そうなんじゃないかと思っていたんだろう?
魔術を解した通信とはどのようなものなのだろう?
電波と同じような概念、力の流れをそのまま魔力に。魔法使い的な言葉遣いをするとすれば、「水」らしきものを利用して、そこに音声情報を乗せるのだろうか?
疑問は尽きる気配をみせようとしない。
しかしながらルーフは、今この時にそのような事を考えている場合ではないと、やはり自発的に否定文を頭の片隅に綴っている。
そんな事よりも、である。
空を泳ぐディプノリンクス、肺魚の如き巨大な怪物はお構いなしに衝突を起こさんとしている。
怪物とぶつかりそうになっている、それは建物の形をしている。
ただ「普通」の建造物とそのビルが異なっているのは、それがいわゆるところ、エミルが語る所によると漂流都市群の一部である事。
何も、とりたてて難しく解釈する必要もない。
名が意味するところの通り、そのビルは空に浮かんでいるビルであったのだ。
浮かんでいると形容してしまえば、もうそれ以上に相応しいと言える例え話など何処にも存在していない。
とにかく、何であれそのビルは空に浮かんでいる。
重力に逆らっている。よく見るとビルの基礎と呼ぶべき、少なくともビルにとっては地面とおなじ意味を持っている、つまりは底の面。
そこには一本の細い黒い筋が伸びている。
細い、と形容してみたものの、それは本来かつ本物であるはずの地面の上。
空を飛ぶビルと同じ、同等の意味の中でこの土地、灰笛と言う名前を持つ地方都市の主たる要素を担う。
アスファルトの上。そこで車椅子の上に座っている、ルーフと言う名前の少年の視点。
そこから見ること、遠く離れた所から見たという点の上では、その筋は細いとしか認識できないのだろう。
遠目だけに限定される、ルーフはいちいち思考を働かせることも必要としないままに。
その筋がとてつもなく巨大で、それこそまさに巨大怪物のへその緒の如き存在感を有していること。
その事をルーフが認識している。
少年の琥珀色をした瞳は、その筋が幾つもの金属の連続体によって構成されていること。それはまるで、キーチェーンをそのまま巨人専用に拡大させたかのような。
そんな、それぐらいには単純そうな造りをしている。
もしかすると、ルーフはまた別の予想を作る。
あの暗い色をした鎖で、その、いわゆる所の漂流都市群なるものを固定させていたのだろうか。
そんな、その様な単純な考えが果たして正解と成り得るのだろうか?
ルーフは考えた先から、自分のを送らう蛇のように疑いを舌の上に苦く滲ませている。
嗚呼、今しがた疑問なんてものはこの場合において無意味でしかないと。
考えたばかりだというのに。
自責の念が一人寂しく輪廻を巡る。
その間にもルーフの頭上にて、漂流するビルは風雨に導かれるままに移動をする。
ルーフはさらに首の位置を変える、そうするとビルの底がちょうど彼の頭上の辺りまで差し掛かっていた。
ビルの底、つまりはビルを支える地面の代わりを担う土の塊。
ということになるのだろうか。
ルーフは考えた所で、もう一度見解を視界の中で否定している。
「巨大な岩…………、鉱石の塊だ」
見たもの、そして頭の中に思いついたままのことを口に出している。
ルーフの頭の中でまたしても記憶が、眼球の奥に密やかに蘇ったのは、昔に祖父の部屋で見た鉱物の一つ。
あれは確か紫水晶の欠片だった、アメジストという名前を教えてもらったのはその時。
祖父が見守るの中で、指の間に小石の様な重さのあるそれを心ゆくまで眺めまわした。
ゴツゴツとした、自然の奔放さを有したままの表面。
その裏側には表側とはとても想像できない、紫色の繊細な輝きとおうとつが広がる。
破片の側面を眺めれば、色の変化はまるで人間の皮膚の断面のようで。
不気味さを覚えたような気がすると、瞬きの合間にルーフは懐かしい感覚を思い出していた。
蘇る情報、その再上映がそのままリアルタイムで、とてつもなくダイナミックに繰り返されようとしている。
巨大なアメジストとよく似ている。ビルの基礎であるそこが紫色の輝きを放ちながら悠然と、飛行船の様な緩慢さの中で上空を移動していた。
そして、その一つだけ漂流しているビルは、もうそろそろ怪物と衝突を起こそうとしている。
ビルは当然の事として、怪物の方もまたその体に意思があるかどうかも怪しいものとしていて。
だからなのかと、ルーフはお互いにそれぞれ、まるで衝突の回避を起こそうとしていなかった。
「マズイマズイ…………ッ」
その余りにもな悠然さに、地面の上でルーフはまさに燃え上がらんばかりの焦燥感にかられていた。
「ぶつかるって! あのままじゃぶつかる?!」
焦る気持ちになるのは、もちろん怪物とビルの安全等々の理由も、もちろんあるにはあるのだが。
しかしそれ以上に、ルーフは身の安全についての本能的な不安感に突き動かされている。
「大丈夫なんか、ぶつかっても無事ってことは…………?」
期待を込めるかのようにして、ルーフは目線をエミルの方へと。
魔術師であるはずの、古城の関係者であろう人物へと問いを投げかけている。
だが少年の期待も希望も虚しく、エミルの解答はいたってシンプルなものでしかなく。
「いいや、あのままぶつかったら色々と無事じゃすまないな」
簡単な絶望的観測を口にしている。
しかしてエミルはその事に関して特になにを思う素振りも無く、その様子、挙動は淡々とした雰囲気だけを継続させていた。
「いちおう防護魔術式は組み込まれているだろうが、それでもあの質量の物がぶつかったら破損程度どころじゃないな」
冷静に分析をしている。
この場合にエミルが話しているのは、おそらくビル側の損害についての話なのだろう。
「最近の防護膜は性能が良くて使い勝手が良いんやけど、その分外部の変化に内側が気付きにくくなっとってな」
エミルが業務的に状況を整理している。しかしエミルの挙動は、ルーフにとって理解し難いものでしかなかった。
「そんなのんびりと構えとって大丈夫なんかいな?」
ルーフは重ね重ね質問をしている。
しかしもうすでに返答は与えられることは無かった。
都合も事情も何一つとして知らぬ存ぜぬ、そんな関係性でしかないルーフはともかくとして。
エミルにしてみれば、通信の相手は当面の問題に関して充分に信頼に値する間柄であったらしい。
「ああ、ほら」エミルは視界に確認できたもの、この場所に訪れた人物の影を少年にも分かりやすいように指ししめしている。
「すぐに来てくれたよ。本当に、今日は都合が良い」
何が、どの様に良いと言うのだろうか?
