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進入禁止区域に訪れた春

 さて目的地が視界に確認できたところで。

 ルーフはふと、自身に関する新たなる事実を現実において発覚させていた。


「ここが食堂………?」


 手の中で車いすの車輪を握り、全身のためにゴム製の円形を前方へと回す

 腕による動作によって、ルーフと言う名前の少年が身を預けている移動補助器具は、使用者の意図の上で建物の床の上をひそやかに転がる。


 道具に頼る形でありながらも、それは間違いなく少年自身の意思による行動の一つ。

 それに合わせて視界も移動し、その度にルーフの眼球には次々と絶え間なく新鮮な視覚情報がもたらされていた。


「広いところだな」


 少年がそう小さく呟く。

 言葉の通りに、その食堂はちょっとしたバスケットボールの試合ならば、楽々と実行できそうなほどに空間が広がりを見せている。


 ルーフは驚きに目を見開いたまま、一拍の内に今まで通りぬけてきたはずの道路へチラリと視線を向ける。


 今までは一直線の廊下の上で、よもやこの建造物には廊下と窓と、床と天井。後は………、「患者」を収容するための病室。

 ただそれだけによって、この「城」と呼ばれている巨大な建造物は構成されているのではないかと。


 ルーフがよもやそのように、あまりにも非現実的な空想に浸れる程には、この少年はそれまで別の空間に触れる機会を与えられていなかったことも要因の一つとされるのだろう。


 理由はその他にもいろいろと、ルーフと言う人間の一個体(いちこたい)だけでも数えたらキリがない。


 内層への問いかけ以上に、そんな事よりもルーフ本人はとにかく目の前に広がる光景。

 生まれて初めて見る風景。

 記憶の何処にも含まれていない視覚的情報。

 それらが放つ未知に満ち溢れた事柄を、己の内に取り込むことに夢中となっていた


「広い、それに………他人(ひと)がこんなにも沢山………」


 正確に言えば少年はまだ食堂の内に入ったという訳ではなく、区画された場所より少し離れた、隣接する通路に体を位置させている。


 少年と、彼を監視と言う名目の上でこの場所まで誘導した、エミルと言う名前の男。


 彼らはどうやら、いわゆる所の裏道からやって来たことになるらしく。


 ルーフがそれに気づくことが出来たのは、彼から見て対岸の方角に位置する方に開かれた廊下の一つ、そこから次々と人の姿が往来を繰り返している。

 その様子を見た。ルーフはついでに時計の針が、そろそろ点を向く頃合いであることを再確認していた。


「やれやれ、よりにもよって一番混んでいる時に来ちまったかもな」


 眼球の丸みによって得られる、全ての情報をルーフが脳内で一つずつ整理させようとしている。

 その右側、横の辺りに立ってエミルがかすかな溜め息と共に状況へのコメントをこぼしていた。


「ガヤガヤと、これじゃあ落ち着いて時間を過ごすのは無理な話そうだな」


 大量の人間の喧騒がエミルの呟きをいとも容易く飲み込む。


「………」


 言葉の内容が会話を望むものであると、ルーフは無言の内に察しておきながらも、それらしい返事すらも用意することが出来ないでいる。


 思うところは色々と、別段隠すなり渋るなりをするような必要性もない。


 そのはずなのに、どうしてかルーフは唇を動かすことが出来なかった。

 理由はあまりにも明確、いたって単純で。

 彼はとにかく人の多さにその身を、内層に潜む意識の集合体を圧倒させてしまっていたのだった。


「食堂って言うと………もっと小さいものだと思っていた」


 結局何ひとつとしてそれらしい見解を生み出せずに、ルーフはぼんやりと感想文だけを舌の上で転がしていた。


 それは見たまんまの印象、今までに彼自身が抱いていたイメージとの相違に関すること。

 ルーフと言う名前の人間にしてみれば、初等教育用の施設の体育館並みに広さがある、そんな食堂は今まで一度として見たことが無かった。


「なんつうかさ? もっとカウンターと机と椅子と、後はペラいメニューしかない。冷暖房もロクに効いていない。そう言うところじゃないのか?」


 すでに実物たる数々が目の前に実在しているというのに、ルーフはどうしても確認を他人へ求めたくて仕方がない。


「間違っちゃいないが、それにしても随分とレトロなイメージを持っているな」


 少年の戸惑い以上に、エミルは彼の固定概念に思わず笑みを浮かべそうになるのを堪えている。


「利用する人間が毎日毎日、大量に居るからそれなりに広さも必要でね。それどころか、これでもまだ収容力が足りないと苦情が窓口に送られてくるくらいなんだよな」


 愚痴をこぼす要領でエミルは少年に光景の凡庸さを主張しようとする。


 男にしてみれば日常の光景に、いちいちエクスラメーションマークをおっ立てている場合などではなく。

 エミルの、その海のような青色の瞳は前を、そこに広がる人々の流れと質量に一つの懸念を抱いていた。


「しかし、これでどうやって飯を食うための場所を確保したらよいものか……」


 人々の喧騒にまぎれて、エミルのぼやきは確かな存在感を失わないままにルーフの鼓膜に震えを及ばせる。


 具体的に対象を指し示す言語を必要としないままに。

 ルーフは男がそのくすんだ金色の毛髪の下で、昼食をするための場所に着いての不安を抱いている事を察していた


「あんなにも人がたくさんいると、普通に座るのにもちょいと苦労しそうだし。それに………───」


 ルーフは言葉の続きを、ただ単に思ったままの事柄をそのまま口にしようと。

 しかけた寸前のところで、彼は意図のもとに口を堅く閉じている。


