人間はそれだけでなにかの病気なのだろう
キンシは本音を言ってしまえば、柏手の一つでも盛大に打ち鳴らし、食品の尊ばれるべき到来を慶賀せしめんと。
ぜひともそうしたい、それがキンシという名の魔法少女が現時点で強く望んだ行動の欲求ではあるが。
しかし、その様な無法じみた所作を少女の先輩にあたる、オーギという名の若い魔法使いが許すはずも無かった。
「ほれほれ、嬉しいのは分かるから。だから、とりあえずその飢えた獣の如き鼻息を静かに抑えろ」
左側にしんねりとした色合いの視線を送りながら。
しかして、オーギ自身もまた来訪に関しては歓喜の念を隠しきれていないように見える。
「せっかくの食事、会食。なけなしの知識と良識で、どうにか上品に決めこもうといこうや」
そう言いながら、魔法少女と若き魔法使いは自身の目の前に差し出された食品。
食事。
自らのために、時間と空間を同時に孕みながら作りだされた料理の一片に輝ける視線を落とす。
彼らの前に差し出されたそれは、小さな土鍋に沸々と熱を放ちながら湯気と共に存在感を主張している。
綺麗な円形のなべの底、円形には薫香を振りまく味噌の熱い汁が満たされている。
濃厚で、そこが見えない。豆味噌の濃縮は器に残された熱の量に反応して、気泡の破裂をポコポコと繰り返す。
眠りに落ちかけた火山を、抑制の効かぬ吐息の一端を爪切りで千切りとったかのような。
熱の量のど真ん中に、熱い汁にまみれた面の太さが聖なる獣の臓腑と似た重なり合いを魅せている。
「美味しそうです、美味しそうでありますよ」
キンシはもう、辛抱堪らないと言って様子で左指を竹製の箸の一膳へ伸ばさんとしている。
少女の肉体、そこに縛り付けられた意識は今、食事への率直なる欲求においてのみ実体のある意味を有していた。
だが、欲望にまみれた腕の先端においても、一旦の考慮を至らせられるほどにキンシはまだ理性を捨て去ってはいなかった。
「えっと、その……先に頂いてもよろしいです?」
すでに指の間には使い捨ての食器が握りしめられている。
そうしていながらも、キンシは机を共にしている相手に気遣いの一つを実行していた。
その唇は母の乳を欲する赤子と遜色なく。
じっと、円い眼鏡を通過して緑柱石の瞳がジッと答えを、今か今かと待ち望んでいる。
その様子、なんとも分かりやすい態度、表情の肉の動き。
それらを見て、魔法少女の向かい側に座るエンヒという名の若い魔女は、柔らかく困惑したように相手へ返事をしている。
「ええ、気にしなくていいのよ。食べ物に限らず、美味しいものはアツアツの内に食べ尽くさないとね」
肯定の意を示す言葉でありながら、そこには看過できない感情の意図が頬に軽く触れる。
意図的であったのか、そうでないのか。
それを判別するためには、たったそれだけの声音だけでは証拠が少なすぎている。
いずれにせよ、魔法少女にしてみれば相手側の同意が確認できた。
それだけで彼女にとっては、何よりも得難い答えとしての価値を有していた。
「それではいただきましょう、ぜひともいただきましょう!」
キンシは眼鏡の奥で、いよいよ自動車両の灯火にも引けを取らぬ輝きを放ち。
箸を携えたままで、それを離す余裕すらも無いままに少女は両の掌を胸の辺りでぴったりと合わせた。
「いただきます」
食事への感謝、食事をすることへの喜び。
現時点の自身を取り巻く、生命における最も基本的な活動を実行できる。
その事実への賛辞を送りながら、キンシらは用意された料理に箸を伸ばしていた。
「いやいや、お先にすみませんね」
後輩に先手を取られていた、だがオーギは特にその事に関しては何を思うような素振りは見せていない。
もしかしたら彼自身こそ、本音を言えば誰の許しも必要としない程に願望は強かったのだろうか。
左右、両隣で若い人間が食欲に甘く身を委ねている。
気配を感じ取りながら、メイはそのこと自体に関しては何かしらを考えることをしようとしない。
それ以上に椿色の瞳を持つ小さな魔女は、彼らが唇を触れさせようとしている、料理の方に関心を強く惹きつけられていた。
「すごい湯気……。それは、なべ焼きうどんのようなものなのかしら?」
右か左か、メイはどちらともつかぬままに質問の文章をポツリと呟いている。
彼女にとっては、その料理を肉眼で確認することこそ、それこそ生まれて初めての事だったのだろう。
さて、観察をしようとした所で。
メイはどちら側に視線を固定したものかと。二秒ほど考えた後で、結論は左側へと決着していた。
魔女が椿の花弁に似た瞳を射るように向けてきている。
だが注目の的とされた、キンシという名の魔法少女はその事に気付く余裕も無い程で。
少女はいよいよ待ち望んでいた時、瞬間がが己の鼻先に触れようとしていると。
喜びに体を打ち震える以上に、左の指に携えられた箸が小さな土鍋の中、柔らかな集合体へとそっと挿入されていく。
先端がズプズプと間に沈む。
しばらく熱の中を固いそれで掻き回し、感触を確かめた後に指は決定的な要素を確保している。