ルーフが疑問を抱いている。
だが彼が唇を動かそうとした、余裕すらも許さないままに。
怪物の体、それまで悠々とあたかも平和そうに虚空を泳いでいた。
その肉体から大きく、大きく悲鳴が轟いてきた。
「!1!!!b gg777773!1111」
遠く離れた所でもこれだけ大きく響いてくるのだから。
もしも近場にいたとしたら、果たして鼓膜が無事で済むかどうかも怪しいだろう。
ルーフがそのようにして不安を抱いていたのは、怪物の肉体が大きく切り裂かれていたこと。
それは人為的なものであり、人の手が加えられた気配があったことが理由とされる。
「…………?」
ルーフは目をよく凝らして、遠く彼方に見える人の気配を観察しようとした。
その人影は少年と同じ地面の上から現れたように見える。
少なくともビルの方角からだとか、はたまた遥か天空から落ちてきただとか、その様なことは起きていなかった。
地面の上からそれは現れていた。
古城の方から、どこかの窓から飛び出していったのだろうか。
それ自体にも充分非常識さが満ち溢れているが、しかしてこの都市の人々にしてみれば空を飛ぶか跳ぶとか、泳ぐとか。
あるいはそれ以外の全部は、とりたてて特筆するようなことでもないのだと。
ルーフはようやく自覚を追いつかせていた。
見解を変えることが出来ていたのは、人影がとても躍動的に怪物の体を切り刻んでいた、ただそれだけの理由だけで充分であった。
「!1111 vvvvvvvvv」
怪物は人影に、それが持つ細長い道具で次々と肉体を切り裂いている。
風は強く、雨は激しく体を打ちつけている。
溢れる体液は雨粒にさらわれて、赤色は地上に何ら意味を与えることをしていない。
人影が大きく道具、武器と思わしき刃物を振りかぶっていた。
それをじっと見上げている、いつしかルーフの眼球も彼自身にもあずかり知らぬ視界を獲得している。
「あ、あれは…………!」
ルーフはまぶたの隙間、結膜に雨が侵入してくるのにも構わずに。
見上げる先、天空で怪物の体をさばいている人影、男の姿を認識していた。
それと同時に。
「ffff,ffffveeeee」
ついに怪物の体は決定的な一撃を食らわされていた。
刃物は肉を切り裂いて、連続して食い込まされた斬撃がその柔らかそうで、実のところは意外と頑丈であったらしい。
肉の塊を、魚の解体よろしく真っ二つに切り裂いていた。
「..... ..... ..... .... . . . . .」
空気漏れのようなものが聞こえたような気がした。
怪物のものだったのかもしれないが、もしかするとただの風の音にすぎなかったのかもしれない。
ともあれ怪物の体は切り裂かれ、二分の一程にサイズを小さくさせられていた。
体の感覚を急激に変えられたことは、あまりにも明確であって。
怪物はそれまで保っていたはずのバランス感覚を失ったまま、望めていたはずの進行方向を完全に失っている。
落下をしている、そうすることによって一応ながらビルとの衝突は免れるのだろう。
だが問題が一つ解決をしたところで、落ちてくる物体が瓦礫ではなく魚の切り身に変わっただけのように思われる。
しかし肉の破片が落ちてくるよりも先に、先にルーフの方に落ちてくる影が一つあった。
およそ自然的な軌道とは大きく異なっている。
落下の方向が人為的なものである頃には、落ちてくる人の影は声が届く程度の距離まで落ちてきていた。
「危なーい!」
それはとても聞き覚えのある声で。
それこそつい最近としか言えそうにない。
ルーフは落ちてくる男の耳に生えている黒い耳、三角のおにぎりの様なシルエットに辟易とした気持ちを抱かずにはいられないでいた。




