ロマンチックを止めないでおこう
呟かれた言葉はキンシの、そういった名前を使っている魔法少女の声には間違いなさそうであった。
そして問われた相手、エンヒは少女がその希薄な内容の文章に何を、どの様な意図を踏まえて言語化しようとしているのか。
若い大人の魔女である彼女には、おおよその想像をつけることが出来ていた。
理解している、その上でエンヒはあえて相手の不備を追及する素振りを口元へ作成している。
「その人、とは、つまりどの人のことを言っているのかしら?」
彼女の暗色の瞳が、虹彩と同じく暗い色合いの増粘剤で構成されている化粧品に補強された睫毛の下で、ユラユラと鬼火のようなゆらめきを見せている。
ジッと眼球から放たれる、それはまるで光線のように強い存在感を有し。
だが決して視界に認識することは出来ない。
限りない透明さの中で確かな存在感を放つ、力の先端に立たされたキンシは途端に口元をもごもごと動揺させている。
「え、えと、えっと、その……つまりですね」
質問文を作り、それを会話の軌道へ車輪を回転させたのは、他でもない自分自身であること。
キンシはその事を自覚して、だが感覚はどうにも上手い具合に肉体の神経の筋と同調させられないでいた。
その様子を見て、魔法少女に他意めいたものが無かったことを充分に確認したのち。
「ううん、やっぱり何でもないのよ」
エンヒは追及の念を送ったことを、軽い謝罪と共に手を止める素振りを見せていた。
「ごめんなさいね、いつまでも昔の話ばかりしていたって、仕方がないわよね」
彼女にしてみても、いつまでもすでに終わった事柄について語り明かしたかったという訳ではない。
忘却を望むというほどでもない、そこまで拒絶感を抱くわけでも無く。
ただ、エンヒは特筆する理由も無いままに、どこか先入観めいた感覚の中で話題の終了を望んでいたにすぎなかった。
だが若い大人の魔女が望むことを、しかして魔法少女は受け入れようとしなかった。
「仕方がないということは、それを僕は認めません」
一瞬目の前を何かで塞がれたか、そうでなければ椅子の足がポキリと折れて、体を支えていたはずのものが跡形も無く消え去ったものかと。
エンヒはそんな錯覚に襲われていた。
小規模な爆発は彼女に眩暈をもたらした。まばたきを数回ほど繰り返す、さしさわり身体に異常が起きた訳ではなかった。
その事に彼女が気付いた、その時にはキンシは次の言葉と思わしき音を唇の上に奏で始めている。
「あなたの過去は、かつての全ての記憶と、そして、やがて訪れる可能性にすべて等しく価値のあるものなのです」
エンヒはもう一回だけまぶたを上下させる。
それは動作として認識することも出来ないほどの短さでしかない。
だが今の彼女にとっては重要な意味を持つ確認行為であった。
「キンシさん?」
彼女は口を動かそうとしていた。
そうすることで、言葉を使って彼女はキンシと言う名前の少女がジッと、その緑柱石の瞳にとても形容しがたい光を宿している。
キラキラとした、いつの間にか視線にさらされているのは自分の方であること。
エンヒは立場の逆転に驚きこそすれ、だが不思議なほどに不快感を抱くことをしてはいなかった。
する側とされる側、立場の上下関係がどのようなものであるか、だとか。
この世界の生物、とりわけ人間社会に限定するとしても、コミュニケーションの間におけるポジションの上下というものは存在をするはず。
と言うのは、エンヒという名の魔女が保有する持論の数々の一つ。
実際、この場面においても優位性は魔法少女の方。
つまりはキンシの、円いレンズの眼鏡をかけた少女がオーナーとしての権限を所有している。
それが事実であって、少女自身が自覚しているかいないかは別として。
少なくともホストに降ろされたエンヒには、無自覚でいられるほどの朴訥さを発揮できるはずもなかった。
ゆえに、その上でエンヒは暗色の色を持つ眼球の奥で疑問を回さずにはいられないでいる。
魔法少女が自分の方へと視線を固定している。
それは追及の色を持ち、あともう少しでやがては詰問、尋問へと変化する可能性を十二分に秘めている。
唇が、血液の色を灯した二枚の薄い肉が再び言葉のために動き出す。
「過去を否定するべきではありませんよ、ツバクラ・エンヒさん」
その形は微笑みを生み出している。
一方的な肯定はとても無責任な響きを持っている。
だが同時に、エンヒは自身の胸の中で認可に対して、さながら氷点下のコーンポタージュの如きぬくみを感じずにはいられないでいる。
それは喜ばしい感情であり、そうでありながら彼女の心は熱量に違和感を覚えずにはいられないでいる。
「うん、そう……ね」
これ以上相手に優位性を持たせてはならぬと、生存本能じみた強迫観念がエンヒの喉元を締め付けるように圧迫している。
息がつまる、それでも彼女は呼吸を止めることを選択するわけにはいかなかった。
「わたしも、なにも昔の事を何もかも、丸々全て忘れ去りたいと思っているわけじゃあないのよ?」
