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「何か久しぶりだな」
願いを叶えることは出来なかった、しかし諦めはすぐにエミルの内層にて自己完結を済ませている。
彼はあくまでも生理的な呼吸を、二酸化炭素の排出だけを一つ行う。
そうしながら、エミルの右腕は手近にあった空席に指を密着させて、体の方に引きずりよせる。
「……どうしたよ、そんな驚いたような表情をして。お互い、初対面という訳でもなだろ」
動作の中で彼は、その深い青色をした視線を誰に固定することもしないまま、誰かを見ないで質問文を口にしていた。
対象が曖昧で、あからさまにぼかされている。
そうしていながら、エミルの質問文が対象としている相手はとても明確なものでしかない。
彼はつまりの所この場にいる自分以外の人間。
これから食卓を共にしようとする、可能性に満ち溢れた二人の男について問い質そうとしているのだ。
エミルと言う名前の男が椅子の上に腰を下ろそうとしている。
いたって自然そのもので、本来ならば特筆に値するようなものですらない。
だがルーフは細やかな挙動をいちいち、一つずつ確認をしたくなるほど、それほどには思考を停止せずにはいられないでいる。
理由は幾つか少年なりに内層へ含まれている。
例えばルーフがエミルに対して引け目を感じていること、結局は彼を裏切る形としてこの場に留まることを選んでいたこと。
つい先ほどのこと、一分にも満たない時間の内に起きた出来事。
選択をしたのは他でもないルーフ自身であるはずなのに、彼はもうすでに自らの決意に後悔を抱きかけている。
「ああ、そう言えば初対面ではない………な」
これから展開されるであろう空間への予感も当然ながら、まさかエミルの方からこのような内容の追及をされる事になるとは。
予想だにしなかった、どうして予想しないといけなかったのだろう。
理不尽の矛先を果たして己に向けるべきか、他に理不尽と八つ当たりの名の元に振り回すべきなのか。
ルーフが答えを導き出せないままに、残された沈黙だけがピザ生地のようにペラッペラッと、どこまでも薄っぺらく引き延ばされようとしている。
終わりなきそれに、いつまでも埋められることのない空白がしんしんと降り積もる。
このまま沈黙を貫き通して、なあなあの空気感で場を流しても別にかまわないのではないか?
閉じた唇の内側、唾液と粘膜に包まれた桃色の肉がルーフに一つの甘言を囁きかけている。
実際問題、エミルの方は黙りこくっている少年に特に構う素振りも無く、沈黙の相手に強い関心を持つことをしていない。
答えたくない事に無理やり追及の手を伸ばそうとはしないだろう。
ルーフは可能性を抱いて、今しがた裏切ったばかりの相手に希望を見出そうとしている。
だが、その様につまらない中途半端を絶対に許さない相手がいたことが、現在のルーフにとっての最大かつ最悪の悪手であった。
「そうですねえ、アレは刺激的な出会いでした」
少年よりも先に、前を進むかのように男が唇を、舌をうごめかせている。
「ボクと王様の出会い。それは、その昔の昔。ろんぐろんぐたいむあごー。ボクが王様の令妹を八つ裂きにした、そこからお話は始まります」
説明的口調を展開するのは、エミルとルーフから見て机を一つ挟んだ向こう側にいる人物。
それは、その男は当然のことながら椅子に座っていて、ちょうど食堂のランチを半分ほど食べ終えていいるようであった。
男は口元ににやにやとした笑みを浮かべている。
まるで無垢なる子供とそそのかす、こ憎たらしい紫色の猫のように。
男にはちょうどそれらしき、正三角じみた形状の聴覚器官が左右それぞれに頭部から生えている。
それは眠子と呼ばれる斑入りの一つで、男の体にはちょうどネコ科の動物とよく似た特徴が表れている。
そしてそれは、ルーフにとってとても見覚えのあるもの。
あらゆる意味で彼にとって受け入れ難い、思い出においても、そして現在における視界においても少年にとって受け入れざるもの。
と、そういった個人的な都合と思考に関する嗜好はこの場合にはどうでもいい事である。
そんな事よりも、ルーフはどうにか意識を正しい形、本来あるべき方向性に留めようとしている。
意図的にそうしなくてはならない、それほどにはルーフは今すぐにでも内層に混乱の渦を巻き起こさんとしていた。
唇をじっと閉じる、もうそろそろ噛みしめると言った方が事実に近しくなるだろう。
それを知ってか知らずか、いや、ほぼ高確率で男は少年の動向を意識の内に認めていたに違いない。
「あれは久しぶりに刺激的なお仕事でした、貴重な体験をすることが出来ました」
男はそう言いながら、左の指を頭部に生えている三角形の根元。
頭部と耳の境、ホワッホワッと本棚の裏側に累積する埃のような感触の体毛を弄くりまわしている。
男は頭に指をくっつけさせたままで、口元にはやはり笑みが固定されたままとなっている。
