表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

440/1412

行動を共にしよう

 間違いなく集中はこの一冊に注がれていたはずであった。


 キンシは首を傾げたままの格好で、首のバランスに違和感を覚える以上に、左手の中にある漫画の単行本に目線を動かせないでいる。


 はて、客人はどうしてこれに気を取られていたのだろうか。

 

 キンシは首を元の形に戻す、ついでのつもりでハリと言う名前の男の様子をうかがっている。

 

 キンシが目線を向けている先、そこにハリはまだ立っている。


 何かしらブツブツ、ぶつくさと唇に文句を呟きながら。

 キンシの部屋の中、紙の本で散らかり放題となっている、粗雑な床の上をどうにかしてやり過ごそうとしている。


 ハリがひょこひょこと、赤ん坊のようにおぼつかない足取りで、しかしながらその爪先は床の上の物品と一切の接触を起こしていない。


 さながらバレエのステップのようになっている。

 やがては部屋の中の障害を全て、難なくとクリアし、ハリはそう大して時間を要することなく一旦の安息地へと向かうであろう。


 そんな可能性に満ち溢れている。

 ハリの背中には今のところ何の焦燥感もみられない。


 少なくとも今、この瞬間だけは。キンシの眼球、たった一つ残されている右目がそう判別をしている。


 分けて、別れたくなる。

 それほどには先ほどハリの全身を支配していた緊張感は、とても看過できそうにないものではあった。


「……?」


 果たしてこれが何の意味を持っていたというのだろうか。

 一度生まれた疑問は確かな存在感を持ち、やがて重さは喉の辺りへ強い圧迫感をもたらそうとしている。


 気になることはすぐに確認するべきである、と言うのは誰の格言だったか。

 誰の言葉でも無かったかもしれない。

 ただ次に起こそうとする行動の言い訳のために、いかにもそれっぽい言い回しを思いついただけにすぎないのだろう。


 キンシは自己判断を静かに奥歯で噛みしめがら、左指はほとんど無意識に近しい所で確認作業を実行しようと。


 したところで。


「先生」


 少女の動きを止める声がする、青年のそれと思わしき低い声音はかなり酷いノイズが大量に混ぜ込まれているようであった。


 名前の代わりのつもりなのだろうか、呼ばれた本人はその単語が自身を意味するものである事を認識しているようだった。


「なんです? トゥーイさん」


 代名詞を呼ばれた、キンシが青年の声がする方へと質問文を投げかけている。

 唇を先に動かしていたのは、呼びかけられた相手が少なくとも少女にとっては既知の間柄であること。


 関係性があり、敵性関係である可能性が限りなく低いこと。


 一定の信頼関係があることが、キンシの頭の中ではすでに日常風景として組みこまれている。

 信じると言えば言葉の雰囲気を気持ちよく、綺麗にすることは出来るが。しかしながら、そんなものはただの油断であると。


 キンシはそう気づかされている、その理由は少女の元に一陣の風の如き衝撃波が走っている、現実のただ一つだけに総合されていた。


「うわ?!」


 他人の体が自分へ向けて、まさしく脇目もふらずに突進してきた。

 一塊の影がトゥーイの姿かたち、においをしていること、それ位のことならばキンシにも認識することが出来ている。


 言い方を変えれば、たったそれだけの情報しか得られなかったとも言える。


 状況に対する情報があまりにも少ない、キンシは狼狽をする暇も無いままに青年の勢いに呑まれて、自宅の床に向かって激突を起こそうとしていた。


 悲鳴をあげかけた所で、衝突の激しさで舌を噛み切る危険性があると、無意識に近しい部分だけが冷静なる判断を下している。


 さあ、後に訪れるのは落石の如き虚ろなる落下だろうか。

 キンシは身構える。


「……?」


 だが、キンシと言う名前の魔法使いの少女が期待した展開は、どれほど待ち望んでも彼女の現実へ出現をすることは無かった。


「あらあら」


 訪れた沈黙を、裁ちバサミで端切れを扱うかのようにして切断をしたのは、客人用の飲料を用意し終えたメイの声であった。


「どうしたの二人とも、そんなところで社交ダンスパーティーでもひらくつもり?」


 メイは両手に湯飲みを乗せた盆を携え、炊事場のすぐ近くに設置してあったちゃぶ台に人数分の器を難なく届けている。


「変なことしていないで。ほら、お客さまがまっているわよ」


 盆の上の茶器を一つ、メイは大人しく待機しているハリの前にそっと差し出している。


「さあ、どうぞ。粗茶でございます」


 鉄国(この物語の舞台となる土地の名前)に古くから伝わる、正確な発祥は不明の前置きを一つ。


 メイの白い指が差し出している。

 湯飲みの内側には鮮やかな緑色をした飲料が、濃密な香りと共に白い湯気をたっぷり、ゆらゆらと空間へたゆたわせていた。


「やあ、これはこれは、悪いですね」


 挨拶を自然なものとして受け入れながら、ハリは差し出されたものへ早速と手を伸ばそうとしている。


「ありがたいです、いろいろと喉が渇いて仕方がなかったのです。助かりました」


 理由は単に、他人の家に用件を済ますというささいな出来事に対し、ハリが個人的な悩みと逡巡を不必要なまでに累積させていた。

 ただそれだけの事にすぎない。


