夜ひとりで歩いている
とあることを行うことを求められている。
だが求められたところで、ルーフは果たしてハリが何を自分に求めているかどうか。まずもっとも基本的な事すら、理解することも出来ないでいる。
「行動あるのみって、まるでこの先に明るい未来でも待っているような口ぶりだな」
ルーフはハリに対して嫌味を言おうとして。
その所で、自分が一応ながら年上に値する人物に対しての礼節を欠いている事。
事実に気付いていて。
「悪いが、俺にはあんたみたいに今日明日と楽しく人生を全うできる自信は無いんでね」
だが、今更よりにもよってこの人物にどの様な礼儀を用意できたのだろうか。
丁寧な言葉遣い? まさか、ルーフにしてみればその選択こそ不理解そのものでしかない。
「冗談はよしてくれや。そんなことよりも………」
忘却のめっきを剥がした下には、どのみち碌でもない猜疑心と苛立ちだけが虚ろをどこまでも広げている。
「もっと大事な話でもしようじゃないか。こちとら、ずっと部屋に軟禁状態だったもんだからな」
情報の提供を求める意見。
要求が為された、ハリは意図をしているかそうでないか。
いずれにしても、彼は行動の内に少年の口調に関しては、とりたてて話題の中心には置くつもりは内容であるらしい。
「ああ、そう言えばそうでしたね」
ハリはまるでたった今、ちょうどこのタイミングにおいてその事実を認知でもしたかのように。
あからさまにわざとらしい、小さな驚きの挙動をひとつ作る。
もしもここが食堂でなかったら、大衆の目線の可能性に満ち溢れた空間ではなかったとしたら。
それこそハリは「びっくり仰天!」と、両手を胸の前でパッと開くことも視野に入れていたかもしれない。
その様に下らい仮説を立てたくなる。
それ程にハリの振る舞いはルーフにしてみれば逆鱗すれすれ、ギリギリの境界線を攻め立てる可能性をこれでもかと漲らせている。
「………」
心して無表情を留めようとはしている。
だがルーフはほとんど確信に近しい予想の中で、自分の顔面に隠しようもない質量の苛立ちが針の先端をチクチクと覗かせている。
少年がその事を自覚している。
心情を把握しているかどうか、ハリは相手の心理状態に見解を至らせるよりも先に、その嫌に血色がはっきりとした唇は次なる言葉を連続させている。
「そうですね、そうですとも。せっかく食卓を共にするのですから、もっとじゅーしーにふれっしゅな話題を展開するのが、王様に対する平均点ギリギリのマナーというものでしょう」
すらすらと前置きだけを用意している。
口、舌の上では調子の良いことを次々と用意している。
だがルーフは言葉に基づく情報よりも、眼球は形状だけを同じとしている、だが色は全く異なっている他人の虹彩に発生する揺らぎを捉えようとしている。
「ふむ、ですが何をお話すべきなのでしょうか……。いざ直接的に頼まれるとなると、ボクなんかは何の話題も無くて困惑に眩暈を覚えるばかりですよ」
会話をする際に最も重要視すべき情報は何であるか。
いつかの過去に、ルーフと言う名前の少年は祖父とそんな話題で盛り上がった様な、別にそうでもなかったような。
ルーフは曖昧な記憶の中で、しかし琥珀色の瞳はすでに議題がどの様な答えを得たのか。
解答も結局は行動の中で得るより他は内容であった。
「隠したって。………なんつうのかな、なんかにおいで分かるんだよ」
ルーフは言った端から、はたして自分は何のことをぬかしているのか。
頭は理解を追いつかせられずに、しかし肉体は認知している感覚を否定することはしない。
確信も確証も、何の証拠もないが。
とりあえず、ルーフはこの場面に限定して自分の直感を信じることにしていた。
「なるほどですね」
直接指をさされて異議を叩き付けられただとか、そのような激しさが含まれている訳ではない。
それはあくまでも会話の内の一幕。
だがハリは少年が主張するところの情報を異論と扱うことはせず、あくまでも証言の一つとしてあるがままを受け入れているようであった。
「これは、事態はなかなかに進行を早めているようですよ」
鼓膜の表面を害する大声ではない、かといって聴覚範囲の限界をせめる音の少なさという訳でもない。
ハリは会話だけを続行している。話しかけている声は「普通」で、伝えようとしているであろう相手を思いやる素振りの中で。
ハリと言う名前を主張する、若い男の声は少年の方ではなく左隣にいる人間へ。
その時点までは一旦、少年と自分と同い年ぐらいの人物の話に耳を傾けるだけの事をしていた。
「ねえ? アゲハ・エミルさん」
ハリが男の名前を呼ぶ。
「そうか、そうなのかもしれないな」
呼ばれた相手が、エミルが返事をする。
呼ばれ相手は、さながらたった今話しかけられたばかりだと言わんばかりに、眼球には新鮮さを呆れ果てるように見事に演出している。
「確かに異常かそうでないか、二つに区分するとすればこの事例は間違いなく前者に、それこそビニールシートとランチバスケットを携えて居座っているんだろうな」
