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動きを止めるだけ

 ルーフはてっきり、唐突に自分の視界にだけ深夜が、丑三つ時が訪れたものかと思い込みそうになる。


 戸惑いは呼吸を荒くし、吐き出した二酸化炭素はしかし空気としての存在意義を果たそうとはしていない。

 気体であるべきそれは透明さの欠片を有すことなく、ルーフの視界に吐息は水晶のような煌めきとゼラチン質じみた柔らかさを主張する。


 少年の唇から吐き出された吐息はやわやわと揺らめき、不安定な曲線が内包した質量の軽さに耐えきれなくなり、やがて黒色の中に差し込む白い光へと浮上をする。


 浮かび上がるそれをルーフは下から、寝そべるような視点でぼんやりと見上げている。

 あぶくの移動を眺める。自分の体、唇の内側、喉の奥の空洞から次々と発生する空気の粒。


 規則正しいリズムを持っている、幾つかの空気の球が生まれては消えるを繰り返す。

 それを見ている、次第にルーフは自分が液体の中に囚われている事に気づき始めていた。


「──! ──!」


 声が聞こえてくる。

 それは黒々とした液体の外側から、ルーフとそう大して距離の離れていない位置から響いてきているようであった。


 返事をしようとルーフは考える。

 なにしろ液体の中に沈んでいるのである、音はほぼ完全に遮断されてしまっている。

 というか、人の声が水の中で聞こえるはずがない、確かそのはずだったが?


 ルーフは疑問を抱こうとした所で、しかしそんな事をしている場合ではないと素早く考えを改めている。


 悠長に情景描写に浸っている場合ではないのだ、このまま沈没を継続していればやがて体内の酸素、あるいはその他生命活動に必要な要素の数々。

 それらが底をつき、心臓が動きを止めるかそうでないか、明確となるにはさして時間を要すことは無いだろう。


「ゴボッ! ゴボブッ! ブブブググ………!」


 最初の衝撃が全ての波長を落ち着かせた頃合い、理解が追い付いた端からルーフは全身を液体の中でばたつかせていた。


 泳ぐつもりだったのだろうか。

 ルーフ自身がそこまで考えているかそうでないかは別として、質感的に水っぽい何かの中で体を動かすとしたら、せいぜい泳ぐか溺れるかのどちらか程度しかない。


 少なくとも今のルーフにしてみれば、とにかく冷たい空気を求めて腕を四方八方、やたら滅多らに振り回すより他は思いつきそうにも無かった。


 このままでは溺れてしまう!

