カップケーキに魂を売ろう
どうせ名前を使うのならばせめて、その名に相応しい礼儀もついでに演出してはくれないものか。
ルーフがそう考える。
もしかするとそれは期待に近しいものだったのかもしれない。
となれば、よもや寄りにもよってハリと言う名前の男が少年の、せいぜい自販機の下に小銭でも落ちていないかそうでないか、その程度の願望を実現するはずも無かった。
「王様は本当に馬鹿ですね、愚かですね。愚かすぎて、ボクは涙が出て来てしまいそうですよ」
大きく溜め息をする素振りを作っている。
ハリの言葉に対して苛立ちを抱かなかった、といえばそれはまさに嘘、虚偽の内容となってしまう。
だが、ルーフはもうこの事に関して、とりわけこのハリに対していちいち感情を動かしている場合ではないと。やり取りの連続性に限度を覚え始めてもいた。
「まあ………なんだ、俺が今後化け物か、怪物かモンスター。それか、もっと別の何かになるかどうか、その辺は俺にしてみればどうでもいいんだよ」
嘘の感情のさらに上に、ルーフは別の嘘を仕上げのソースよろしく格好良さげに振りかけている。
「俺がこの先どうなるとしても、………それは俺の願っている事とは何ら関係性は無い………」
嘘をつくときは、その内部に小さじ一杯分でも本当のことを混ぜ込むべし。
と言うのは、これも確かルーフの祖父から教えだったような気がする。
教えられた内容を上手く実行できているか、いないか。
是非はともあれ、ルーフの頭の中ではイメージが自動的に生成されようとしている。
嘘を切っ掛けとして、物言わぬ火種から零れた光が記憶の暗黒をかすかに照らしだす。
記憶は膨大な量の情報を内包する。
ほんの少しでも気を抜いてしまえば、ルーフは目を開けたままで夢見心地の過去回想に身を攫われてしまいそうな。
そんな恐怖感を抱く、予感はしかして実際の問題へと力を及ぼさんとしている。
「俺は今も昔も、自分にそこまで関心を持ちたいとは思えないんだ」
ポツリポツリと、まるで事情を供述するかのように、唇がいかにも慎重そうに二枚の薄い肉を蠢かせている。
「そんな価値がどこにある? 俺はどこまでも普通のやつで、それは今でも、これからもそうあるべきなんだよ」
言葉の途中で、ルーフはふと体のどこかしらが、そこはかとなく耐え難い痛みを脳に訴えかけている事に気付く。
感覚を辿り、目線を映した先は己の肉の一部、右の手とされる部分が眼球へと映り込んでいた。
拳が丸く、しかしながら完全なる円形は永遠に望まれることはなく。
そこはどうしようもない程にはルーフの肉体の一部であり。
しかしながら、どうしてなのか少年はそこが、今にも破裂を起こさんばかりに熱を帯びている。
その場所、肉と皮と骨の一部分が自らと同じ構成物に由来するものである事を、上手い具合に認識することが出来ないでいる。
どうしてなのか?
ルーフが疑問を抱きながら、それよりも先にまずは指と指の堅苦しい結束を一刻も早く解くべきか。
ルーフが、少年が考えている。
生れ落ちた小さな沈黙の、微かな息吹さえも押し殺すようにして。
声を発していたのは、少年と机を挟んだ向こう側にいるハリと言う名前の男であった。
「なるほど、ですよ。王様はご自分に関してのお話をあまりなさりたくない、と。そういうことなのですね?」
ハリは口の先から、まるで質問文のような確認事項を述べている。
だがそれは問いかけというよりはむしろ、相手に有無を言わせようとしない、命令文さながらの脅迫じみた硬質さを秘めているように聞こえてきた。
「そうとなれば、はて? どの様な内容の事柄をお話すれば、どの様にして王様のご機嫌をとることが可能となるのでしょうか。これは大変、実に大変です」
形容しがたい不快感を呼び覚ます口調を駆使する。
ハリはやがて、一つの妙案を思いついたと言わんばかりに眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「そうです! ちょっとした昔話でもしませんか」
「………昔話?」
一体何を言うつもりだったのだろうか。
少なからず、図らずして期待の心持ちを少しでも抱いてしまっていた事。その事に気づけたのは、ルーフが相手の言葉を聴覚的情報として認識することが出来た後の事象であった。
「予想の遥か斜め下をぶち抜く、クソつまらなさそうな話だな」
単純な物理的力関係のことを考慮すれば、圧倒的にハリの方が優位な立ち位置に存在をしている。
その位のことならば、ルーフにもおおよそ把握することは出来ていた。
のだが、そうであったとしてもルーフは相手側の提案に、心からの賛同を送ることは出来そうになかった。
「どこの誰があんたの昔話を聞きたがるってんだよ。よしんばこの世界の何処かに関心を持つ奴がいたとしても、それは俺ではないことは間違いねえよ」
拒否感は堪えようも抑えようもない。
そうとなれば、もう必要以上に隠匿をする必要もないだろうと。
ルーフは破滅願望にも似た諦めの中で。
せめて相手の動向に、少しでも多くの否定的意見を投げかけようと試みている。