日常的な単語を引用にとりあえず置いておくとして、エミルはしかしながらハリのにやにやとした笑みを眼中に入れることをしなかった。
「だが、それもまた予想の範疇だ」
仕事の話をしている。
内容の全て、彼らの秘密の全貌を暴くような暴挙に至れずとも。
しかし自発的に語ってくれるとすれば、ルーフは閉じた唇の内側で静電気のような緊張感を走らせる。
「予想、予定は概ね無事に実行できているさ。ただそれが、先行きも何も見えない未定で作られているってだけだがな」
エミルが語る所の、話はつまりルーフと言う名称の人間に関する今後の予定を意味しているのだろう。
「それはつまり」
ルーフが沈黙を継続させている。
静かさの上に音声を重ねるようにして、ハリはエミルに向けて質問文を言葉に変えていた。
「今後王様が……。彼が「変身」を遂げるか、可能性はすでに半数を超えている。ということなのですね?」
問いかけている、ルーフは音声を頭の中で文章化していた。
作業の途中で、少年の意識は一つの単語に関しての違和感を覚え、すぐに忘れ去ろうとして、上手く忘却の波に沈められないでいる。
樽に秘めた酒が大海原をたゆたうように。
一度でも生まれ落ちた異物感はどこまでも、何処にいようともルーフのエゴの四隅に衝突を繰り返している。
感覚はやがて確信へと成長を果たさんとしている、その頃にはルーフの方でもいよいよ疑問を喉の奥に膨張しつくしてしまっている。
「変身って、まさか………また地下道一つ分を破壊するような、そんなモンに変わるようなことが………?」
不安が全く含まれていなかったなんて、その様なことは絶対に有り得ないことであった。
しかしルーフは自身が期待していた以上に、地から腕を伸ばしてすがりつくような声色になってしまっていた。
動作に羞恥心を抱くこと、それ以上にルーフが自身の胸の内を圧迫する不安が、その正体、根源がどこから由来しているのか。
少年が上手く把握できないでいる。
彼が音声の後で内省を暗闇に包まれた口内の中、味来の上で飴玉のように、何時まで経っても溶ける事のない自覚だけを音も無く味わっている。
「不安を抱く必要はありませんよ、王様」
自然と視線が下の方へ、向けらえた線の先には当然のことながら食堂の机がある。
ちょうど映り込んだのは、もはやほとんど空になりつつある食膳一つ。少年に向けて声を発しているのは、膳をを消費した本人であるハリの声であった。
「下手に考えばかりを巡らせてはならない、という場面をこの世界にはままあることなのです」
まるで子供に言い聞かせるようにしている。
実際の話、ハリにしてみればルーフなどはまだ青二才にすら満たしていない、ただの子供としてしか認識していないような。
そんな想像を、思い浮かべているルーフに構うことなく、ハリは眼鏡の奥で目線を遠くに向けている。
「そうやって、考え過ぎて身を滅ぼしてしまった人を何度も、何回も見てきましたよ」
思い出を振り返るようにしている。
ハリの表情は穏やかさそのもので。もしも写真家なにかで像だけを切り取ってしまえば、大多数の善良なる意識は感心を抱くこともなく、他人のアルバムを覗き見た秘密の甘さだけを享受できてしまえそうな。
そんな平和に満ち満ちている。
ハリは満ち足りた表情で、ほんの一時の間思い出に身を浸らせようとしている。
記憶を掘り返すことに是かそうでないかを判断するのは、そんなものは個人の心情的問題の狭苦しい判断基準である。
しかし好奇心は止めようも無く、他の誰かに抑制されたところで留まりようも無かったはず。
ルーフが椅子の上で、バランスを崩さない程度に机の上で身を乗り出そうとしている。
だがそのタイミングで、エミルが少年よりも先んじて行動を起こしていた。
「オレは、あー……そろそろ食事の注文をしてくるけど」
ハッキリとした発音、とても耳に聞き取りやすい一文。
明瞭さはそれまでの一幕に区切りをつけられる程度には、確固たる影響力を有している。
「オレは、いつものにするとして。少年、君は何か食べたいものはあるかな?」
椅子から立ち上がって、その海原の色をした瞳がルーフの事を見下ろしている。
「食べたいもの」
問いかけられた、ルーフはしかして意識が内容の価値をフリーフォールよろしく降下させている事。
「えっと、じゃあこれで」
その事を自覚するよりも先に、ルーフの人差し指は机の上にあるものだけを、ちょうどハリが感触せんとしている膳の一つを指し示している。
選択に対した意味は無い。
たまたま近くにあったそれが、動かないでいた対象を適当に選択したにすぎなかった。
「なるほどね」
少年が右の人差し指を向けている。
エミルは内容を確認したのちに。
「魚のフライね、なんとも乙な選択をしやがる」
次に瞬きをする時にはすでに、エミルのくすんだ金髪は食堂にいる人々、彼らによって構成される喧騒。
日常の光景に溶け込んでいる、そこには何一つとして違和感など存在していなかった。




