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蜂がぶんぶん飛んでいる

 もうすぐ素敵な時間が始まる。

 楽しい、楽しい。

 愉快なランチタイムが此処でもひとつ、この世界の数あるイベントの中。


 人の数、人間が呼吸と鼓動をリズミカルに繰り返す。連続体の中に瞬く星の煌めきのような、キラキラとした世界がここでも広がりを見せようとしているのだろうか。


 そうなんだろうか、ルーフはそう信じようとしていた。


 信じなければならない、氷のツノを無理やり飲み込んだ時の、冷たさが体の肉を引き裂こうとしているかのような。


 強迫観念はしかして、ルーフがたった今対面している現実の前では、粉雪の粒程度の意味合いしか有していなかった。


「そんなに緊張しないでください」


 呼吸が止まりそう、だけど心臓は悲しいまでの律義さで動きを止めようとしない。


 ルーフと言う名前の少年に対して、その男はなんとも優しげな声音だけを使っている。


「もしかして、こういうのって初めてなんですか?」


 どうやら彼なりに、その翡翠のような濃い色の虹彩の中で少年への気遣いを働かせようとしているらしい。


 仮定でしか考えられそうにない。

 そこにはルーフなりにきちんとした、理路整然によって構成されたかなめ石が胸の内に重さをもたらしている。


 一体何を言うべきだったのだろうか? 

