君のことを信頼しないことにしよう
確認作業の主たる部分、その責任をこちら側に押し付けられたところで。果たして自分に、何をどうすれば良いというのだろうか?
どうすれば、ハリにとっての最大かつ最良の解となりうるのか。
そもそも、その選択を模索する事、その義理が自分の内に含まれているというのだろうか?
ルーフは沈黙の中で疑問を抱く。
「…………」
少年が、少なくとも外見上は大人しく口を閉じている。
その様子を視界に認めながら、ハリは周辺の喧騒にまぎれて消えない程度に、声を少しだけ潜めながら。
血色の悪い、売れ残りの大福餅の様な顔面をルーフのいる方へと寄せている。
「ああ、そうでした、そうでした。思い出しました」
なんともわざとらしく、ハリはあたかもこの瞬間に記憶をひらめかせたかのようにして。
嫌に赤みのはっきりとした唇、口角を上に曲げて過去語りを続けている。
「ミセス・メイの当日のファッションは水色を基調としたワンピース。布が薄めで、窓の光越しに眺めれば、中身に秘められた肢体のラインが手に取るように……──」
「してねえよ?!」
黒い髪の毛をした若い男が全てを言い終える、それよりも先にルーフは強く短く否定文を叫ぶ。
「全くしてねえ、どこにもあいつの服についてなんて言ってねえだろうがよ!」
記憶が確かなら、考えようとした所で果たして記憶とは何であるのか?
脳に蓄積された情報について、あるいは肉体が反射的に対応するパターンでしかないのだろうか。
疑問が瞬間的速度、雷鳴の輝きよろしくルーフの脳裏を駆け巡り、掻き乱した。
静かなる喧騒の向こう側、ルーフから見て机を挟んだ位置に座っている。
ハリはやはり、どうしようもない程にのんびりとした様子を崩そうとはしていなかった。
「あれえ? そうでしたっけ。これはいけない、間違えました失礼しました」
ハリは己の誤りについて、シンプルな謝罪だけを並べ立てている。
にへらにへら、とした態度からは、いったい何処から何処までが冗談なのかいまいち判別がつけ辛い。
不明瞭さはそのまま、ルーフの内に累積する不快感の指数と比例する。
内側に轟く熱が、左右対称の怒りを刻印する。
静かなる凹凸を喉の奥、あるいは奥歯の辺りで噛み殺しながら。
ルーフは、それよりも今はとにかく情報を相手側から出来るだけ多く、少しでも明確に収集しなくてはならないと。
それだけの事、それ以外の事柄は出来る限り思考の表層に浮上させないようにする。
強く意識する必要がある。そうでもしていないと、今にも何かしら決定的な理性が容易く崩れ落ちてしまいそうな。
そんな予測が恐怖心じみた存在感でルーフの喉元を圧迫しかけていた。
やがて圧力が内側に溜まり切り、後に迎えるべきなのは幾らかの小爆発。
だが衝撃が少年の体を貫くよりも先に、エミルの方が先んじて机へと帰還していた。
「たーだいま。なんや、えらい混んどったから時間かかっちまって」
時間の経過についての軽い謝罪をしながら。
しかしエミルは言葉を全て言い切るよりも先に、戻ってきた場面に満ちる雰囲気について反応をせざるを得なかったらしい。
「っと、どうしたん? そんなお互いにあっつーい目線を送り合って、気色悪い」
おそらくエミル自身にとっても想定以上に、古城の食堂における混雑は彼の精神をそれとなく消耗させていたらしく。
通常よりもかなり砕けた口調へと変わっている、もしかするとこれが割かし男の素に近しいのかもしれない。
そんな事を予想させる、エミルは態度を変更する暇も無く。
今はとにかく、腕の中にある品々を安置させることに集中をしたがっているようであった。
「ほれ、ほーれほれ。頼まれたもん、早よお受け取ってくれや」
そう言いながら、エミルは左腕に携えた盆の一つをルーフの座る場所へと差し向けている。
「あー、ありがとうございます」
ほとんど反射的反応に近しいところで、ルーフはエミルから盆の上にある食品を受け取っている。
動作の途中に置いて、そう言えば自分はここに昼食を摂りに来たのだと思い出している。
「いいですね、美味しそうですね」
ルーフが重さのある皿の数々、料理の品々を体の前に置いている。
それを目で確認しながら、ハリがなんとも物欲しそうな目線を少年の方に集中させていた。
「いろいろとお話をしていたら、なんだかまたお腹が空いてきたような気がしますよ。どうしましょう?」
頬の中身に唾液の気配を潜ませながら、なぜかハリはルーフに質問のようなことをしている。
ルーフは男の顔を見て、箸で皿の上にあるものに手を付けようとする、それよりも先に。
「…………あげねえからな」
考える暇も無く、本日に置いて最大レベルのナチュラル具合で、ルーフはハリに向けて牽制をしている。
「失敬な!」
てっきり、またしても適当にへらへらとはぐらかされるものだと思い込んでいた。
ルーフの期待は外れて、ハリはそれまでの調子から大きく外れて、いかにも真面目そうに反論を述べている。
「ボクがそんな、人様の食べ物を盗るような人でなしに見えますか!」
真っ向から否定文をぶつけようとしている。
伝えたい所の内容はそれなりに理解できる、のだが、しかしルーフはどうにも男に不可解さを抱かずにはいられない。
