ソックスの即売会に移行
フラッシュバックの気配、とでも言えばよかったのだろうか。
しかしこの表現はいささか詩的すぎると、ハリはすぐに頭の中で浮上した文章を否定しようとしていた。
ハリ本人が自発的にそうしたくなる程には、無意識の内に芽を出した感覚は彼に強い影響力をもたらそうとしている。
彼がじっと目線を固定させたまま、さながらコップ一杯程度の小規模な氷魔法でも振りかけられたかのようにして。
動きをその場で止めてしまっている。
やがて違和感に気付いたのは、ハリ本人ではなく彼が眼球の方向を固定している先。
キンシと言う名前の少女、彼女が先んじて違和感についての疑問文を口にしている。
「じっとこっちを見ている。何なのでしょう? 僕の顔に汚れでもついているのでしょうか」
言葉こそ質問文の体を作っていながら、しかしキンシは推測の域を不安の柵の内へと移動させずにはいられないでいる。
「ああ、もしかして。先ほどこっそりつまんでいた、いただき物のサブレの欠片でも付着しているのでしょうか。もしそうだったら、これはかなり恥ずかしい……」
妙に説明口調となってしまっている。
キンシがかすかに慌てながら、上着も身につけていない素肌の左上でごしごしと唇の汚れを雑に拭い取っていた。
少女の左腕。
そこはまるで質の悪いガラス板のように、透き通った要素に包まれている。
とても人間のそれとは呼べそうにない色合いをしている。
だが左腕は確かに人間の、まだ成人を迎えていない体と思わしき輪郭を現実になぞっていた。
キンシが透明な左腕で唇を拭き取った。
その頃合いには、ハリもそろそろ自分の行動を省みれる程度には冷静さを捻りだせている。
「おっと、これは失礼しました。女性……、というかこの場合はそれ以上に、人様のお顔をむやみやたらにジロジロと眺めまわすべきではありませんでした」
早速ながら礼節を一つ欠いてしまった。
ハリはその事に関して羞恥心を抱こうとする。
だがそれよりも、彼の心には別の感情が生まれていることも否定しようが無い事実ではあった。
「ちょっと、ちょっとですね。昔の知り合いとあなたが、どことなく似ているような気がしたものでして……」
もそもそと独り言を呟くようにしている。
実際ハリが供述しているそれはとても個人的なもので、それこそ他の誰に向けたものでもない。
言うならばハリ自身、ただそれだけの超限定的な言い訳の一つでしなかった。
だが、一度でも言葉として発せられたものは、時として持ち主の意向をこえる質量を有するのが世の常なのか。
「受け入れられない」
一体何時の間に。
ただでさえ移動に制限がかけられるであろうこの室内に置いて、それほど気配を消して接近をすることが出来たというのだろうか。
ハリは疑問を抱く。
だが彼の元にはいつまで経ってもそれらしい納得が訪れることは無く。
ただただ現実が、もっと具体的に言えばトゥーイという名前の青年が、ビスクドールにも引け目を取らぬ眼力でハリの事を見ている。
むしろこの場合は、睨んでいると言った方が正しいのだろうか?
「………」
そう判断するのは、流石に早計が過ぎるだろうか。
ハリは考えようとして、しかしながら何故に自分がこのように言い訳じみた事を付着させるのか。
必要性を考えたくなる。
彼がそうしたくなるほどには、トゥーイという名前の青年はあまりにも無表情であった。
感情が何も見えない。
まさかトゥーイにしてみても、ハリをこの場所に歓迎しようとするだとか、そのような楽観的観測をしようとは思わない。
だとしても、せめて怒りだとかその辺の感情表現でもしてくれればと。
ハリは白髪の青年に対して願望を抱きたくなる。
期待してしまう程度には、実のところハリ自身も他人の目線をあまり得意としていなかったのである。
「うん、同居人にこれ以上のむかつきが溜めさせるわけにはいかないでしょう。大人しく、大人しくしていないと」
自分に向けたはずの言葉は、しかしハリ当人を遠く通り過ぎたものの響きを含んでいた様な気もする。
さて、ようやく招かれた客人らしい挙動を作りだそうとして。
「しかしながら、それにしたってひどい有様ではありませんか?」
だがそれすらも上手くできない、理由は残念なことに彼の狭苦しい視界でもありありと現実に影響を及ぼしている案件ではあった。
「他人のインテリアに文句を呈せる程に、ボクはボク自身に卓越したセンスがあるだなんて、口が裂けても言えませんけれども……」
ハリは床の上、と認識されるべき面積に目を向ける。
目線を向ける、と言う行為自体は言葉そのままの意味と捉えても差し支えないだろう。
だが現時点において視界に許された光景に、人間の住居に必要とされる「床」の部分がほとんど消失してしまっている。
「これ……全部本ですか、すごいですね。よくもまあ、これだけ……」
本、漫画、文庫本からハードカバーに至るまで。
書籍と呼称される物品を、ひとところ、同じ空間にこれでもかと寄り集めたのではないかと。