「それはとても刺激的な体験です。しかし? 王様、その様子だとまさか貴方は先刻の出来事をお忘れになられたのでしょうか」
その笑顔は決して作られたものではない。
偽物ですらない、男は心から笑顔を自らの感情表現として使用している。
ルーフにはそれがどうしても、どうあっても信じ難いものでしかなかった。
「お前は何を言っているんだ」
ようやく唇を動かせられている、言葉を発したその音が自分のものであると。ルーフは最初の瞬間、意識の内に認めることが出来ないでいた。
「言っている意味が分からない」
だがその音は紛れもなく自身の声であると、ルーフは意識の下で認めるより他は無かった。
音は低く、それが怒りを意味していることを知るのにそう大して時間を要することは無い。
ルーフはいつしか自身が車椅子の上で身を、拳を強く固く握りしめていたことに気付いている。
左右それぞれに生えている五本の指は列車の連結器のように組み合わさり、しかし決して互いは交じり合うことは無い。
屈折した指の中身が、碌に手入れもされていない爪の白い先端に圧迫される。
やがて鋭さは少年のやわな手の平の皮膚を、肉を引き裂いて赤く生臭い出血へと至らんとしている。
しかし、痛みは臨界点へと到達することは無かった。
「少年」
声が聞こえてくる、ルーフは拳の力を抜くこともしないままに、とりあえずは音のする方へと目線を向けている。
そこにはエミルが居て、彼はすでに椅子の上に体の重力を落ち着かせているようであった。
「そんな風にしていないで、とりあえずは座ったらどうだ?」
エミルはその深い海のような瞳をジッとルーフの方に向けて、右の手で手招きをするようにしている。
「気持ちは分かる。このバカ……、じゃなくて、ナナセ・ハリの言い分が気に入らないのはよく分かるけどな」
エミルはそう言いながら、顔にはいかにも大人らしい誤魔化しの笑顔を作り上げている。
その様子を眺めて、ハリと呼ばれた男がへらへらと反論を述べている。
「嫌だなあ、エミさん。まったくもってフォローになっておりませんよ」
だがエミルは男の言い分を聞き入れることをせず、それ以上に重要な目的を最大の理由としていた。
「少年、君の妹に与えた気概に関してはいずれキチンと、真剣な場を設けて話すべきだったとは思っていたんだ」
エミルの言うところ、主張する旨が果たして本心からのものだったのだろうか。
そうであろうが、無かろうが、しかしながらルーフにしてみれば些末な問題でしかない。
どのみち、この道を選んだのは自分なのである。
「いや、その心配も必要性もない」
ルーフは膨れ上がって、確かに体の中身に存在をしていたはずの感情を、喉への圧迫感もお構いなしに腹部の暗黒へと飲み下している。
「俺だって、昔の事をいつまでも気にする程に元気を取り戻せたわけじゃないからな」
言われたことにいちいち怒れるほどに、肉体に活力を見出せないのは実際的な問題のうちの一つでもあった。
「そうか」
ルーフが、少なくとも外面においては行儀よくしおらしく机の前に車椅子を動かそうとしている。
エミルはその様子を視界に認めつつ、少年が机に体を寄せやすいように障害物を除ける気遣いに腕を動かしている。
「手を貸そうか?」
さて、机と椅子に最接近できたところでと。
車椅子のままでは普通の机で食事行為をすることは出来ないと、ルーフは自らの意思でこの不自由な、右側片方の脚部を損失した状態で移動をしなければならない。
エミルは少年一人でその行為をするのは困難を極めるであろうと、彼の判断は限りなく正しい在り方をしていた。
だが、ルーフは何故か、今この時だけは彼に助けを求めてはならないような。
そんな強迫観念が、何一つとして根拠もないままに少年の思考回路を電撃よろしく駆け巡っていた。
「大丈夫、です」
語尾を全て言い終えよりも先に、ルーフはどうにか練習した内容を今ここでフルに活用しようと試みている。
それは無謀な試みであった、何故なら少年はあくまでも「普通」の動作しか教えてもらっていなかった。
普通の怪我人が、己の不自由を補うために行うべき行動の補助と制限。
それは魔法でも何でもない、だから奇跡的に便利な事柄など何一つとして起きようが無い。
だから、少年が一人だけの力で無理矢理に体を車椅子から離して、たとえすぐ近くにある「普通」の椅子に移動すると言うだけでも。
今の彼には大ごとで、その分に掛け算をするように失敗もより大きな結果をもたらしていた。
「あ、あれ、うわ!」
深く感がる必要も無い程に、碌に体に慣れてもいない人物が単独行動をすればどうなるのか。
どうなるかは、ルーフ以上にエミルが誰よりも認知している事のはずで。
少年が悲鳴を小さくあげる、おそらく倒れたすぐ後にはエミルの右腕が彼の体を抱え直していたであろう。
予想できる展開、だがそんな普通を求めていなかったのは、少年と男の数少ない共通項であったらしい。
「? ?? 」
衝撃がいつまで待っても、待てども待てども訪れてこない。
目を開けば、ルーフの視界は夜が訪れたかのように黒々と変化させられていた。




