笑っている場合じゃないだろう
見上げる先に黒色と青色がひらめいていた。
理由として考えるまでもなく、ルーフは自分に向かって落ちてくそれ。
人間の姿をしている。それが大人までに成長をしている人間で、ルーフと言う名前の少年にとっては、とても、それはもうとてつもなく見慣れた姿であること。
「は。ハッ?!」
ルーフは声を発しようとしていた。
だが音声として生まれるそれは形を現実に得ることをせず。
ただ空気の内には、呼吸のそれとしか考えられそうにない漏出音だけが虚しく響き渡った。
悲鳴をあげるよりも先に腕を伸ばしている、ルーフは行動の裏側で自らの選択に疑問を抱いている。
はて? 手を伸ばして自分は一体どうするつもりであったのだろう。
ルーフは疑問を抱く。
少年の思考はしかして現実に何ら意味を与えることはせず。彼の腕は前に真っ直ぐ伸ばされたまま、二本の肉と骨と、皮膚の塊の上には男の姿が。
若い男の体一つ分、とりたてて大きさがあるとも言えそうにない、比較的サイズ感のコンパクトな大人の肉体が落ちて来ていた。
「…………ッ!」
落ちてきたそれ、投げ込まれた餅を掴み取ったと言えば、そうすればまだ常識の範疇に組み込めるのだろうか?
ルーフは少しでもマシな、「普通」っぽいモノの考え方を試みようとしていた。
だが、やはりと言うべきか、試してみようとした全ては無駄に終わっていた。
重さがルーフの、前方に物干しざおよろしく真っ直ぐ伸ばされた、二本の肉の上に重力の感触が伝わってきていた。
特に何を考えることもしないまま、ただひたすらなる条件反射の内。
よもや受け止めるつもりであったのだろうか? と。ルーフは今更ながらに、下方へと屈折せんとしてる腕の感触の中で自問自答を繰り広げる。
上から物が落ちてきた、事態に対して果たして自分の選択は正しかったのだろうか。
逃げるべきだったのだと、正論が貨物列車の速度でルーフの脳裏を駆け巡った。
だが思考は所詮一方通行以上の意味を有することは無く、結局のところは少年はすでに選んだものの一つに帰結をしている。
たられば話に縋りつきたいつもりではなく、ただルーフは何となく自分の行動人どこか、納得めいたものを抱いている。
諦めと言えば分かりやすく、だがそれでは余りにも単純明快すぎてもいる。
落ちてくるもの、そしてそれが人間の姿をしていた。
だから無視をすることは出来なかった。もしもしていたとしたら、それはそれでルーフにとってはただの普通の、詰まらない後悔にしか成り得なかった。
面白くない、理由はそれだけで充分であった。
そして実際問題そんな悠長なことをひとり語れる位には、ルーフは以外にも自身の体に痛みが伴っていないとこに気付き始めている。
「…………? あれ?」
全くの無重力という訳ではない。
存在感は確かに両の腕に感じられていて、そしてその重さはきちんと人間の体温を常識的にはなっている。
雨と風が強いのと、依然体を静かに振動させる驚愕の影響によって、嗅覚と聴覚はまだ鈍ったままとなっている。
なので後は視覚にしか頼るしかないのだが、しかしながらルーフは見えているはずのそれを、どうにも上手く現実として認められないでいた。
落ちてきた人間、若い黒髪の男はルーフの腕の上にいる。
それは間違いないこと。
お姫様抱っことでも言えば分かりやすいだろうか。
しかしその例えはいささか優美さが有り余りすぎている。どちらかと言うと雨に濡れた掛け布団を、湿り気に苛まれながら急いで取り込まなけらばならないような。
謎に焦燥感を覚えているのは、男の体があまりにも軽かったことが第一の理由であった。
男の体はとても軽かった。異常なまでに軽くて、もしかすると本当は男など落ちてこなかったのではないか。
あるいはその体がとてつもなく軽くて、だから自分は傷一つ負わずに済まされたのではないか。
ルーフは色々と考えた、だが抱いたイメージのどれもが納得にいたるものと呼べそうになかった。
事実重さが全く無かったとして、そう形容するには落ちてきた「それ」は存在感が在りすぎている。
そしてもう一つ考えられるとして、ルーフは腕に伝わる感触がどこか、何処かしらですでに経験をしていること。
そう考えている、ルーフは自らの思考に疑問を抱かずにはいられないでいる。
そんな事があり得るのだろうか?
まさか。
自身の凡庸かつ平坦で至らぬ人生において、よもや空から大人一人が落下してきて、それを受け止めたという経験が含まれていただろうか。
馬鹿な、ルーフはすぐさま否定文を作ろうとして、しかしどうにも根拠を捨てきれないままでいる。
何故なのだろうと、自問自答はしかしてこのような場合に限り、少年へ迅速に的確なる解答を用意している。
そうだ、とルーフはようやく答えを導き出している。
水の中で人の体を持ち上げたときに似ているのだと。
記憶がひらめいた、瞼の裏に浮かび上がったのは風呂場であった。
そこでルーフは入浴をしていた。
体はまだ今以上に小さくて弱々しく、しかし彼は隣にいる人物の事を出来る限り気遣おうと心を働かせている。
それは幼女の姿をしていて、それは彼にとってこの世界で誰よりも大切な女。
愛すべき、ルーフは記憶の中、そこで妹の体を温かく心地良い水の中で持ち上げていた。
甘い、花弁のような香りが鼻腔の奥で赤い粘膜をくすぐる。
「もし」
そうだ、あの時俺は妹と一緒に風呂に入ったのだ。
楽しかった、いつもシャンプーで髪の毛をいじくって、よく妹に怒られていた…………。
「もしもし?」
だけど、いつの頃だったのだろうか?