そんな出過ぎた邪推をしたくなるほどには、この室内の無秩序具合は目をつむることも叶わぬ有様であった。
客人が精一杯のオブラートに包んだ感想をこぼしている。
その様子を見やり、部屋の主たるキンシが消え入りそうな声音で恥じらいだけを見せている。
「いやあ、その……。メイさんにも指摘されているとおりに、部屋の洗浄整理整頓の至らなさは重々承知のことでして……」
左と右の人差し指の先端をこすり合わせながら。
キンシはまさに子供が何か都合の悪いことに言い訳をするようにして、目線をハリのいる方から逃れるように逸らしている。
「しかしながら、この様なシチュエーションが訪れるとは。これは、メイさんの言う通りにきちんと部屋の掃除をすべきでした。これは完全なる僕の失態ですよ」
後悔するかのようにして、キンシは自身の不摂生に対する自責の念を弁解のように述べている。
だが少女の供述は、内容が第一に届けられるべき相手に情報として伝達されてはいなかった。
聴覚器官としての機能こそは音声を律儀に拾っているものの、ハリの脳細胞はキンシの言葉を意識の内に認めようとしていなかった。
有り体に言えば話を聞いていなかった、ただそれだけの事で片付けられる。
だがその時点におけるハリの思考は、単なる聴覚の不備及び不具合に責任を全て押し付けられるほどには、明快さを発揮できないでいた。
「……ハリさん?」
無言の範囲だけが広がり続けている。
キンシがそろそろ彼の沈黙に違和感を抱き始めている。
だが少女が表情に怪訝さを浮かべていながらも、ハリは閉じた唇の形を変えようとしていない。
「それが、どうかしたのですか?」
彼の目線、緑玉の色をした瞳がジッと一つの場所へと向けられている。
それは部屋の床の上、散乱する書籍の山々の中からかなり範囲を絞った場所。
そこには他と同様に紙で作られた本がある。
キンシはもう一度、確認としてハリの視線を眼球から辿り、やがておおよその目安を独自で見出していた。
「その漫画ですね、最近読み始めたのですよ」
客人の注目を浴びている、キンシは話の種になることを期待しながら床の上の一冊を手で持ち上げている。
「絵が可愛くて素敵だと思ったんですよね。まだしっかりと読み込んではいませんけれど、ストーリーもなかなかのものでして……」
持ち上げた一冊は漫画の単行本のように見える。
表紙にはそれ専用にデザインされたイラストが印刷され、インクを吸い込んだ紙が独特の香りを微かに空間へと漂わせている。
「ジャケ買い、というのでしょうね、こういうのって。いつも利用している本屋で、何か目新しい出会いを求めて購入してみたものの。いやはや、今回の冒険は上手くいって良かったです」
話題の切っ掛けとして自身の近況を報告する。
格好としてはありきたりな雰囲気を作っていながら。
語る口調には情報のやり取り以上に、キンシ本人の抱く感情の色合いが多く含まれているように見える。
にやにやとした笑みを隠そうともしていない。
少女の微笑みにハリはそこでようやく目線を紙の束、一冊から目を外すことを実行していた。
「それを買って、買って、読んで」
まるで長い夢から、たった今目を覚ましたかのように。
ハリは眼鏡の奥でゆったりとした瞬きを数回、やがてはついに目の焦点を本ではなく人間へ、キンシの方へと修正することをしている。
「良かったと思いますか、あなたは後悔をしていませんか?」
ハリがそう質問をしている。
本人こそまさに内容についての理解と意味を伴わせていないことは、他でもない質問主であるハリ自身が一番強く自覚していることだった。
「ああ、いや、その……」
一回でも言語化して、音声として相手に伝えてしまったこと。
奇跡にでも頭を垂れて、足の親指にでも縋りついて唇でも捧げない限りは。たとえこの世界であっても、よっぽどのことが無ければ過去の出来事を修正することなど不可能に等しい。
だがハリは、このようにささやかな事に限って後悔ばかりを抱かずにはいられないでいる。
そんな自分自身に違和感を覚えながら、それでもハリは弁解の論を止めることが出来ないでいた。
「何でもないです、聞かなかった事にしといてください」
失言をしてしまった。
発言をした時間は安易に取り戻せない。
とはいえ、このまま相手に向けて自身の動揺を見せつける義理も無しと。
ハリは脳内で速やかな判断をつけたのち、これ以上会話を続行させても余計ボロばかりを生産するであろうと。
判断をつけるや否や、ハリはキンシから早急に距離を取ろうとしていた。
すたすたと、それまでの戸惑いも嘘くさくなるほどにはスムーズに部屋の内部を進む。
ハリの後姿を眺めて、キンシは首を傾げずにはいられないでいた。
「何なのでしょうか、何かご機嫌でも損ねる事をしてしまったのでしょうか」
疑問はさらなる深みを伴って。
キンシは手持ち無沙汰と言った様子のままに、左の手の中に握りしめられている漫画の一冊へと視線を落としていた。