 だが、よもやハリ本人が正直にそれを相手に申告する義理も無く。

 そして、緊張の起因たる相手側。つまりはメイの方にしてもわざわざそこに追及の手を伸ばそうなどとは、今のところは選択肢の梢を伸ばすつもりは無かったらしい。


 「あち、あち」


 ふうふうと、ハリは唇をすぼめて飲料の熱をやり過ごそうとしている。

 やがては冷却作業に諦めをつけて、ハリはまだまだ大量の熱気を帯びている液体の、表面張力を口内の赤い柔らかさへと受け入れていた。


 味を確かめる余裕も持たないまま、男の喉が嚥下の音色を奏でている。


 テレビに放映される発泡酒のコマーシャルさながらの音量、それを左右の聴覚器官に受け止め。


 メイの紅い椿の花弁と同じ色の瞳は、客人の動きをジッと見守るようにしている。


 椿の魔女は瞬きも少ないままに。

 目線の集中はやがてハリへ察知されていた。


「いやあ、本当に美味しいですね」


 思い切って口をつけてみたは良いものの、やはり湯飲みの中身はハリにとって受け入れ難い温度を強く残していた。

 だから当然、味を確かめる余裕など無かったのだが。


 しかしながらハリは虚偽の内容に躊躇いを見せることなく、指の先は次なる行動へと移行している。

 

「喉の渇きに、熱いお茶は本当に嬉しいものです……」

 

 白々しい賞賛の後に、ハリは一旦湯呑をちゃぶ台の上に放置することにしておいた。


 中身をこぼさないように、必要最低限の集中力を指先に支払った。

 その後に、ハリの目線がメイの方へと向けられている。


「どうかしましたか? まるでボクが、今すぐにでも喉を掻き毟って泡を吹くことを期待しているような目つきですね」


 次に口をついて出てきた台詞といえば。

 ハリは発した言葉の裏側、無言の意識の中で己の無礼具合に羞恥心を爆発的に膨張させている。


 これでも一応は、ハリと言う名前の個人が持ち合せるなけなしのユーモラスを発揮したつもりではあったのだが。


 しかし、効能は彼が期待しているとおりの現実をもたらそうとはしなかった。


「そうね、この前のキンシちゃんみたいな疑いも、私だって考えることぐらいはできるわ」


 一応ながら、メイはボケの元ネタはキッチリと回収をしてくれている。

 しかしその優しさも、ハリに向けられた優しさでないことはほぼ確実な事柄であった。


「冗談を言おうとしてくれたのかしら? もしそうだとしたら、あなたは今とても、とってもムダな努力をしようとしているわ」


 メイは床の上に正座をしようと。

 身につけている白を基調とした薄桃色のリボンが映えるワンピースの、レースがささやかにひらめく裾を(もも)の裏にそっとまとめている。


「せっかくここまで来てくださったことは、それはやっぱりちゃんとねぎらうべきなのでしょうけれど。

……でも、お願いだからそれいじょうを期待しようとしないでくれないかしら?」


 椿の魔女はハリに対してなんら誤魔化そうともしてない。

 自らの感情を表明する方法としては、かなりストレートなものとなっている。


「これは驚きました」


 敵意を向けられた、ハリはしかしてメイに対して怒りやそれに類似する感情をみせる素振りも無く。

 その唇。全体的に不健康な色合いをしている前身の中で、何故か発声器官の一部である二枚の薄い肉は強い生命力を灯らせている。


 濃い赤色は、外見で確認できる分には笑みを浮かべているように見える。


 ハリは魔女に向けて笑いかけている。

 

「……」


 ハリに笑みを向けられた。

 メイは彼の笑顔が何を意味しているのか、どうにかして把握をしようとしていた。


 そのためには観察が必要で、だからこそ彼女はハリの顔に注目をする必要があった。


 しかし、状態は彼女が思うように長く継続することは無かった。


 気かづいた頃には、メイは自発的に目線を男から逸らしている事に発覚を至らせている。

 見続けることが出来なかった、それが不快感に色濃く由来をしていること、分析だけがメイの意識に無機質な情報を伝達している。


 目線を逸らした先には、相変わらずハリの体が存在をしている。

 対象が動きを見せていない限りは、同一性に疑問を抱く必要もない。


 そう考えようとして、メイは再び焦点を男の顔面へと戻すことをしている。


 そこにはやはりハリの笑顔があって。

 例えば空元気によるものであるとか、あるいは社交辞令の平坦さがあるという訳ではない。


「まさかあなたに冗談を言ってもらえるだなんて、この間のボクにはまるで予想がつきませんでした」


 ハリは笑っている。笑顔は在るべき感情だけを含む、彼はとても楽しそうに笑っていた。


 愉快そうにしている、その理由がメイには度し難いものであった。


 この男は一体?

 どうして自分に対して、純粋に逸楽(いつらく)だけを味わえているのだろうか。


 魔女はハリに、城からやって来た魔法使いの男に対して疑問を抱いている。

 やがてそれが別の感情に変化をしようとした。


 そのタイミングで、魔女の願望もまた実現に至ることをしなかった。


 ガタン!

 何か硬い物がぶつかり合い、擦れ合う音がする。


 部屋の中にいた人間たちが、ひと時のあいだ目線を同一の方向へと固定させていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