妹は、あいつはいつの間にか自分と一緒に入浴をする事を拒むようになってしまった。
誘っても、彼女はなんともなしに拒否感を浮かべるだけになってしまった。
何故なのだろうか、自分はもしかすると何か悪いことをしてしまったのだろうか。
「もし! ちょっと? 王様!」
理由を考えようとしていたところで、ルーフの香り豊かな夢想は冷たい現実によって雑にはたき落されていた。
いつまでも自らの体を抱えたままで、ちっとも動こうとしていない。
それどころか、口を閉じたまま何の脈絡も無く夢見心地な表情を浮かべている。
地面の上にいた者と、空から落ちてきたもの。
異常性に関しては後者が圧倒的に勝っている。そのはずであるのに、なぜかこの場合においては落ちてきた男の方が、受け止めた少年に不気味さを露わにしているのであった。
「ちょ、降りますよ? よろしいですね?」
まるで余計なお世話と言わんばかりの態度。
事実落ちてきた男にしてみれば、少年の行動はさしたる意味を有していなかったのだろう。
なんと言ってもその男は平然とした様子で怪物の体を、まるで魚を捌くかのようにして切り刻んでいたのだし。
何より、怪物を相手にそのような真似をできるということは、その黒い髪の毛の若い男は紛れもなく魔法使いと呼ばれる人間であるからだ。
「よお」
飼い猫が気に入らぬ飼い主の腕から逃れるように、じたばたとルーフの腕から降りようとしている。
黒髪の男の姿を見下ろしながら、なんとも気軽そうに挨拶をしているのはエミルの姿であった。
「ハリさんよ、ごくろうさんです」
仕事の挨拶をするかのようにしている。
実際彼らにしてみれば、今までの状態は業務のうちの一つでしかなかったのだろう。
ハリと名前を呼ばれているのは、ほんの数十分前まで昼食を共にしていた人物。
「やあやあ、お二方」
ハリは少年の腕から体を降ろしつつ、二本生えている足を雨に濡れた地面に触れ合せている。
「お久しぶりです」
ハリはそんな事を口にしている。
「いや、さっき会ったばっかりだろ」
男の言い分に、ルーフはあたかも冷静ぶった言葉を述べようとしていた。
だが言葉の後ろで、少年は自らが指摘の位置に属せるかどうかについて自問自答をせずにはいられないでいる。
「そうですよね、そうなんですよね」
しかし少年の思い悩みなど露知らず、ハリはいたって快活そうに彼への返事を唇の上に並べている。
「食事が終わった途中で、よりにもよってお魚さんを捌くことになるなんて。気分もだだ下がりですよ」
そう言いながら、ハリはまるで気分の落ち込みをみせようとはしていない。
むしろその表情は晴れやかで、一つの事柄を終えた安息ばかりが瞳に満ち足りている。
とても気分が落ち込んでいるようには見えない。
ハリは左手に刃のような武器を握りしめている。銀色をしている薄い刀身は少しだけ不思議な形状をしていて、所々に用途が不明な切込みのようなものが円く空けられている。
変わった形をしている武器を見ることは、ルーフにしてみればすでに経験済みな事でしかなく。
またそれで怪物の体を傷つけた、行為もまた彼にしてみれば見覚えがあるものであった。
武器を使って怪物の肉を切る、それがこの灰笛と言う名前の地方都市における魔法使いの姿、のうちの一つ。
考えを巡らせたところで、ルーフは一つの事実を思い出していた。
「まだ落ちてくるものが!」
ハリ一人に完全に気を取られ過ぎていた。
ルーフはもう一度目線を上に向ける、そこにはハリに切り刻まれたはずの怪物の死体が落ちてくるはずであった。
二分された肉の塊は、はるか下の地面から見てもかなりの大きさが見て取れていた。
ルーフの脳内に恐れが爆発的に膨張をする。
大きな肉が落ちてきたら? 流石にそれを受け止められる自信は持ち合せていない。
冗談めいたことを考えてしまう程度には、ルーフはまだ心の内に動転を巣食わせていたにすぎなかった。
慌てふためく少年に、しかしながら男らは落ち着きはらった様子しか見せていない。
「ご心配には及ばねえよ」
そう言っているのはエミルの方で、声音は平坦とした音色だけを続けているように聞こえる。
冷静さを保てている訳ではなさそうだと、そう判別を着けられていたのは彼の様子からどこも異常性を見出せそうにないから。
何も特別なことは無い、日常の延長戦でしかない。
その事を証明するかのように、エミルは右の指先を上へと指し示している。
「ほら、何も落ちて来ないだろ?」
指先の向かうところ。
見上げれば、そこには怪物の肉の欠片がある。
それは空気中に存在をし続けている。
「…………?」
この世界に存在する。
「落ちて…………こない」
ただ一つだけ、重力だけが肉の存在を認めようとしていなかった。