魔法少女の指先に重さが宿った。
その次の瞬間には少女の指は天へと上昇し、竹製の濡れた食器の細い間には濃密な湯気の源泉が握りしめられていた。
それがうどんの麺であること。
メイが気付くのに一拍の遅れを要したのは、それがあまりにも彼女にとってのイメージとかけ離れているものであったからだった。
それは小麦粉の白さを完全に忘却している。
豆味噌の濃厚な色素に染められている、麺はしかしながら煮崩れを起こしているといった雰囲気は一切含まれていない。
汁の気配を大量に帯びていながら、若木のような太さのあるそれらは箸の圧迫に潰されたり、断絶されることをしていない。
キンシは左手の中、握りしめられた箸の先端に麺の筋を眺め。
うっとりとした表情で、欲望のままに熱の源泉へと唇を寄せている。
あともう少し、一センチ程度で接触と言う答えを導き出さんとする。
その寸前で、少女はさながら自分自身に抑制と煽りを与えるかのように全身を一時停止。
そして左右の頬を均等に膨らませ、ツンと尖らせた唇の細い隙間から。
「ふう、ふう、」
と、鋭い空気の流れを熱に向けて吹きつけている。
連続は一定のリズムの上に、キンシの胸がふいごの様な動きを繰り返す。
その度に麺がまとっていた湯気の揺らめきが震える。
だが、キンシが何度も吐息を吹きつけたとて、熱の正体が消滅をするようなことはいつまで経っても訪れようとせず。
むしろ少女が消えることを望むほどに、源泉はより強く圧倒的な質量をもってして凌駕を起こそうとしている。
そんな予感を、抱いたのは魔法少女が魔女のどちらか、あるいは彼女らとは全く別の誰か、何かだったのだろうか。
明確なる判別が為されることに、果たして意味があるかどうかすらも解らない。
いずれにせよ疑問が肉の重みを得るよりも先に、キンシは唇の間に料理の一片を頬張らせていた。
「はひ、はひひ、はふ」
十分と思える程度には冷却作業を行ったのにもかかわらず、キンシは熱量に辛抱がつかぬと言った様子で湯気の幾つかを口からこぼしている。
ハフハフと、水底の魚が呼吸をするように、キンシは口の中に膨れ上がる存在感を許容できる範囲にまで放出することを試みる。
それだけで、ああ、この魔法少女は実は猫舌であったのだと。
魔女のどちらか、あるいはその両方、彼女らが言葉を必要としない感覚の中で発覚に至らせている。
思考の最中に、キンシは紆余曲折の果てでついに料理を腹の内に収めることに成功していた。
「……、……」
じっと唇を閉じて咀嚼をしている。
それは単にマナーだとか、エチケット等々の観点を考慮したと言えば、それはそれで間違いはないのだろうが。
しかし、と考えていたのはメイの方であった。
キンシの、自らをそう名乗る魔法少女の食事は、広く一般的な観点からみたとしても静かで。
その静謐さ具合は、おおよそ常識の範疇に組みこまれるべき動作の連続と呼ぶに相応しいのだろう。
だがメイは、少女による一連の動作がまさか上品さを演出するためのものではないのかと。
そう疑いたくなる、考える理由としては幾つか要項があれども。
もしかしたら、この魔法少女は単純に食事を独占したいだけなのかもしれない。
美味しいと思うもの、美しいと思えるもの。
素晴らしい、素敵。
それらの宝石のような輝きの粒を、キンシと言う名前の魔法少女は他人と共有することを、少なくとも好ましいと思うことは無い。
外見上は他人に優しく、共有をする素晴らしさに共感性を持たせているようでありながら。
その実は、内心美しいものを自分だけものに留め、限定させ続ける。
だからこそ少女は唇を閉じて、静かに食事をしている。
咀嚼音を体の中、自分の内側にだけ反響させる。
完全なる個人の世界、其処にこそ求める幸せが待ち構えているのだと。
メイは少女の事を予想している。
思いつきはやがて疑問へと梢を伸ばしている。
さて次にする事といえば、せいぜい身の無い確認事項を言語に変換する位なものだったのだろうか。
メイは口を開きかけて、しかし思いついた行動の無意味さに自分で静かに気付いてる。
少女が何を強く望み、信じているのか。
その事を指摘することになんの意味があるのだろう。
ただ一つ確実なことは、それはメイと言う名の魔女にとっての優先事項の範疇ではないこと。
それだけは確信をもって言えることであった。
「っぷ、はあぁー」
魔女が答えを得る。
時を同じくして、魔法少女は欲望の結果を己の肉の中へと組みこませていた。
「ああ、ああ……。なんて美味しいのでしょうか」
閉じられた口の奥、喉の暗闇には噛み砕かれた食物の気配がまだかすかに残されている。
薫りはやがて、秒を数歩ほど跨ぐかの内に唾液のねばつきへと吸い込まれんとされる。
しかし僅かな一片であっても逃すまいと、キンシは笑顔で口内の暗闇を隠していた。
「素晴らしい。素敵、それ以外の何がこれに相応しいのか。……僕にはおそらく、理由のある答えを見つけることは不可能なのでしょう」




