?!」
一瞬またしても新手の怪物か何かが出没したか、ルーフは無駄だと分かっていながらも身構えずにはいられないでいる。
「大丈夫」
しかしルーフの気が動転する事よりも、エミルはそれ以上に展開された色の持ち主について冷静な説明だけを少年に伝えている。
「あれはただの魔術だよ」
魔力に普通や、あるいはそうでないかの基準とは。
ルーフは疑うよりも先に、エミルからもたらされた情報の中で展開される赤色を先に把握している。
赤い壁のように見えたそれは、とりたてて目を凝らす必要も無い程には分かりやすく円い形をしている。
それは魔法陣のように見えたのは、一応ながらその程度の知識ならばルーフにも持ち合せていたからであった。
それはなかなかに大きな魔方陣であった。
大きさとしてはホワイトボードの長辺を互いに密着させた時の面積ぐらいか。
サイズ感はさしたる規模がある訳ではなくとも、遠目で眺めたとしても丁寧な文様を刻み込ませている。
魔法陣の価値とは、結局のところ描きこみの数に大体が比例する。
というのは、たしか祖父の言い分であったような。
ルーフが過去の人物の言葉を思い出している。
少年の目線が風景の向こう側を捉えている。
その先で魔法陣を作成した人物が、片手に魔法陣、もう片方に空を飛ぶための道具を握りしめ。
そして、魔法陣を展開させている方に右手に力を込める。
すると、うっすらと赤みを帯びた円い文字列がほのかに光を放つ。
と思えばビルはまるで飼い慣らされた獣のように、従順に文字列の動きに従い始めている。
魔法陣の持ち主が文字列を底に固定すれば、従わされたビルもまたそれ以上の動きを実行しようとしていない。
ビルの動きは止められた。
「お見事」上を眺めがら、エミルがその青色の瞳を笑顔で屈折させている。
「流石ですね」エミルが呟いているのを耳にして、ハリもまた感想を口にしている。
「エミルさんの叔父さんは、お仕事が早いです」
連続して理解し難い展開が繰り返されている。
ルーフの頭の中にはどうしようもなく疑問符ばかりがこんこんと湧き出ている。
首を傾げたくなる欲求に駆られながらも、少年はとにかく目を閉じることだけはしてはならないと。
また一人、片手に箒と思わしきものを握りしめながら、緩やかに効果をする魔術師の姿をじっと見つめている。
そして話は翌日に移動をする。
「昨日のはすごかったなあ」
そしてルーフもまた、またしても古城の中を移動していた。
エミルが少年の右隣を歩きながら、彼の感想に返事をしている。
「すごいって、どれが?」
エミルの本来の目的としては、昨日はただ古城の周りを雨合羽に保護されながら呑気に散歩するつもりでしかなかったと。
「昨日はただただ、災難ばかりしかなかったとオレは思うんだが」
しかしエミルの意図など知った事ではないと、ルーフはすでに忘却しきってしまっている。
「そんなことは、あらへんよ」
忘れたままで、少年はただ素直に感想を言葉にしていた。
「あんなに精度の高い魔方陣を、短時間であそこまで作り上げるなんて…………。相当に経験を積んだ魔術師でないと、とても出来ないよな」
ウキウキとした様子で語っているのは、昨日の荒事の最終的な場面で現れた人物について。
「それにしても…………」
ルーフは何の気も無しに、心は爽やかなままでエミルに質問を投げかけている。
「あんなにすごい魔術師が、エミルさんの叔父さんだとは」
ルーフは車椅子を操りながら、隣を歩くエミルの方を見上げている。
そうすると視界の中にエミルの横顔が映る。
「そうだな、彼はすごい人だ」
何の防護服も身につけていない、エミルは思うがままに指の先を自らの毛髪に沈みこませていた。
「それにしても、本当になんともタイミングが良いというか……」
珍しく歯切れが悪そうにしている。
何か思うところがあるのだろうか?
好奇心を抱かなかったと言えば、それは嘘になる。
だがこういうことはあまり他者が突っ込むべきではないのは、やはりテンプレートの一つと言うべきなのだろうか。
しかし、完全なる嘘を作り上げるほどには少年は演技に通じてもいなかった。
「聞きたいことがあるって顔をしとんな」
エミルが目線を少しだけルーフの方に向けた後、もう一度方向を前へと戻している。
「なにも遠慮することはあらへんよ、こっち側の事情も、とても「普通」とは呼べそうにないからな」
そう言いながら、エミルはルーフの少し前を歩いている。
後ろ姿、後頭部には短く切りそろえらえたくすんだ金髪が映えている。
色合いは、構成されるべき全ては、昨日出会った人々とまるで似ていなかった。