 何が正解であったのだろうか、ルーフはすでに自分で考えられなくなっている。


 思考が堂々巡りの渦、蟻地獄へと沈み込もうとしている。

 実体のない、架空の体から次々と自由が奪われていく。感覚が失われていく、ルーフの耳には確かに男の声が聞こえていた。


 だが肉体は機能を失ったわけではない。

 むしろそれ位に思い切りが良ければ、白が黒に変わる、それ位の分かりやすささえあったのならば。


 どんなに良かっただろう。

 願いはしかし、小麦粉をひたすら噛むほどに虚しいものでしかなく。ルーフの耳は悲嘆すべき律儀と勤勉さにより、聴覚的情報を鮮明かつ正確に収集し続ける。


「こういう経験って、初めてだっていう顔つきですね」


 音は幾つかの集合で、反響はそれぞれに個別の線引きの内に個々の性質を確立している。


 情報は本来あるべき形を主張するかの如く、ルーフに現在位置の把握を要求している。

 無意識が、本来ならばエゴがそれを担うはずの現状把握を実行する。


 ここはとある建物。灰笛(はいふえ)と言う名前を持つ地方都市の、其処の中心街に居を構える魔術師たちの本拠地。


 人の声で「城」と呼称される、ルーフは今その巨大建造物に内包される食堂に存在を確立させていた。


 時刻はちょうどランチタイム、時計の針は午の刻を真っ二つに割り裂いている。

 城の食堂には沢山の人数が集まっている。充分な広さと机と椅子、その他の備品。


 設備的に考えて見て、完全なる新参者であるはずのルーフであっても、この場所がかなり完成度の高い設計がなされていることは容易に想像できる。


 想定されている事態として、食堂では大勢が一様に食事行為を行っている。


 食器が触れ合う音、汁気のあるもの、固形物、あるいはサラダの緑色をした新鮮さ。

 様々なものが触れ合い、その大体が人間の歯と歯茎、舌、捕食器官へと吸い込まれていく。


 音の中で、男性の声は全ての雑音をかき分けて、確実に獲物を捕らえるかのようにして少年を捉えている。


「緊張する必要はありませんよ」


 ルーフはやがて諦めるようにして、声がする方へと視線を移動させている。

 それまでただ光景を映していた、平和だったはずの視界はいとも簡単に対象物を理解してしまっていた。


 そこには一人の男がいた。

 若そうに見える、外見年齢的にはおおよそ二十代前半の内に見えるだろうか。


 男はその顔に笑顔を浮かべている、実に楽しげに、左の指がルーフに向けてゆったりとした手招きをクネクネ、ゆらゆらと作り上げている。


「さあ、こちらへどうぞ」


 招かれている。

 ルーフは動作を見て、どうしても次の行動へ体を動かせられないでいる。


「いきなりの話だな」


 思考の停止がやがて、ついにルーフの肉体へと影響を及ぼさんとしている。

 少年の沈黙によって生まれた合間を取り繕うかのようにして、彼の隣で声を発する影が一つあった。


「そんな、あやしいビデオの勧誘みたいな口ぶりを信用する輩が、今時いるとも思えんって」


 そう言いながらくすんだ金髪へ右の指を沈ませている。

 ルーフが視線を動かせば、そこには同じく若そうに見える男が一人立っていた。


「おや、そういうあなたはエミルさんではありませんか」


 エミルと名前を呼ぶ、彼に指摘をされた男が指の動きを止めていた。


「お久しぶりですね。どうしたんです? あなたがこんな所に居るなんて」


 男は笑顔を崩そうとはせずに、降ろしかけて指を自らの顔の方へと伸ばしている。


「何です? 何かあったんです?」


 質問をされている、エミルは音が問いかけた内容について、さして時間を有することもなく言葉を用意している。


「何も無いな。オレがここに居る理由は、此処がオレの職場で、それと同時に此処がオレの家でもある。それ以外の理由なんて、特にある訳でもねえよ」


 エミルはそう言いながら視線の先を男の方へ。


「今更何を言ってんだ。なあハリ、まさか忘れた訳じゃあるまいし」


 エミルに名前を呼ばれる、ハリは指で眼鏡の位置を軽く調整させていた。


 そのすぐ後に、ハリは笑顔のままで問いかけについての言葉を口の上へと用意していた。


「そんな、忘れる訳がありませんよ」


 それだけの事を呟いて、ハリと言う名前の男は手短においてあったコップに手を伸ばし、中身の冷や水で唇を湿らせていた。


「よりにもよってそんな面白い事を、ボクが忘れる訳がございません」


 ハリは至って落ち着いた様子で、コップの下をコトリと机の下に置き直している。


「とはいうものの、時間の量が多くなったことは否めない事ではありますよ」


 ささやかな反論をしている。

 その頃合いには、流石のルーフでも状況を、やり取りを理解出来るほどには冷静さを取り戻せていた。


「あんた方は、その………知り合いかなんかなんですか?」


 短く、誰にも悟られないように呼吸を整えながら。

 ルーフは体を、車いすを使って体を一歩ほどの距離だけ前に進めている。


 座った状態になる視点が、エミルにしてみれば必然的に見下ろす格好となっている。


「知り合いと言うか、なんというか……な」


 ルーフからの質問に対し、エミルは指の先を毛髪に沈めたままで。

 そのままの格好で、口元になんとも形容しがたい表情ばかりを浮かべていた。


 そんな彼に対し、ハリが笑顔の雰囲気をわずかに変化させている。


「なんです、エミルさん。そんなに恥ずかしがることはありませんよ」


 ニヤニヤとしている、いままで継続させていた笑顔とはかなり雰囲気がことなっている。


「ボクとあなたはお友だち、マブダチ、それはそれは、それはもうフレンドリーな間柄なんですから」


 ハリはエミルに冗談を言おうとしている。

 事実を理解する。

 それ以上にルーフは言葉の内容そのものよりもハリが、そういった名前の男が他人に向けて起こす行動に関して驚きを抱かずにはいられないでいる。


「友達………? こいつとあんたが?」


 適切な言い回しではない、言葉遣いの間違いを認める以上に。

 それ以上に、ルーフはエミルに対して異物感を、彼に対しての異常性を急速に膨張させようとしている。


「嘘だろ、何かの冗談やろ」


 ジッと、それこそまさに異世界からの来訪者を眺めまわすかのように。

 少年の視線の先で、エミルはようやく指を髪の毛から外している。


「そう思いたいのは、オレも一緒だよ……」


 右の手、義手で出来ている右側が頭部から離れる。

 無造作に揉みこまれたエミルの毛先は、食堂の天井から放たれる人工灯の白い光を黄色く吸い込み、通過させている。


「しかし、お前が疑問に思っている所はオレも復唱したいところだな」


 じっと視線を向けられている、エミルは追及の手を逆手に取るようにしてハリへと質問を打ち返す。


「お前の方こそ、こんな所でわざわざ昼飯とは。なんだ? 今日の天気予報は雨の後に雪でも降りしきるかもしれへんな」


 皮肉を込めたつもりだったのだろう。

 アイロニーの具合ならばしっかりと、紛うことなき純然たる赤の他人であるルーフにも汲み取ることが出来ていた。


 だがそれが目的の相手に無事に、何事も無く正しく目的地に届けられるとは限らないのは、世の中の悲しき通例とでも呼ぶべきなのか。

 呼べばいいのか、そうすれば少しでもマシになるのだろうか。


 しかしながら現実は他人事を止めようとしなかった。


「まあまあ、そんな所に佇むのもアレです。アレですから、どうぞどうぞ」


 なに一つとして具体的な表現をしようとしない。


 そうしていながらも、ハリが何を主張しようとしていることは、エミルとルーフには嫌と言うほどに理解できてしまえていた。


「あー……っと」


 ハリが手招きをしている。

 エミルは男の動きを、彼のインク色をしたギターピックのような聴覚器官が前方。

 己の居る方角へと向けられている、エミルはそれを確認しながら。


「どうする、少年。君は合席を望むかい?」


 一応は仕事相手である少年の自由意思を尊重するつもりなのだろうか。


 ルーフは質問文が音声となって、食堂内の空気に震えが新しく追加される。

 音の主がいる方を見上げ、そうして視線を動かすうちに予想を一つ考えていた。


 だが考えはすぐに新しく鮮度の高い否定文に圧迫死させられている。

 別にエミルは少年の自由意思の有無に関しては、それこそタンスの裏側に累積する綿埃か、あるいはそれ以下の価値しか鑑定しようとしていない。


 否定を望んでいる、彼はルーフにこの状況への否定を。

 つまりは、ハリと共にランチタイムを送るという、可能性の否定をしてほしかったのだろう。


 悪意や嫌悪と言うほどにははっきりとはしていない、白でもなければ黒でもない。

 灰色の中途半端さの中、エミルはどうにかしてこの場面を否定してくれる他人の声をひそやかに求めているようであった。


 願いを託された、それはせいぜいチョコレート菓子に銀色の天使が現れてくれないか。

 その程度の願いでしかない。


「俺は」


 叶えられることは出来た、否定文を作ることぐらいならば誰でも出来る事のはずだった。


 だがルーフはそれを選ぼうとしなかった。


「ここで、ここで大丈夫だ」


 自由意思の名の元に、選択をするという目的に則って。

 ルーフは他人の願いを無視することにしていた。


 悪意も嫌悪も、何もない。

 せめて理由とつけられるとしたら。


「何となく、俺もここが良いなとは思っていたんで」


 あるがままの事由を、脚色を加えることなく言葉に変えている。


「そうか」


 エミルは相手の返答を受け止め、特にそれに関して思うことは無く。


「そう言うことなら、それでいいかな」


 微笑みを浮かべる。

 微妙な表情は諦めか悲しみか、あるいは納得の微熱によるものか。


 判別をしようとして、だがルーフはそれよりもハリの手招きに応じるための動きを。

 次の展開へと意識を割く必要があった。

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