 エミルが提示した問題点は、何の考察も必要としない程度には分かりやすく単純明快で。


 つまりは食堂と呼称される空間を、自身たちが使用するためのスペースが果たしてこの混雑に余分が残されているのか、そうでないのか。

 そういった感じの話になる。


「せめて二人掛けできる程度のスペースが残っていれば良いんやけどな」


 エミルが右側の腕、義手でモシャモシャと自らの毛髪に軽く触れている。


 彼は足を前へ、食堂の内部へと運ばせながら、その深い青色の瞳は自らの要求に沿える対象を検索している。


「仕事の都合も考えれば、いっそのこと別の方法を選択する必要性も……」


 ブツブツと呟く、エミルの後姿を追いかける格好でルーフもまた食堂の床の上へ車輪を回している。


 前方をゆったりと歩く男がそうしているように、ルーフもまた視線をあちらこちらへと漂わせる。


 そして、その中でルーフは一つ提案を思いついた。


「どうせなら、二人で手分けして探した方がええと思いますよ」


 特筆するような迷いも逡巡も無く、自然と口にしたアイディアの一つは、しかしながら即効性の毒のようにルーフへ後悔をもたらしていた。


「っと………、監視対象が提案していい内容じゃないっすよね。そうですよね、失礼しました」


 今までがかなり自由度の高い状態であったが故に、ついつい忘却しかけていた。


 あくまでもルーフは、今ジッと無言で彼の事を見下ろしているエミルにとって監視対象で、仕事の内に取り扱う要件の一つ。それだけでしかない。


 そうであるからこそ、ルーフは自らが言語として議案した旨をすぐさま否定しようとする。


 しかし。


「まあまあ、ちょっと待ちたまえ」


 少年がその、乾き気味の唇へ否定文を繰り出そうとする。

 それをいささか古風な口調で静止したのは、エミルの音声と右側の指先であった。


「ふむ、うん……確かに君の言う通りかもしれないな、少年」


 何を言われるものかと、身に緊張感を走らせて構えている。

 少年に対し、エミルの方はなんともあっけらかんとした表情で、彼の提案を飲む旨の意思表示をしていた。


「それもそうだよな。一人よりも二手に分かれた方が早く話が済みそうだ」


 言うよりも早くと、エミルは迷いなく足の方向をルーフがいる場所とは別の所へ運んでいる。


「適当なところに見つけたら、確保よろしくな」


 そう言って、男はくすんだ金髪の下で笑顔を浮かべたままに足を動かしていた。


「え、えっと?」


 取り残されたルーフは、訳も解らないままに右の指先を虚空に漂わせる。


 そうすることで男の心理でも読み取ろうとしていたのだろうか。

 少年の行動はおおよそにおいて無意味に終わり、彼は人々の喧騒の中で独り取り残されていた。


「監視するんじゃ、無かったのかよ」


 思わず不満めいた独り言を静かに口走る。


 ルーフはそこで、ごく単純な悪魔的思考を瞬間的にひらめかす。


「一人だけにして、大丈夫だと思っているのか?」


 もしもここで、この場所から自分が逃げる算段をつけたら。


 考えたことを実行する、ルーフの頭の中で空想の手段が幾つもの筋を思考に刻み。


 そうすることで、やがて彼は一つの答えへと至る。


「いや………この体で自由に逃げられる場所なんて、ありやしないか」


 発芽した思考を土足で踏み潰すかのように。

 ルーフは自らの意識へ自虐と自己嫌悪を送る。


「何を、下らない考えているんだ、俺は………」


 視線が下へと落ちる。

 下がる首の先。ルーフは琥珀と瑠璃、右側と左側で色も材質も異なる眼球の丸みに自らの肉体。足の部分、ちょうど瑠璃色がある右側の足へ、その欠落を入院着の上からそっと触れて撫でている。


「もし」


 つい最近、数日前、時間に数えても大した面積も体積もない。

 ルーフはありとあらゆる他人の声、喧騒、どことなく自分に語りかけているような音すら無視して。


 もう一度、自己嫌悪の沼底に深夜のような暗闇と冷たい静けさを注ぎ入れようとする。


 だ今のところはちょうど食堂が混雑しているように、そう何度も自己の世界に浸れる程の余裕もなかったらしい。


「もしもし! 少年よ」


「うあ? はい!」


 ルーフの右側の鼓膜付近に、エミルが音声を直線状に届けている。


 少年が驚いた表情で顔の向きを変える。

 それを見ながら、エミルは右の親指でとある方向を指し示していた。


「ボーっとしとらんで。席が見つかったから、そこに世話になろうや」


「あ? ああ………えっと」


 返答なり返事なりをするよりも先に、ルーフは霞ががった意識のままでエミルの後を追いかけている。


「いやあ、よかったよ。ちょうど良い所にちょうど良いのがいたから」


 少年が後をついてきているのを確認しながら、エミルが小さな喜びを口の端に滲ませている。


 言葉をそのまま受け取るとして、それはつまり食堂の空き席が見つかったことを意味している。

 その程度の事ならば深く思考を働かせる必要も無く、容易く把握できることではあった。


 のだが、しかし、ルーフはどうにも男の言葉に引っかかる部分があった。


 疑問は行動の内に段々と膨れ上がり、やがて行き着く果てに決定的な結果をもたらす。


 それはつまり、エミルが見つけたという席のところにそれは在って。


「あ」


 それを目にした、両の眼球に許された視覚でそこに居た人物たち。

 

「お前らは………!」


 彼と彼女について、少年はどの様な言葉を生み出せていたのか。

 それは彼自身にも不明で、結果はどこまでも未知数でしかなかった。

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