いつしかエンヒは自身が右手を、指を真っ直ぐと静止のジェスチャーを作っている、様子をどこか他人事のように視界の下側で認めている。
「それでも、そんなにわたしの話が……」
優位性を取り戻したかった訳ではない、と言えばそれは嘘が含まれる供述となってしまう。
だがエンヒはささやかなる欲求以上に、机を挟んだ向こう側にいる少女の好奇心をどうにかして把握しなくてはならい。
そうしなければ、あっという間に自身の肉を喰われてしまいそうな。
恐怖心が強い存在感を放っている、と思えばエンヒの心はまたしても素早い訂正を加えている。
「……いいえ、これは違うわね」
喰われるという表現はこの場合には正しくは無いだろうと、エンヒは自身の内層にて判別を速やかに行っていた。
「うん、確かにあの人とわたしに関してのことを簡単に終わらせたら、それはつまらないわね」
ファミリーネームを呼び返す、エンヒという名の魔女は少女への答えをついに獲得していた。
「せっかくだから全部話しちゃいましょう。そのほうが」
すでに「止まれ」のジェスチャーは形を崩している。
エンヒの指先はその代わりにと、すでに半分以上空となっているガラス製のコップへと伸ばされていた。
指は硬さに触れて、握りしめられたものが彼女の唇へと運ばれる。
やがて縁から冷たい液体が流れ落ちる、紅い彩の隙間、コップに口紅の破片が残された。
「面白いって、たぶんあの人たちも言うでしょうしね」
一口分のぬるい水で潤された、彼女は言葉の中でもう一度ここにはいない誰かの事を思い返す。
「とは言っても、言えるだけのことはすでに語り尽くしたような気もするのだけど」
そうしてエンヒはコップを元の位置辺りに戻した後に、羽毛に包まれた細い指の先、少しだけ鋭く伸びている暗色の爪をカチリカチリと突き合せていた。
「あれを、「瞼」を閉じる作業をあの人がしている。っていう話はしたわよね?」
エンヒは爪と爪を触れ合せ、他のメンバーに返事を求めない確認を形式的に行う。
それはキンシにとっても見覚えのある爪の形をしている。
魔法少女が視線を右側に移していたのは、そこから自分以外の人間が発する動作を確認していたからであった。
「最初に話していたことって……」
そっとささやくような言葉の響き。
窓の隙間からそよぐ春風のように、メイと言う名前の小さな魔女がエンヒへ確認事項を伝えている。
「つまり、その……ツバクラさんは「瞼」といっていたかしら?」
エンヒは視線を魔法幼女から外し、その隣側にすわる魔女へと焦点を定めている。
「それはつまり、私たちがいつもつかっている言葉と、おなじ意味のものとかんがえていいのよね」
カチリカチリと音が鳴る、エンヒはいつしか音の数が増えていることに気付く。
見ればメイが、エンヒと同じく春日(体に鳥類の特徴を持つ人間の種類のこと)である彼女が自身の薄桃色の爪を触れ合せているのが見える。
「あの光っているものが、いろんな呼びかたをされていることは知っていたけれど。まぶたに例えるのは初めてきいたかも」
メイは頭の中で一つの現象について考えている。
それはエンヒとその他にも共通している。
ほんの一時の共感性の中。
いとも容易く崩れ去る列を象徴するかのように、言葉を発していたのはオーギという名の魔法使いであった。
「おれらんトコだと、ベテランな魔法使いの先輩方が割かし多いからな」
彼は今しがた場に流れていた緊迫感などまるでお構いなしと言った風に、どこか他人行儀に必要と思わしき情報を頭の中で検索している。
「その影響かな。あの現象を古臭く「傷」だとか、「神の瞼」だとか呼んだりするんだが」
言葉の途中でオーギが眉間、あるいはもっと別の所、表面上には概ね確認することのできない領域において嫌悪感をもよおしている。
その事に誰かが気付く、それよりも先に若き魔法使いはエンヒに向けてシニカルな笑みを投げかけていた。
「まさかその言い回しを、アンタのようなバリバリの魔術師から聞かされるとは、思いもよらなかったけどな」
茶化していることは彼の挙動からおおよそ察せられる。
だがそれは知り合い程度の付き合いでようやく通用する感覚であって、果たしてほぼ初対面でしかないエンヒに彼の言葉遣いが通用するかどうか。
メイをはじめとして、若き魔法使いの左側に座る女性陣が一抹の不安を抱いている。
だが彼女らの杞憂は無駄に終わった。
「言い回しに懐古的なものがあることは否めないわね」
魔法使いからの詮索に対し、エンヒはつい先ほどの動揺とは全く別の動作、晴れ間の海原のような穏やかさで底の見えない解答を速やかに用意している。
「これも、わたしが魔女になるためにいろいろと教えてくださった、尊敬すべき先輩の受け売りですもの」
取り扱う対象に対した差異は無いはず。
「それに、仕事柄古いものには強く関心を持たずにはいられないのよ」
エンヒはそう信じようとした。
だが体は嘘をつけない、眩暈が存在していない事を彼女は眼球の奥、喉の柔らかな内壁、奥歯の白い溝に健全なる平衡感覚を認めるしかなかった。