「まあまあ、王様」だがハリの方は少年の否定的意見などまるでお構いなしと。
「そんなお寂しいことは言わないで、せっかくですからおつきあい願いますよ」
結局は会話相手の都合など最初から考慮などしていなかったと。
おのずからその事実を声高に申告するかの如く、ハリはすらりと新しい会話を開始している。
「そう………あれは十年以上前のこと」
「おいおい、何が始まろうってんだ?」
拒否感がどれほどの意味を為したか。
よもやそこに期待を抱いていたつもりなど毛頭無かった、そのはずなのに。
ルーフは我が物顔で会話を進めようとしている相手に対し、新たなる苛立ちに身を焦がさんとしている。
猜疑心と怪訝さをたっぷりと含んだ、少年の琥珀の色をした瞳に目線を固定されている。
だがハリは彼の厳しい視線と目を交わそうとせず。
眼鏡の奥の瞳はあたかも思考に身を浸していると言わんばかりに、左斜め上の辺りを正体なく漂っていた。
「その昔、ボクはとてもとても、とてつもなく人の名前を覚えるのが苦手な子供でした」
せめて話題の邪魔でもしてやろうかと、ルーフは考えた所で思案をすぐさま打ち消している。
なにも男の話に関して好奇心を抱いたという訳では、決してない。
ただ理由を一つ、強引にでもくっ付けるとしたら、予感が一つうまれていたのかもしれない。
それはあまりにも頼りなく、瞬き一つ、呼吸を一回でも繰り返せば、たったそれだけで跡形も無く霧散してしまいそうな。
予感はさして時間も有さぬほどに、ルーフの脳内で一つの回答が結び付けられていた。
「それって………。俺の名前をいつまでもマトモに呼ぼうとしない、その理由ってまさか………?」
まさかこの相手に関して希望的観測を出来るはずも無かった。
そう断定していたはずなのに、ルーフはものの見事に希望を打ち砕く相手に、今や絶望以上に呆れによって精神の平衡と健康を崩壊させんとしている。
気がつけば体は無意識の内に前方へと傾いていたらしい。
重力が胸の少し下、みぞおちの辺りに襲いかかってきている。
感覚に気付いた頃には、ルーフは乗り出しかけていた体を、強く意識して元の位置に戻す必要があった。
内層に込められている感情の色合いが何であれ、一応は会話として相手の好奇心を引き出すことには成功をしている。
だが少年がティースプーン一杯ほどに抱いた興味も、どうやらハリにしてみれば価値の対象にたりえるものではなかったらしい。
「そういう訳ですので、ボクは先日出会った人たちのお名前もろくに思い出せないのです。そうなのです」
前提を置きたがったのは、どうやら話題の不明瞭さに関しての言い訳のつもりだったらしい。
少年が胸の内で理解を無理やりにもくっ付けようとしている。
思考を働かせるのに忙しくして、少年は嘘ですら発せられないでいる。
沈黙はやはりハリにとって都合のよいものでしなかったらしく。
相手側が黙っているのならば、自分の方は好きなだけ話していると認識していると。そう言わんばかりに、ハリはいかにも手前勝手に語りを止めようとしない。
「ですので、ここからお話しするのはつい先日、ボクがお仕事関係で出会った人たちのことなのです」
「いきなり時代が飛ぶな、もう少し展開に分かりやすい説明をだな………」
展開の運びに文句を言わずにはいられないでいる。
だがハリは少年の指摘を無視して、自分が話したいことだけ、だだそれだけを我が路と突き進もうとしている。
「あの時はなかなかに大変でした。どれくらい大変だったかと言うと、玄関先のイワシの頭にお祈りしたくなるような、それ位には大変な事でした」
立春の怪物じみた台詞をぬかしている。
だがルーフは男の例え話に追及をするよりも、それよりかは話の続きに耳を傾けることにしている。
そうしたくなった、理由は上手く言葉にできそうにない。
ただ、確信も何もない直感だけが少年の肉体を大気の状態へと固定させていた。
ハリは話を続ける。
「ボクはとあるお家へとお邪魔したのです。それはこの前のこと、個人的な依頼をとある人物へとお願いするために、ボクは……──」
ハリと言う名前の男が話すところによれば、こう言うことらしい。
供述された内容の通り、ハリは先日。
と言うのはつまり、今日ではない日のこと。現在から過去の話、おそらくルーフがまだリハビリにあくせくと体を、肉体の今まで使ったこともないような筋肉を酷使しまくっていた。
その頃合いの話らしい。
ハリは灰笛と言う名前の都市の、そこの海沿いにあるとある住居へとひとり出かけていたらしい。
ドアは、ノックしない。とてもじゃないが、拳の裏側を叩き付けられるような形状、形質をした玄関ではなかった。と言うのがハリの持論。
「なんと言ってもそこは崖の側面で、背中には常に波声港湾に吹きすさぶ海風が体を曝しに曝しまくり、という感じでしたから」
どんな状況、いったいどのような住居なのだろうかと。
疑問を抱きかけた、だがルーフの意識は疑いよりも先に別の感覚を摩擦電気のように走らせていた。
「まて………それって、その家って?」