「なんかもう、この人のキレどころがよお分からへんのやけど…………」
これ以上は付き合ってられないと、ルーフは諦観じみた脱力の中で食事を開始している。
短時間でかなり憔悴をさせられている、エミルは少年に同情じみた目線を送っていた。
「許したってくれや、こいつは昔からこんな感じなんよ」
果たしてそれがフォローになっているかどうかも怪しい。
しかしエミルにしてみても、これ以上は昼食のための時間を無駄にするつもりは無いようであった。
「…………、…………、…………」
よもや彼らに食事中に花を咲かせる、新鮮で瑞々しい話題の種が用意できるはずも無く。
ルーフが皿の上の白身魚のフライ、割かし肉厚でほのかに塩気を感じさせる一品を食らい尽くし。
茶碗の中にある米粒を、不必要と分かっていながら洗浄の際の手間暇を考慮して、一粒たりとも残さぬよう注力して回収しようとしている。
その頃合いにて、一応ながら会話のタイミングをうかがう程度の遠慮深さぐらいは有していたらしい。
ハリが向こう側に座る二人の様子を見ながら、唇を再び開いている。
「それで、お二人は本日どういった用事があってここに訪れたのでしょうか?」
すでにコップの中身は空になっている。
これ以上何をするかと思えば、ハリはいつの間にやら手の中に一冊の漫画を開いていた。
「どうって、言われてもな……」
ハリに質問をされたエミルは、問われた内容にどの様して答えるべきか少しの間考えを巡らせる。
「誰だったか、いつまでも同じような生活ばかり続けるのも、逆に体に毒だっていう。貴重なご意見を貰ったんでな」
はて、そんな理由があったとは。
初耳である、とルーフが静かな驚きを喉の奥でひらめかせている。
それを知っているかいないか、大した関連性も無いままにエミルは解答に結びをつけている。
「あー……、理由としてはそれぐらいやな。要するに、たいした用事なんてもんは無いんだわ」
内容をそのまま態度で補足するかのように、エミルはなんともリラックスをした表情で、半分ほど残った水に手を伸ばそうとしている。
透明なふちに唇を寄せて、若干ぬるくなった中身で歯の隙間を濡らしている。
若干上に向いている、ルーフは男の横顔を見ながら内心に一つ、小さな疑いを抱いていた。
「用事もないのに、怪我人をあっちこっちに運ぶようなことをして大丈夫かいな」
明確に詮索をするつもりで、しかしルーフは内容が少しアバウトすぎたかもしれないと静かに後悔を抱く。
意図をどれほど理解できたかは、それこそ個人にだけ限定された内容でしかない。
エミルは水をふたくち飲み下し、水分を得た喉でルーフに笑みを向けている。
「とってもこの提案は、オレひとりのオリジナルと言える訳ではないんやけどな」
まだほんの一滴、雨粒の一欠けら分だけ残っているコップの底を、食堂の机の上に置いている。
エミルは目線をルーフから外し、見える先を此処ではない何処かへ僅かに送る。
「それって……」
深い青色の瞳が見ている、先を追いかけることもしないままにハリがそっと確認をしてきていた。
「妹さんからの助言、ということになるんでしょうかね?」
口調には何の面白味も含まれていない。
平坦な声音で語る、ルーフは最初ハリが誰の事を語っているのか、理解するのに一寸ほどの間を必要としていた。
「妹…………」
とりあえず一番身近な単語ばかりを脳に受け止めている。
ルーフにしてみれば、声音は出来る限り最小限に抑えていたつもりであったのだが。
「少年?」
集中はやはり想定外に、ルーフの耳はエミルの声を軽く受け流している。
「少年……、ルーフ君……」
聞こえているはずの声が、どういう訳か理解の外側へと押しやられている。
しかし状態は長く続かない、空想は割り方手早く破壊されていた。
「もしもし!」
ほとんど打撲に近しい衝撃があった。
実際にしてみれば、エミルはただ単に彼の肩に手を置いただけにすぎないのだろう。
だがルーフはまるでホラー映画の鑑賞者よろしく、その体から劇的に熱を通過させていた。
「な、んだ?」
どうして自分は、自分が他人に肩を掴まれているのだろうか。
仕打ちの理由とは?
「なんだも、半田もありませんよ、王様」
少年の質問に答えていたのは、以外と言うほどのことでもないのだろう、ハリであった。
「いきなりブツブツ、ブツ、と。妹、妹、妹……って呟き始めたから」
ハリは手短に理由だけを伝えている。
相手がその事実に打ちのめされるか、それよりも先にハリは堪えきれないかのように感想をこぼしていた。
「ああ、やっぱり、やはり。王様、あなたは妹に、家族に会いたくて仕方がないのですね」
予測はおおよそに置いて正解と言えたのだろう。
少なくとも、全くもっての百パーセントな誤りとは言えない。
内心を把握された不快感は確かに存在していた。
しかしルーフは苛立ちを覚える以上に、その眼鏡をかけた若い男の、明るい緑色の瞳に何か。
温度の少ない、触れるのをためらうほどに繊細な気配が漂ったことを、ルーフは視界の中で認めている。
少年が見つめる眼球の先、ハリは左指で漫画のページを繰った。
微かな紙のが喧騒にかき消される、音色の薄さは確かであったはずの存在すらも怪しくさせていた。