 すでにルーフの聴覚は外部からの叫び声を拾う余裕もなく、自らに訪れている異常事態にどの様な対応をすれば良いのか、ただそれだけをひたすらに模索しようとしている。


 手探りはそのまま体の動きと連動する。

 だがルーフは肩関節がグルグルと稼働をする程に、すでに己の選択が手遅れの域に浸透していることにも気付き始めている。


 何の準備もしないままに、いきなり顔面が謎の黒い液体に包まれてしまった。

 一体何をどうすれば? そんな状況に的確な判断と行動を起こせられたというのだろう。


 ルーフは憤りにも似た疑問を胸に、やがて呼吸の連続性も保持できぬままに意識だけを手放そうとした。


 と、そこで少年の右側から大きく破裂を起こしたような音が水を通過して届いてくる。


 閉じかけた瞼の隙間。ルーフは不明瞭でありながら、水の中にしては嫌にクリアな視界の中で一つの手が、自分の首元に向かって真っ直ぐ伸びてきているのを見ていた。


 指は子供ほどには小さくない、充分な大きさのあるそれは成長を終えた人間の硬さが満ち溢れている。

 太い骨で構成されている、五本の先端がルーフの首元を掴み取った。


 圧迫感が意識に届けられる。

 指はルーフの大して肉ものっていない首元を、グレープフルーツを鷲掴みするように握りしめてきていた。


 首でも絞められるのだろうか、もしそうだとしたら右手で良かった。

 これでもしも左手ならば、ルーフは期待の中で根拠も無く、自らの喉元を締め付けるそれが右で以外の何者でもない確信を抱いている。


 思い込みは、世に広くテンプレートが伝搬しているそのままに、少年の想像は現実に大してなんら意味を為そうとしなかった。


 てっきり首でも絞められていると思っていた、それは実際ルーフの首元に力を込めていたことには変わりない。


 しかし右の手は少年の首を絞めるなどということはせずに。

 代わりと言うほどでもなく、五本の指は頑強な結束の元に少年の襟首を引っ張り上げていた。


「ぶば!」


 色の暗さゆえに、その広がりはどこまでも果ての無いものだと思い込んでいた。

 しかしルーフの認識は誤りでしかなく、液体は彼が思っていた以上に狭苦しい範囲のものだったらしい。


 ルーフは久しぶりの空気に、焦がれていたはずの質量を体に満たしながら。

 だが、どうにも呼吸が元通りに行われている事に対し、ルーフは無言の内で下らない違和感を抱かずにはいられないでいる。


 それでも、少年自身が何を思おうとも、肉体は生命活動を継続するための要素、ただそれだけを事務処理的に実行するだけだった。


 酸素を吸い込む、二酸化炭素を吐き出す。

 基本的な動作を回復させていながら、ルーフの眼球は早くも現状の把握を、状態に至った理由を貪欲に探ろうとしている。


 それは怒りに基づいている、いったい何処のどいつが自分に、陸上で溺死をさせるような凶事をもたらせたと言うのだ。


 怒りはこの瞬間においてのみ、ルーフと言う名前の少年に有効なる活力を沸々と漲らせようとしている。


「こんの………っ!」


 腹部を上下、膨張と収縮のリズムを二回ほど繰り返した後。


 ルーフは内側に溢れかえろうとしている激情のままに、あらゆる事象を忘れてたった一人の人物の元へと向かわんとしている。


 まずは首元に纏わりついている指を振り払うべきか。


 ルーフは手始めにと、腕を首元に伸ばしてみた。


 人間の肉と骨、皮膚によって構成された柔らかさを期待していた。

 しかしルーフの期待は指先に訪れず、少年の伸び気味になっている爪の先端は無機質で硬質な感触を音と共に彼の意識へと伝えている。


「気持ちは分かる、分かるけどな」


 振り払おうとした右の手が生の肉ではなく、まるで陶器のそれと同じ質感で作られている。


 ルーフが激情の中で、自らを制している右手の持ち主が誰なのか。

 考えるよりも先に、少年は首を上に曲げて声のする方へと視線を向けている。


「何にしても、今ここで下手に動いても逆に面倒なだけやって」


 そうやって目線を、海原のように青い色の瞳をジッとルーフの頭蓋骨へと固定させている。


 エミルと言う名前の男は、口元にいかにも大人じみた笑顔を作り上げていた。


「ほら? 相手さんも悪気があった訳じゃないだろうし?」


 エミルは若干の無理やりさも厭わないと言った風に、どうにかして少年の苛立ちを収めようとしているようだった。


「悪気が無いって………」


 液体の中、おそらくは魔法によって作られたであろう水の塊。

 黒々と波打つそこから救出したあとも、エミルの右手は少年の体をきつく握りしめたままとなっている。

 ルーフはそこからの脱却を諦めきれないままで、力技ではかなわないだろうと、精一杯の冷静な判断の中で彼は説得を試みようとしている。


「いきなり大量のインクくせーものにブチ込まれる、それのどこに悪意以外の何があるってんだ」


 ルーフは舌打ちをしたくなる衝動を何とかこらえる。

 音によって苛立ちを表現するよりも、少年の眼球は敵性とみなす対象から目線を逃そうとしていなかった。


「いやあ、これはなんとも」


 少年に睨まれている。

 琥珀の色をした瞳が燃え上がらんばかりの怒りを渦巻かせている。


 感情の対象を向けられている、しかして相手はルーフの抱く怒りに関しては何ら興味を抱こうともしていなかった。


「そんなに驚いてくださったのならば。このハリ、魔法使い冥利につきますよ」


 そう言いながら、ハリと言う名前の男は照れ隠しのつもりとして、口元ににやにやとした笑みを滲ませている。


 この男が何に対して謙遜を、とんだ独りよがりな恥じらいを見せているのか。

 

 ルーフは激情に身を委ねるよりも先に、眼球の方向が再び水の塊へと移されていた。


「転ばぬ先の杖、ですよ王様」


 ハリが楽しそうに、愉快そうに呟いて。

 唇が動くと同時に、男の指先では細くて小さな何かしらの道具がスッ……と空中を撫でている。


 水の塊に注目をしていたルーフは、ハリが手元に何を持っていたのか、そしてその動きが何を意味するのか。


 視界に留めることも出来ないまま、しかしながら見ていたところで少年にどれ程の理解を作りだせたと言うのだろうか。


 全てがルーフにとって不可解なものでしかない。

 不理解がやがて不気味さへと変化する。それを助長するかのように水のひと塊が「持ち主」の命令に従って形状を変え始めていた。


 ルーフがその水の中身に沈められていた時と同様に、外側から見てもそれはとてつもなく黒々としている。

 大きさとしてはルーフの頭部、つまりは十代の中盤に差し掛かろうとする具合の人間の顔面をすっぽりと覆い尽くせる。


 それ程には容量をたっぷりとさせている、黒い液体はうねうねと球体を空中に浮遊させている。

 それを見て、思えば、まるでルーフの思考を見計らうかのようにして、水は丸みを若干左側に偏る形で二分割されている。


 音はほとんどしない。

 周囲の喧騒、城の食堂に反響する人々の活動の音にいとも容易く掻き消されてしまう。


 だが、ルーフの耳には確かに水が割れたときの、液体が一滴こぼれたときのそれとよく似た音色が届けられている。


 チャプン。二つに分かたれた、動作はルーフの脳内に細胞分裂をイメージさせた。


 だが少年の個人的な想像とは反して、黒色はそれ以上増えることも、かと言って減ることもしない。


 分裂したそれは、ウネウネと形を変えて細長く変形をする。


 伸ばされて、薄くなる。

 二本の黒い筋がルーフの方へと、なんともうやうやしそうに接近をする。


 それは魔法であることには変わりないのだろう、そうだとすればなにか目的があるのかもしれない。

 何故なら、この世界において目的の無い魔法など存在することは出来ない。


 ルーフの頭の中で常識が、ほとんど無意識に近しい所で蟻の足音よりも静かに、密やかに通過をする。


 正体を把握し、理解を及ばせ、理由を求める。

 だがそれよりも先に、ルーフは「それ」に対しての感想を。


「なんだこれ、二枚のでかい昆布か?」


 感想を言わずにはいられないでいる。

 

 心からの言葉を、よもやこのような状況、場面で言葉にできていること。


 ルーフがその事に驚きを抱く。

 それと同時に。


「失敬な!」


 魔法の、つまりは黒くて自発的に浮遊を行っている水のひと塊。

 「それ」の持ち主である、ハリと言う名前の魔法使いが意見に対して反論を述べている。


「これのどこが昆布でありましょう? どうみても二本の雄大なる腕以外の何者でもないでしょう!」

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